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『後漢書』の検証

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志賀島から出た金印が偽作である可能性がきわめて高いことは書きました。金印と関連するものとして、

倭奴国が光武帝から印綬を下賜されたということが『後漢書』の東夷伝の倭の条にあることも前回書きま

した。ただこの場合、印綬と記されているだけで、実際は金印であるのか、銀印であるのかはわからない

というのが事実です。さらにこの記事を裏付けるもう一つの記事が同じ『後漢書』巻一の光武帝紀下巻に

あります。

(建武中元)二年春正月辛未、初めて北郊を立て、后土を祀る。東夷倭奴国王、使い

を遣わして、奉献す。


とあります。

東夷伝の記事と上記の記事から、建武中元2年(西暦57年)に倭奴国王が光武帝のもとに使いを遣って

朝貢し、印綬をもらったことは、ほぼ確実ということになります。

どうしてほぼ確実という曖昧な表現をしたのかと言いますと、よく知られていますように『後漢書』は、

後漢が滅亡した西暦220年という時代から200年以上も後の元嘉9年(432年)頃とかなり遅くに

成立した後代史料であるからです。本来なら『漢書』、『後漢書』、『三国志』という歴代王朝順に成立

するはずですが、魏志倭人伝で有名な『三国志』の成立(233年〜297年)よりも百数十年から二百

年近くも後に、『三国志』の前の出来事を撰述しているので、史料としてどこまで正確であるのかという

史料性格という基本的な問題があります。


その上やっかいなことに、『後漢書』の撰者である南朝劉宋の范曄(はんよう)は、それまでの史料を整

理して撰述する上で、史料の解釈間違いをしたり、主観をかなり交えて書いているふしがあり、記述のま

まを信用することができないという困った問題もあります。

『後漢書』の問題点

范曄の明らかな間違い、改竄の具体的な例をいくつか見ておきましよう。

『後漢書』の東夷伝・倭の条は、『三国志』魏志倭人伝を下敷きにして書かれていることは、文頭の書き

だし、文の構成や記述内容から明らかにされています。

(1)魏志倭人伝で

その俗、国の大人は皆四、五妻あり、下戸もあるいは二、三婦

という3世紀当時の倭国の有力者は一夫多妻の習慣があるという記述に対して

『後漢書』では
国には女子多く、大人は皆四、五妻あり、その余もあるいは両、あるいは三

として、女子が多いということを書き加えています。

(2)また魏志倭人伝で

その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐する

こと歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。



という記事に対して、『後漢書』では

桓・霊(桓帝と霊帝)の間、倭国大いに乱れ、更更相攻伐し、歴年主なし

としています。

魏志倭人伝では、今でこそ倭国は女王を戴いているが、もともとは男王がいてそれが7,80年続いた

という意味で、本(もと)と今という対句表現であるのに、范曄は読み違えをしてそれが倭国の乱と思い

こみ、 卑弥呼の230年頃から7,80年前と考え、桓帝と霊帝の間と勝手に年代を決める過ちを犯し

ています。さらにひどいことは、魏志原文では「倭国の乱」とあるところを范曄が生きている時代、南北

朝・五胡十六国時代の群雄割拠と下克上が当たり前という時代認識から、「倭国の大乱」と間違った表現

をしています。

古代史や考古学本などで、よく「倭国大乱」と書いているのを見ますが、それは范曄の誤りを無批判に引

き継いでいるということになります。

そして范曄はご丁寧に「歴年主なし」とまで断定しています。もちろんこのようなことは、魏志倭人伝に

は一切書かれていませんので、范曄の誤った論断です。

(3)范曄の不注意な読解の極めつけは

魏志倭人伝に国名だけが書かれている部分があります。

次に斯馬国あり、・・・・・(中略)・・・・、次に奴国あり。これ女王の境界の尽

くる所なり。


という部分です。范曄は上記の文の最後に出てくる奴国を行路記事に出てくる奴国と同じだと思いこみ、

『後漢書』では倭奴国の朝貢記事の後に

倭国の極南界なり。

としています。魏志倭人伝には奴国と書かれた国名が2つ出てきますが、行路記事にある奴国と女王が支

配する境界とされる奴国は、文脈から考えてもやはり同名の別の国と考えるのが妥当だと思います。

このように『後漢書』撰者の范曄は、基礎史料となるものをかなり改竄したり、間違った解釈をしている

ことがわかります。

そうしますと先の倭奴国の朝貢記事も再検討する必要があります。

『後漢紀』の証言

そこで、范曄は『後漢書』を撰述するにあたって、『東観漢紀』を主に、そして『後漢紀』を本に著した

とされていますので、その『東観漢紀』と『後漢紀』の該当部分を見てみることにします。

『東観漢紀』は、後漢の明帝の命によって班固らが「世祖本紀」と列伝、載記など28編著しました。そ

の後安帝の命で劉珍などの撰によって、建初・永初期の紀・表と四伝を加えました。

その後も加えられ、霊帝の熹平年間(172年〜177年)に一応完成しました。

文字通り同時代史料と呼ぶべき一級史料です。

ですがその後散逸が続き、現存するのは他の文書に残る逸文を集めた輯本24巻が残るのみです。

それで『東観漢紀校注』の光武帝紀を見てみましたが、倭奴国に関する記事は見つかりませんでした。も

とのものには多分あったと思いますが、現存する部分にはないということだと思います。

次に『後漢紀』を見ることにします。
『後漢紀』30巻は、東晋の袁宏(328〜376年)によって、光武帝から献帝(23年〜220年)

著されたもので、非常に貴重な史料です。

その『後漢紀』巻八には、写真のように

二年春正月辛未、初めて北郊を起こし、后土を祀る。丁丑、倭奴国王使いを遣わし

て、春献す。


とあります。北郊を起こした日が辛未で、倭奴国王の使いが来たのが丁丑だと言うことがわかります。春

献の「春」は「奉」の間違いだと思いますが、この史料によって建武中元2年(57年)に倭奴国王が後

漢に朝貢したことは、歴史的事実であったことが裏付けられたということになります。

百済史の問題点

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倭国と密接な関係の百済

 『日本書紀』にも百済に関する記事が多く出てきます。継体紀を読んでいて、継体紀の紀年に大いなる

疑問を持ちました。そこで年代を考える上で、頻出する百済の記事を細かく検討すれば、その疑問も明ら

かになるのではないか、と考えました。

 ところで百済の歴史といえば、『三国史記』が挙げられます。ところが『三国史記』はかなり後の12

世紀の成立ということと、大部分が中国史書を下敷きにしていることから、かなりの史料批判が必要だと

言われています。今回再度『三国史記』の百済本紀を通読して、その史料性格上の問題点を具体的に記し

ておこうと考えました。朝鮮半島の歴史や文献資料に精通されている方にとっては、もはや常識の部類に

属するとは思いますが、私自身の研究ノートという意味も込めて、提出しておきたいと思います。

百済本紀の問題点

 百済本紀には始祖伝承から説き起こされていますが、客観的にその実在が確かめられるのは、『晋書』

帝紀に登場する百済王余句からです。(以下読み下しは西)

咸安二年(372年)六月、使いを遣わして、百済王余句を鎮東将軍・領楽浪太守とする。

とあります。これが初めて中国史書に登場する百済王です。この百済王余句は、『三国史記』にある近尚

古王のことであろうとおおむね考えられています。

 余句以降の百済王で、中国史書と『三国史記』の王と合わない王が多少ありますが、決定的なものは余

慶(蓋鹵王)の後の牟都です。『南斉書』の百済伝の前文は欠落していますが、その部分は『册府元亀』

にあり、それを見ますと

〔建元〕二年(480年)三月、百済王牟都使いを遣わして貢献す。

そして牟都を使持節・都督百齋諸軍事・鎮東大将軍に除正しています。

また『南斉書』の百済伝には、牟都の次代の牟大の遣使記事があり、除正時の詔勅で牟都のことについて

ふれています(左の写真 赤線部分)

〔永明〕八年(490年)正月、・・・中略・・・太(牟大)を亡祖父牟都を襲いて

百済王と策命す。


とあります。ここの部分は地の文ではなく、詔勅ですから錯誤や書写間違いが起こりにくいところです。

 ところが『三国史記』では、東城王(牟大)の項で分注の形で興味深いことが書かれています。(右の

写真 赤線部分)まず『南斉書』の上記の記事を引用し、

而して、三韓古記には牟都が王為るのことなし。また案ずるに牟大は蓋鹵王の孫にして、蓋鹵第二子の昆支子なりて、その祖を牟都とは言わず。則ち(南)斎書の載する所、疑わざるべからず。

として、『南斉書』の記述を採らず、『三韓古記』の方を採用するとしています。

これまで見てきましたように、この『三国史記』の記事は間違いであることがわかります。

ですから『三国史記』、少なくとも百済本紀は安易に使うことはできず、中国史書や『日本書紀』の記事

との徹底した対照を行い、かなり厳密な史料批判が必要であるということを示しています。

樟葉の宮はどこか?

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 久しぶりの書き込みとなります。無料で使わせて頂いているので、文句は言えないのですが、

このYAHOOブログは書き込みはしやすいのですが、重さの関係もあるのでしょうが、字数制限が

あり、欄も小さくて、書き込みがしにくいという難点があります。それで最近はもっぱらミクシィー

の方に書いていました。http://mixi.jp/show_friend.pl?id=655681

 先日、枚方で文化財の復元をやっているOさんという方からメールとお電話をいただき、樟葉宮

の伝承地とその周辺をご案内していただく機会がありました。

樟葉宮とは

 『日本書紀』の継体紀によれば、大伴金村や巨勢男人が越前まで行き、継体に天皇に即位するよう

にお願いに行きましたが、金村や男人の真意を疑った継体はその申し出を辞退します。一方継体は、

その裏で、日頃から知っている河内の馬飼荒籠に密使を送り、大伴・巨勢・物部の大連や大臣の真意を

探らせます。馬飼の荒籠からの連絡を聞いた継体は、即座に決断をし、すぐに河内の樟葉にやって来ま

す。現在の枚方市の楠葉と考えられているところです。

 樟葉にやって来た継体に対し、再度大連・大臣は即位を懇願しますが、継体は断りの儀礼を行って、

即位を断りますが、大連・大臣の熱意に押され即位したとあります。この即位をした地が樟葉宮とい

うことになっています。

 枚方市の交野天神社の中に、この樟葉宮伝承地があり石碑(写真)が建っています。またそこには貴船

神社が移築されています。今のところ、この地が樟葉の宮であったかどうかは、遺跡も遺物も見つかって

いませんので、わかりません。

樟葉宮を考えていく上で

 興味深いことは、継体紀にある樟葉宮で即位した記事の部分は、『日本書紀』の編集段階で日本人によ

て書き加えられたことが明らかになっています。わざわざその部分を加えているのです。

 この事実から、継体は請われて樟葉にやって来たのではなく、河内馬飼荒籠と連絡をとって、侵出して

きて、拠点としたのが樟葉であったと考えられます。そのような視点から考え直すと、樟葉宮はいわゆる

宮殿ではなく、侵略の最前線基地ととらえるなおす必要があるようです。

 実際に樟葉に行き、さらにそのすぐ北の男山に行きました。この山には有名な石清水八幡宮がありま

す。ここの展望台から見ると、目の前には北から桂川、宇治川、木津川が合流している模様が手に取るよ

うにわかります(写真)。この地を掌握すれば、淀川はもちろんのこと、この3大河川も管理することが

できます。

 そしてこの河川の対岸には、サントリーの山崎工場が見えます。山崎の津があったところです。

今城塚古墳の東南部に筑紫津神社という神社があり、古代の港があったと考えられています。古代歌謡の

催馬楽には、難波の海から大小の船が漕ぎ上って、筑紫津まで、もう少し頑張れば、山崎まで上れるとい

う内容のものが残っています。

 またこの筑紫津にそうように、淀川右岸には古代山陽道が通り、山崎まで行って、淀川を渡り、男山の

麓をかすめるよう通っていました。さらに男山の東側には、ほぼ南北に古山陰道が通っていました。この

道を北にとれば丹波へ、南に行くと大和へ入ることができます。

この地は、山陽道と山陰道が交わるところでもあったのです。水路も陸路も掌握できる土地であったとい

うことです。

 このような地勢を見ますと、継体は近江から宇治川(写真)を一挙に下って、この地を確保したと想像

することができます。

まだ樟葉宮は見つかってはいませんが、このような視点からとらえなおす必要があるのではないでしょう

か。





 

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女性天皇 2

前回、北花内大塚古墳のことを書きました。そしてこの古墳が記・紀にある飯豊皇女のお墓

である可能性が高いことも、述べました。飯豊皇女については、記・紀、特に『日本書紀』を

読むと、非常に興味深いことが書いています。

清寧紀

 清寧紀に、飯豊皇女が突如出てきます。それは角刺宮で男性と接したが、何ともなく、以後

男性との交わりを断った、というものです。そして同じく清寧紀には、有名な億計・弘計の2

兄弟を播磨で発見し、子供がなかった清寧の跡継ぎとして、この2兄弟に皇位を継がせること

にした、と書いています。

 ところが、この兄弟は互いに譲り合ったため、姉の飯豊皇女が角刺宮で臨時で皇位について

政を行った、と次の顕宗即以前紀には書かれています。そして飯豊皇女が亡くなった後、弟の

弘計が顕宗として即位した、と言うものです。

 この件は、非常に不思議な話しで、そもそも顕宗・仁賢は2兄弟ではなく、一人の人物であ

ろう、という研究者さえいるほど、やっかいな説話です。

『日本書紀』の画期的研究

 ところが、このような顕宗・仁賢架空説や飯豊皇女即位架空説は成り立ちません。私の知って

いるアマチュアの研究者の中にも、継体架空説を唱える人がいます。実は、このような架空説な

どは、根本的に成立しないのです。

 それはこのブログでも紹介しました森 博達先生の一連の研究、特に『日本書紀の謎を解く』

(中公新書)によって、どのような人によって、いつ頃『日本書紀』が述作されたかが明らかに

なったからです。この研究によって、『日本書紀』は第1巻から書き始められたのではなく、

巻14の雄略天皇紀から書き始められたことが明らかになりました。それも日本語を理解しない

当時の中国語(唐代北方音)による中国人によってです。これらの正式中国語で書かれた紀の各巻

を森先生は、α群と呼んでいます。これらのα群が書き終えられた後、日本人によって、巻1から

13までが書かれました。これらはβ群と呼ばれています。

 森先生の中国音韻と古代中国語文に基づく一連の研究は、日本の文献史学において画期的なも

ので、文字通りノーベル賞にも匹敵する価値あるものです。

 さて、清寧紀は雄略の子供である清寧のことについて書いたものですから、α群に属します。

日本語が理解できない中国人が綴ったものですから、当然何らかの記録資料がないと、架空で

書ける訳がないのです。そして飯豊皇女が即位したこと、顕宗・仁賢がいたことは史実と考え

なければなりません。

 もしこれを否定しようとすれば、中国音韻論と古代中国語文に基づいて、自ら分析をして、

森説が成立しないという、根拠を示さなければなりません。

森説が正しいと思われるのは、別の研究で雄略紀から記されている暦法がことなり、暦法からも

α群とβ群が整然と分かれていることが明らかになっているからです。

飯豊皇女について

 では、飯豊皇女について考えてみましょう。そのためには、まず雄略から考えなければなりま

せん。履中と葛城の黒媛の間に市辺押磐皇子が生まれます。雄略は、この市辺押磐皇子を謀殺し

ます。そしてまた葛城の円大臣を焼き殺し、その娘である韓比売を略奪婚し、円大臣の葛城の

土地や民も手中にします。雄略とこの韓比売の間に生まれたのが、清寧です。

清寧は、このことから半分は葛城系と言ってもよいのです。飯豊皇女は、先の市辺押磐の妹と

言う説と子供という説があります。顕宗即位前期では、飯豊は市辺押磐の子供となっており、

問題の顕宗・仁賢の姉と言うことになっています。ところが履中紀や『古事記』では、飯豊は

履中の子供で、市辺押磐と兄妹ということになっています。

 このこともβ群がα群より後に書かれたことを如実に物語っています。なぜなら日本書紀が最初

から順次書かれたものであれば、履中紀が書かれ、それより少し後に清寧紀・顕宗即位前紀が書か

れるはずで、このような錯綜した状況に気づくはずです。

 このように見てきますと、雄略以降は雄略によって壊滅的打撃を受けた葛城の勢力が清寧に跡継

ぎをさせ、実態は葛城の飯豊皇女が実権を持ち、その間に播磨から2兄妹を呼び寄せ、即位させた

ことがわかります。そして雄略系の勢力は、中心の座から追い落とされたことになります。

考古学から見た事実

 雄略から仁賢までは、およそ5世紀の半ば頃から後半にあたります。雄略が宮を置いた泊瀬の

朝倉は奈良盆地東南部に当たり、葛城は盆地西側になります。5世紀の半ば頃、盆地西側の葛城

地域と東側では、同じ鉄製品でも明確に違う形態をとります。それが後半になると、葛城系のもの

に盆地全体が、「統一」されたようになります。

 このことは「考古文化 第27号」で「葛城南部の古墳が語るもの」として書きました。飯豊皇

女即位の問題は、考古学的にも傍証が得られると思っています。

邪馬台国問題は、まず文献上の問題

邪馬台国問題がまず文献上の問題であると言うことは、前回で述べました。

それは何よりも邪馬台国なり、卑弥呼が中国史書に書かれているという資料上の問題である

ことから明かですし、まだまだ実年代が不明な考古学では明確に対応する時期がほとんどわか

らないことから、積極的に考古学を援用することが難しい点も述べました。

魏志倭人伝を中心とする文献資料の徹底した資料批判が第一義の課題であることは、述べました。

この作業を可能な限り完全にやった後に、ほぼ該当すると想定される考古学の遺跡や遺構、遺物を

参考にすれば、文献解釈と考古学の両面からの成果はかなりなものが期待できます。

ところが文献解釈において、極めて不十分にしかなされていないと思います。このような状況で、

さらに一知半解の考古学の成果を援用しているところに、問題を解明するのではなしにますます

混乱におとしめているとしか思われません。

中国文献を解釈する上ではその先行文献を見極め、その用法に従って解釈するのが漢文の特質に

基づいているものであり、特に後代のわれわれ外国人には唯一の方法だと言うことです。

魏志倭人伝の史料批判がいまだに十分になされていない例を出してみましょう。

安易な原文改訂をしない!

これは「邪馬壱国」論をひっさげて、’70年代颯爽と登場した古田武彦氏の提唱した前提です。

安易に原文を改訂しないで、あくまでも原文に書かれていることから分析をしていくというのは、

非常に大事な姿勢です。解釈する人の考えや思いから、都合が悪いからここは原文が間違っている

のだろうというのでは、恣意的な解釈を許すことになり、このようなことが許されるなら無数の解

釈が生まれ、意義のある論争など行えるわけがありません。その点では、古田氏の提起は当たり前

といえば当たり前のことですが、その後の邪馬台国論争をそれまでのものとは段階を画したものと

した点では、非常に意義あるものでした。

他方、この格率にこだわりすぎて現存する魏志倭人伝にまったく誤りがないとの思考呪縛に陥ってい

ることも事実です。

例えば、魏志倭人伝には「所 有 無 與 儋 耳﹑ 朱 崖 同」という倭国の風俗を書いたところがあり

ます。この文をこれまでの日本の学者は全員、古田氏も含めて、有無する所 儋 耳﹑ 朱 崖と同じ」

と読み、日本の気候や風俗は 儋 耳﹑ 朱 崖つまり海南島と同じだと解釈しています。前後の文面か

ら言えば、確かに倭の地は温暖であり、南の方のものとよく似ているということになります。

ところが張明澄氏が指摘するように、中国語で読むならばそのような切れ方はしないということです。

張氏は中国語と言っていますが、客家語ではないかと私は思っています。張氏によれば、次のような

切れ方をします。

所 有  無 與 儋 耳﹑ 朱 崖  同

所有=すべては 、儋 耳﹑ 朱 崖と同じもの無し  と言うことになります。

これでは意味がまったく反対になります。

張氏も言っていますが、所有は現代中国語でも頻繁に使われ、すべてという言う意味です。そして

無 與という語もセットとしてよく使います。

これは現代中国語だけでなく、3世紀代とそれ以前の史書で私自身も、「所有」と「無 與」を調べ

ましたが、頻繁に使われています。逆に「所有無」を調べましたが、一例もありませんでした。

これらの結果から、ここの文は明らかに間違いで、「無」の文字が紛れ込んだと考えるのがよいこと

になり、原文では「所 有   與 儋 耳﹑ 朱 崖  同」であったと考えられます。

「一字一句も原文を改訂しない」という方法論は、史料批判を行う上での大前提ではありますが、厳

密な分析をした上で、問題点が出てくれば、それを明確にすることが例え「原文改訂」であろうとも、

文字通りの史料批判ではないでしょうか。

このようなこと重要な問題でも、文献史学では取り上げられていません。

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