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邪馬台国問題のポイント |
文献史学
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indigo2sgi さんに教えていただいた京大人文研の好太王碑拓本が |
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現在、今城塚古墳を中心とした継体関連の遺跡を拾っていっています。 そうしますと、どうしても考古資料だけでなく、文献資料にも目を通 す必要性が出てきます。文献資料の中でも特に、継体について詳しく 書いている継体紀は重要なものです。『日本書紀』や『古事記』という 文献資料は8世紀代の成立で、後世の粉飾や削除などの可能性があり、 そのままストレートに使うことができないとよく言われます。確かに そのような注意が必要ですが、森博達『日本書紀の謎を解く』で詳細に 分析されているように、雄略紀以降は日本語を解さない中国人述作者に よって書かれたものであることが明らかになっています。音韻の研究から 、これらは唐代北方音で書かれていることも明らかになっています。継体 紀もこの中国人述作者によって書かれていますので、書かれる前の原資料 があったことは間違いありません。継体紀の冒頭は次のようになっています。 {{{男大迹天皇【更名彦太尊】譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。 振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顔容(女+朱)妙甚有(女+徴)色、 自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井、【中、此云那】納以爲妃。 遂産天皇。々々幼年、父王薨。振媛廼歎曰、「妾今遠離桑梓。安能得桑梓。 余歸寧高向、【高向者、越前國邑名。】奉養天皇。」}}} 男大迹天皇またの名彦太尊は、誉田天皇の5世の孫、彦主人王の子なり。 母は振媛という。振媛は活目天皇の7世の孫なり。天皇の父、振媛の顔容が 女+朱妙にして甚だ徴色有るを聞く。近江国高島郡三尾の別業より、使いを 三国の坂中井(中、これをナという)に聘し、納めてもって妃とせしむ。 遂に天皇を産む。天皇幼年にして、父王薨ず。振媛すなわち嘆いて曰く、 「妾は今遠く桑梓(故郷)離れたり。いずくんぞよく膝養を得るや。 余は高向(越前国の邑の名なり)帰りて寧じ、天皇を奉養す」と 別業と言うのは、別邸という意味で彦主人が実際にいたところは何故か書かれて いません。別業は、中国の24史の中で『北史』『隋書』『旧唐書』に用例が 見られ、限定された時代に使われ、なおかつ北方音で書かれていることがわかり ます。森氏が分析したとおりです。この別業があったとする三尾は、現在の高島郡 高島町三尾にあたり、そこには冠・馬具などまさに王を思わせる鴨稲荷山古墳が あります。ここの石棺は淡いピンク色で、一見阿蘇ピンク石を思わせますが、二上山 の鹿谷寺(ろくたんじ)の弱溶結の流紋岩質凝灰角礫岩質溶結凝灰岩です。また継体が 育ったとされる越前には、椀貸山古墳という古墳があります。継体の子供の墓という伝承 がありますが、この古墳の石室には石屋形があると言われています。 一方、近江の湖北にある山津照神社古墳も石室内に石屋形があり、さらにその中に石棺が あったと言われています。 近江と越前は隣国ではありますが、継体紀にあるようにかなり密接な関係があり、同時に この2国は肥後とも密接な関係があったことが推定できます。
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