<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>ちょっと考古学</title>
			<description>アマチュアの考古学研究会を作っています。専門家のように毎日勉強しているわけでもなく、仕事の合間にやるという気楽なスタンスでやっています。= タイトル =
= タイトル =</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>ちょっと考古学</title>
			<url>https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/banner/banner.gif?1110650689</url>
			<description>アマチュアの考古学研究会を作っています。専門家のように毎日勉強しているわけでもなく、仕事の合間にやるという気楽なスタンスでやっています。= タイトル =
= タイトル =</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24</link>
		</image>
		<item>
			<title>仁徳陵の陪塚収塚古墳</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;div&gt;先日、仁徳陵の｢陪塚」（ばいちょう）収塚古墳の前方部の端部が見つかり、同分の輪郭が復元できた、記事が５月２９日付けの朝日新聞の朝刊に出ていました。この収塚古墳と深く関わることについて、かつて触れたこと（拙稿「古墳時代考古学の諸問題」『市民の古代第１７集』ビレッジプレス社１９９６年４月所収がありまして、そのことを思い出しましたので、ここで再度提起をして、皆様の率直なご意見・ご感想を伺いたい、と思います。そのきっかけとなりましたのは、『天皇陵を発掘せよ』三一書房１９９３年２月所収の執筆者の一人藤田友治の一文を読んでからのことでした。そこで藤田は、好事家出会った税所が意図的に目的を持って仁徳陵前方部を掘ったと断定し、確信犯である、との決めつけを行っていることでした。税所が「清掃」したのは、前方部の２段目（図１）であり、本来ならあり得ない場所から石室を見つけているので、好事家として知られる税所にしてはおかしなことだ、素朴な疑問を持ったことです。それで前方部前面にある陪塚を見ると、問題の収塚を初め、源右衛門が前方部の裾線に平行に列んでいる（図２）ことでした。これらの事実を踏まえ、前方部２段目の石室は仁徳陵を作る前にあった前方後円墳のもので、収塚などは、その古墳の陪塚であって、そのためにその古墳に墳丘主軸を揃えたために、前方部端部線に平行になった、とかんがえました。とんでもないような話ですが、そのように考えるのが最も合理的なように思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;図１&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/92/63240992/img_0_m?1435732731&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;432&quot; class=&quot;popup_img_2047_1580&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　図２&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/92/63240992/img_1_m?1435732731&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_1447_1023&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/63240992.html</link>
			<pubDate>Sun, 21 Jun 2015 18:45:13 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>中久保氏の講演会</title>
			<description>&lt;div&gt;８月２３日（土）、新沢千塚側のクリ－ンセンタ-橿原で『激動の５世紀と橿原の遺跡-渡来文化の導入-』』と題して、中久保辰夫氏（大阪大学埋蔵文化財室助教）の講演会があり、その講演を拝聴しました。何度か、過去に訪れたことがある新沢千塚の墳丘を横に見る場所で、懐かしく思いました。その講演の中で中久保氏は、まず「５世紀の東アジア情勢と倭国」と題して、『宋書』にある倭の五王の記事を紹介し、５世紀代の倭国の政治社会を探る手がかりとして、野中古墳に焦点を当て、古市古墳群群の内実について述べられました。その後渡来人と橿原の集落遺跡について、渡来人がもたらしたものなどについて論を進められました。時間不足のためか、論点が今一つ分かりにくかったのですが、所々で余談のように話されていた以下の問題点は興味深いものでした。&lt;br&gt;
&amp;#9312;野中古墳に馬具が埋葬されていないのは何故か。&lt;br&gt;
&amp;#9313;３つの埋納坑の底部が一致しないため、野中古墳にも埋葬施設が見つかるのではないか。&lt;br&gt;
&amp;#9314;渡来人のもたらした土木技術により、大型の古墳を作るのは簡単になったはずなのに、古墳が小さくなっていったのは何故か。&lt;br&gt;
&amp;nbsp; &amp;#9312;については、その当時馬具はまだ貴重なものであり、何らかの記念のようなもので、子孫に受け継いだ可能性があるのではないか。.文字通り伝世馬具。または、馬には乗っていなかったという事も考えてみるべきであると思いました。&lt;br&gt;
　&amp;#9313;については、その可能性はあるが、図面だけで憶測を広げず、発掘またはトレンチを入れるなどするのがよいのでは。難しいことだが、そういう努力もしてほしいと思います。&lt;br&gt;
&amp;nbsp; &amp;#9314;については、大きな古墳を作る意味がなくなったなどが考えられますが、また考えを進めてみたいです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; 思いつくままに、感想を述べましたが、これからもっと考えていきたいと思います。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/62803094.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Sep 2014 18:45:50 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>飛鳥の都塚古墳について</title>
			<description>昨日（８月１３日）、テレビのニュ－ス番組などでは、奈良県の飛鳥にある都塚古墳の墳丘調査で、これまでに類例の無い、特異なピラミッド状の積み石による段築を持った構造が明らかになり、当古墳がある地域が古代の豪族である蘇我氏の地域であることなどから、蘇我の稲目の墓ではないか、と大きく報道されていました。その有力な根拠として、当古墳の特異な段築が高句麗の有力者の古墳に似ており、当時高句麗と交流が強かった蘇我氏が候補に挙がり、今回の結論に到った、と言うのが論拠のようです。このことについて、少し考えてみたいと思います。&amp;nbsp; まず、有力な論拠として挙げられている高句麗の古墳について少し調べてみました。例えば、『高句麗の歴史と遺跡』森浩一監修・東潮・田中俊明編著１９９５年中央公論社）のＰ１７０にある高句麗積石塚の所類型とする図に依れば著名な高句麗の将軍塚古墳の平面図断面図が掲載されており、その図をよく見ると、確かに石垣状の列石で作られていて７段あります。しかし、何よりも高句麗の将軍塚は石室が最上段部にあり、他方都塚は最下段部にある、と言う明らかな違いがあります。他方、積石状石垣で段築を持ち、高句麗の将軍塚古墳のように最上段部石室を持つ古墳として思い出されるのは、岡山県北房町（現在の真庭市）にある大谷（おおや）1号墳です。この大谷1号墳では、天井部も含めると5段となります。現在は、発掘調査後保存の為、コンクリ－トで固められていますが、こちらの方がより高句麗との類似正が高いのではないでしょうか。ちなみに、この古墳よりは後の時代に成立した元禄検地帳には、この辺りは、太宰（たいさい）という地名であったことが書かれており、大谷１号墳は吉備太宰の石川王の墓である可能性が高い、と思われます。詳しくは、『終末期古墳と大谷1号墳』（１９９６年　平井勝・近藤義郎・猪熊兼勝・門脇禎二　司会　葛原克人　大谷1号墳シンポジウム　大谷1号墳シンポジウム実行委員会　参照）この古墳の現在の状況は、&lt;a href=&quot;http://cms.top-page.jp/p/maniwa/3/4/26/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://cms.top-page.jp/p/maniwa/3/4/26/&lt;/a&gt;をご覧下さい。都塚古墳より高句麗の古墳に近い、最上段に石室のある古墳が岡山県にあると言うことからまた考えを深めたいと思います。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/62775878.html</link>
			<pubDate>Sun, 17 Aug 2014 10:17:14 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>田中清美氏講演会</title>
			<description>　８月９日、台風が接近する中、大阪歴史博物館で行われた田中清美さんの講演会に行ってきました。田中氏は「加美遺跡で見つかった弥生王募の謎にせまる」と題して。Y１・２号墳丘墓について、現時点での知見を詳しく話されました。特に印象に残ったのは、Y１号墓の実年代が明らかにされたことでした。その根拠として、以下の３つの事柄を挙げておられました。&lt;br&gt;
&amp;#9312;Y１号墳の北端に埋まっていた柳の木の年輪年代&lt;br&gt;
&amp;#9313;土器型式や遺物の年代&lt;br&gt;
&amp;#9314;木棺の年輪年代&lt;br&gt;
&amp;nbsp; その他、周堤に接する墳丘に穴が開いていたが、穴を埋めて墳丘の元の形を確定した、などが興味深く思えました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/62765191.html</link>
			<pubDate>Sun, 10 Aug 2014 16:38:51 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>考古学講演会のご案内</title>
			<description>&lt;div&gt;考古学講演会のお知らせ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私どもの研究会では、この度考古学講演会を行います。私も参加致しますので、ご都合のつく方は、是非ご参加下さい。詳しくは、&lt;a href=&quot;http://www7.ocn.ne.jp/~kobunken/text/oshirase.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www7.ocn.ne.jp/~kobunken/text/oshirase.htm&lt;/a&gt;をご覧になって、お申し込みくださいね。皆様と久しぶりにお目にかかりたい、とぞんじます。宜しくおねがいもうしあげます。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/62763073.html</link>
			<pubDate>Sat, 09 Aug 2014 09:01:17 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>５年ぶりの更新です</title>
			<description>　５年ぶりの更新になります。と言うのも、私事になりますが、２０１１年５月３１日に自宅で仕事の準備中に脳出血で倒れ、６ヶ月程入院し、 退院しましたが、ブログの更新の仕方をすっかり忘れてしまい、更には嘗てはあれほど早く本や資料を読んでいたのが、すっかり出来なくなり、その後のリハビリで少しずつではありますが、本や活字も読めるようになり、リハビリを兼ねて到らない内容ではありますが、更新していくことにしました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/62748880.html</link>
			<pubDate>Thu, 31 Jul 2014 16:03:57 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>継体の乙訓宮を訪ねてpart2</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/1448698/52/56946652/img_0?1237028362&quot; width=&quot;400&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;古墳めぐりのご案内&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４月１２日（日）に表記の古墳めぐりを行います。今回は、継体の宮を訪ねるシリーズの最後のものとな&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ります。乙訓宮と深い関係が推察される物集女車塚古墳を中心にした向日丘陵の古墳めぐりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物集女車塚古墳は発掘調査によって、石棺内から金銅製ガラス玉付冠が検出され、豊富な副葬品が埋納さ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れていことから、年代も併せて考えますと乙訓宮を強力に支えた人物であると考えられます。また石棺自&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体も変わった形態のもので、石材も播磨の高室石と二上山牡丹洞付近の石材という２種類の石材を使った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非常に変わったものです。このような異質な点を細かく考えれば、物集女車塚古墳の性格と深く関連する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乙訓宮そして継体のこともより鮮明に理解できます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また向日丘陵には、古墳時代初頭の元稲荷古墳、五塚原古墳、寺戸大塚古墳、今は消滅しましたが妙見山&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古墳など、前期のそうそうたる古墳があります。元稲荷古墳の前方部からは、吉備の都月型の特殊器台と&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特殊壷が出ていますし、五塚原古墳は箸墓古墳とそっくりな撥型に開いた前方部をもつ前方後円墳で、ま&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た有名な寺戸大塚古墳から数少ない三角縁仏獣鏡が出土しているなど興味深い古墳ばかりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墳丘のごく一部が現存している妙見山古墳は、これらの古墳の中では最大の規模で、何よりも竪穴式石槨&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内にあった石棺は、長持形石棺の祖型と考えられるもので、その点でも極めて重要な古墳です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの古墳も併せて見学する古墳めぐりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
写真は、当日見学します物集女公民館前にある石材です。流紋岩質凝灰角礫岩質溶結凝灰岩で、兵庫県高&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
砂市の伊保山の石だと思われます。綺麗に面取りが施され、石棺材か石室材の一部と考えられています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご興味のある方は、考古文化研究会のＨＰの表紙にございます「古墳めぐりのお知らせ」をご覧くださ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
い。古墳めぐりの要項と申込みフォームがございますので、それでお申し込みください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
考古文化研究会のＨＰは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://www7.ocn.ne.jp/~kobunken/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www7.ocn.ne.jp/~kobunken/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/56946652.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Mar 2009 19:59:22 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>弥生時代の地名（２）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/80/55865380/img_0?1228917509&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/80/55865380/img_1?1228917509&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/80/55865380/img_2?1228917509&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/80/55865380/img_3?1228917509&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;古田説への補足と問題点&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
今回は、古田武彦氏が出したいわゆる「南方の論証」について検討します。検討する前に古田氏がふれて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いないことについて、まず補足をしておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは神武の一団たちが戦った日下の楯津ですが、現在地名としては残ってはいません。ただ東大阪市の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新庄に盾津高校や盾津東中学というように学校名などに残っています。楯津ということで津という表記が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ありますので、楯津も港と考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして前回紹介しました本で、古田氏は神武東征は弥生時代後期のことで、暦年代はわからないとしなが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
らも、２世紀もしくは３世紀の半ば頃ではないかとしています。（『「邪馬台国」徹底論争　第１巻』１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９９２年６月２５日　新泉社　ｐ１５３　「神武東侵の絶対年代」） 古田氏がこのように考える主たる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
根拠としては、神武東征によって銅鐸が廃絶されるということを想定していて、弥生時代中期の終わりか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ら弥生時代後期の初めと考えたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただ氏自身も述べているように、この古田説の年代観への吉田堯躬氏の批判を紹介して、３世紀半ばと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いう想定には問題があることも述べています。つまり崇神をおよそ４世紀初めと仮定すれば、神武は１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代前ですから、１代１０年とすれば１００年前、１代２０年とすれば２００年前となり、それぞれ３世紀&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の初めか２世紀の初めとなり、３世紀の半ばという古田氏の推定とは合わなくなることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;考古学からの検討&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのことを前提に、考古資料の視点から検討してみます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般にはあまり知られていないと思いますが、古田氏が出したように当時の河内湖の図を基に、弥生時代&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後期後半から古墳時代前期初頭の遺跡の動態を詳細な分布図をもとに考察した優れた考古学の論文があり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ます。その図が図３です。これは、秋山浩三氏の「摂河泉の吉備系土器」という論文に出ているものです&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（シンポジウム『邪馬台国時代の吉備と大和』資料集　香芝市二上山博物館友の会ふたかみ史友会　２０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
０２年７月１３日～１４日）。  秋山氏の考察をわかりやすくするために、この図に青い下線や青の囲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
み、赤い丸印や地名を私が加筆しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず図の上町台地の先端部に青い下線を施した崇禅寺遺跡という地点があります。この崇禅寺遺跡は弥&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生時代から中世まで続く複合遺跡です。地図１で紹介しましたように、崇禅寺と南方は近接した場所で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この場所が『古事記』でいう南方と考えられます。弥生時代後期には、南方と呼ばれた土地でしたが、奈&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良時代に創建された崇禅寺が大きくなり、細川ガラシヤとも縁があるこのお寺に由来して、いつの時代か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はわかりませんが、南方という従来の地名から独立して、新たに崇禅寺という地名が加わったと考えられ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうしますと古田氏が地図に書き加えた南方は、北岸部分にありますので、明らかに間違いであるという&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ことになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この地図を見ますと河内湖の東端、もっとも奥にある赤い地点が楯津ということになります。この楯津で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
惨敗した神武軍がほうほうの体で辛うじて南方から大阪湾に逃げたというのは、この地図を見れば、神武&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記の話が極めて具体性があることがわかります。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秋山浩三氏の論文と地図を詳しく見てみることにします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
図上の黒点は、吉備系土器を出土した遺跡を示しています。崇禅寺遺跡からは図４の土器の実測図（同上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
論文掲載）で、頭に１１という番号がつけられている吉備系の土器が土器が出ています。また同じ図の９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は、豊中市の小曽根遺跡出土の土器で、図１０は同じく豊中の島田遺跡出土の土器です。地図上に青い下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
線を記しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実測図だけではわかりにくいと思いますので、図９と図１０の土器の写真を掲載しておきます（写真５と&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
写真６）。これらの土器の写真は、十数年前に豊中市の教育委員会所蔵の土器を実体顕微鏡により土器胎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土の分析する機会があり、その分析表に添付するために撮ったものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小曽根、島田、崇禅寺の土器も含めて、これらの土器は岡山の研究者は「ボウフラ」というニックネーム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で呼んでいる甕型土器です。写真や図４の実測図を見ていただきますとわかりますように、直立ないしは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内傾する幅が広い口縁部外面には櫛描（くしがき）の沈線をめぐらしています。また土器を堅く叩き締め&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
るために土器内面には石などの当て具をあてがい、表面を平たい羽子板のような形をした木で叩くいわゆ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
る叩き技法を行っています。この叩き技法によって土器の内面は、デコボコになります。その部分を竹な&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どの薄い皮をＵ字型にして、削り取るという作業をします。これは箆削（ヘラけず）りと呼ばれる技法で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
す。この箆削り技法によって土器の器壁はかなり薄くなります。一方叩き板の痕が残った外面は、それを&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
消す必要が出てきます。古い段階ではこの叩き痕を消すために、皮などを使って、擦って消す磨り消しと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いう技法が使われますが、この段階つまり弥生時代後期終末（第９期）から古墳時代前半（第１０期）で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は、図４を見てわかりますように、数条の線の痕があります。あたかも刷毛（はけ）のように見えますの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、刷毛目と呼ばれています。この刷毛目という技法は、実際には板材の小口部分を使ってこすったもの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるということが明らかになっています。このように極めて特徴的な土器ですので、近畿の遺跡から出&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てきた場合でも、土器のごく一部であってもわかりやすいという便利なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;ボウフラの名の由来&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
話がそれますが、なぜこの土器を「ボウフラ」というのかを説明しておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡山市の湯迫（ゆば）と四御神（しのごぜ）という二つの地域にまたがって、備前車塚という学史的に有&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名な前方後方墳があります。三角縁神獣鏡にご興味がある方には、よく知られた古墳です。この古墳の埋&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
葬施設が１９５６年に盗掘にあいました。その際、内行花文鏡１面、画文帯神獣鏡１面、三角縁神獣鏡１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１面という当時としてはたくさんの鏡が出ました。この盗掘によって、鏡を含む考古資料の散逸が危ぶま&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れました。これらの資料の散逸を防ぐのに尽力し奔走した人が黒田光さんという方です。この黒田さんが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉備型甕のことをボウフラと呼んでいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何でも、煎茶を点てる時に使うボウフラと呼ばれる茶釜によく似ているので、そのように呼んだというこ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とです。ボウフラという名は、ポルトガル語のアボボラが訛ったものとされています。カボチャを指すカ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ンボジア・アボボラを縮めて、よく似ていることから煎茶の茶釜をボウフラと茶道では呼ぶようになった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ようです。以来岡山の研究者の間では、ボウフラという名前が定着しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
話をもとにもどしまして、秋山氏の図３に抽出されている遺跡の年代は、秋山氏も考察していますように&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その出土土器の編年から吉備地方の編年でおおむね第１０期の段階のものです。第１０期というのは、ａ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
～ｅまでの５段階があり、近畿でいいますと庄内期全般に該当します。その前の段階の第９期というの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は、ａ～ｃまでの３段階ですが、この間の資料の状況を見ますと、ａ段階も２つに分離できる可能性が出&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てきていますので、それを確定できる資料群が抽出出来れば、４段階になります。時期は、弥生時代後期&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の最後の段階、終末期にあたります。畿内でいいますと、纏向編年の纏向１式という時期に当たります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しい纏向編年では、纏向２類に相当します。吉備地方では３～４段階に細分できる時期が畿内中枢部で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある大和盆地では、一つの時期としてしか区分されているのは極めて興味深いことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;弥生墳丘墓と古墳の年代&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土器の編年のことを言いましても、なかなかわかりづらいと思いますので、ごくわずかですが出土土器か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
らわかっている墳墓で説明をしておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、弥生墳丘墓として著名な岡山県の楯築弥生墳丘墓は、８ーｄという時期の中でも前半で、弥生時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代後期後半になります。また黒宮大塚弥生墳丘墓は、８－ｄ期の後半になります。香川県高松市にありま&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
す鶴尾神社４号墳という積み石塚の前方後方墳は、９ーｃないしは１０ーａという時期となり、今のとこ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ろ前方後円（方）墳では最も古いものです。都月型特殊器台と三角縁神獣鏡が唯一共伴した古墳として有&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名な兵庫県の権現山５１号墳（前方後方墳）では、吉備の複合口縁壷が伴出していて、その時期が吉備地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
方の１０－ｃという時期になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;小曽根遺跡出土土器と島田遺跡出土土器の年代&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それで写真５の土器は上半部しかありませんので、明確な時期はわかりませんが、口縁部の状況や肩部の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張りから１０期のものであると思いますが、細かな時期まではわかりません。また若干疑問な点もありま&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
す。それは肩部外面に櫛描きの沈線がめぐっていることと外面に右上から左下の斜め方向の刷毛目、横方&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
向の刷毛目があることです。このような調整は吉備ではほとんどないことです。写真６の土器は、胴部の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最大径の位置や底部の丸底化の状態、小型化していることから１０－ｅ期のものだと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/55865380.html</link>
			<pubDate>Wed, 10 Dec 2008 22:58:29 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>弥生時代の地名（１）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/70/55147070/img_0?1223712651&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/70/55147070/img_1?1223712651&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
大阪市淀川区にある南方という地名が少なくとも弥生時代の後期にはあったのではないか、というお話で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
す。大阪や近畿に住んでおられる方にとっては馴染みがある地名ですが、他府県にお住まいの方々にはピ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ンと来ないと思いますので、どのあたりになるのかということを紹介しておきます。地図の１を見ていた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だきますとわかりますように、新幹線の発着点となる新大阪駅のすぐ南側になります。地下鉄御堂筋線の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新大阪駅から南に一駅、梅田側にあるのが西中島南方の駅です。この西中島南方駅と十字に交差するよう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に阪急の京都線があり、西中島南方駅に隣接する形で阪急の南方の駅があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現在では、西中島という地名だけが残り、南方という地名は駅名にだけ残っています。阪急南方駅の一&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
駅東には崇禅寺という駅があります。この駅名と地名も関係してきますので、紹介しておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;古事記の中の南方&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　さて南方の問題ですが、この地名がどこに出てくるのかといいますと、７１２年に成立した『古事記』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にあります。神武記によれば、神武と兄の五瀬命は高千穂の宮で、どこに行けば天下を治めることができ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
るだろうかという相談をします。その結果、東に行けばよいということになります。神武東征と呼ばれて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いるものです。そこで日向を出た神武たちはまず宇佐に立ち寄ります。次ぎに筑紫の岡田宮に立ち寄り、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１年を過ごします。その後安芸の田祁理宮（たけりのみや）に７年間滞在した後、吉備の高島宮に滞在し&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ます。吉備の高島宮に８年間滞在した後、速吸門を通って、大阪湾に入ってきます。その大阪湾に入って&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
くる部分は、次のようになっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;故（かれ）、其の国より上り行く時、浪速之渡を経て、青雲の白肩津（しらかたの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つ）に泊まる。此の時、登美の那賀須泥毘古（ながすねひこ）、軍を興して待ち向へ、以て戦ふ。爾（こ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こ）に御船に入れたる楯を取りて、下り立つ。故、その地を号（なづ）けて、楯津（たてつ）と謂ふ。今&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に日下の蓼津と云ふなり。是において登美毘古と戦ひし時、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ふ。・・・中略・・・南方より廻幸しし時、血沼海に到りて其の御手を洗ふ。故（かれ）、血沼海（ちぬ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のうみ）と謂ふなり。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪速渡から入った神武と五瀬尊の船団は、日下の楯津で待ちかまえていた登美の那賀須泥毘古の軍に破&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れ、五瀬尊が傷を負います。それで神武の船団はその場からすぐに脱出しようとします。それが上記の文&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の中略以降となります。これまでこの部分は本居宣長以降「南の方から廻幸し」と読まれていて、今でも&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべてのものがそのように読み下されていますが、それでは意味がなさず、地名を指すということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;古田説&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
この点に着目し、初めて指摘したのは、古田武彦氏でした（古田武彦『ここに古代王朝ありき』１９８５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年２月１０日朝日新聞社）。氏は、この著書で上記の神武記の部分を引用するとともに、大阪府史第１巻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の弥生時代～古墳時代前半の地図を引用して、日下（楯津）と南方を書き込んで、示しました（図２）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の大阪市内のほとんどが弥生時代から古墳時代前半にかけては、河内湖とよばれる大きな湖で、上町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
台地の先端部分でしか大阪湾と繋がっていたことは、ほとんど知られていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古田氏は、この図を基にして浪速の渡から、一挙に河内湖のどんつきにある日下を急襲し、楯津で敗戦し&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た神武の船団が慌ててその場から脱出し、唯一外海と繋がっている南方を通って、大阪湾（血沼海）に辛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うじて逃げたということになります。『古事記』が成立した８世紀には河内湖は土砂の堆積によって、ほ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とんどが陸地化しており、８世紀の地形を知る『古事記』を記した史官には到底神武記のような進路は書&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
くことができないというのが理由になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことによって、古田氏は神武が実在したこと、および神武東征（氏は神武東侵としています）が実際&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にあったことを示す強力な根拠としました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の氏の著作『古代は輝いていた供戮任蓮⊂綉の論点を「日下の論証」、「南方の論証」として、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記の主張を補強しています。また別の書『「邪馬台国」徹底論争掘戮砲いては、神武東侵（東征）の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
暦年代は不明であるとしつつ、考古学的には弥生時代後期であるとしています。また神武が最後に逗留し&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た吉備は、最後の逗留地でもあり、さらに最も逗留期間が長いことから、神武東侵の実質的スポンサーが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉備勢力であるとしました。だから奈良盆地の古墳時代最古期の前方後円墳から吉備の特殊器台と特殊壷&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が出るのだという考古学的事実がこのような視点に立ってのみ、初めて理解できるとしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　古田氏のこれまでの諸説については、多くの批判がありますが、この神武記で取り上げた日下や南方に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関しては、極めて重要な課題を投げかけたといえます。そしてその功績は高く評価されるべきものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回では、古田氏が出したこの南方の問題を考古学の側面から再度検討し、その考古学的事実の集積から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はどのようなことが言えるのか、ということを問題にしたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/55147070.html</link>
			<pubDate>Sat, 11 Oct 2008 17:10:51 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「喪船」準構造船だった</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-78-d1/hirotak24/folder/135783/56/54272356/img_0?1217389260&quot; width=&quot;194&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;奈良・巣山古墳から喪船&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨日（２００８年７月２９日）の朝日新聞朝刊に表記の『「喪船」準構造船だった　奈良巣山古墳　出土&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
部材は波切り板』という記事が説明図とともに出ていました。ご覧になった方も多いと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００６年、奈良県広陵町の巣山古墳の周濠部分での調査で木材の部材が出土し、公開されました。その&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時の模様は、&lt;a HREF=&quot;http://kobunken.web.infoseek.co.jp/20060522/suyama.htm&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://kobunken.web.infoseek.co.jp/20060522/suyama.htm&lt;/a&gt;をご覧ください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この部材が出土したときは、上記の公開時の記事にもありますように、線刻模様が彫られた湾曲した大型&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の部材については、長持形木棺の蓋という説と船の波切り板という２つの説が出されていて、どちらが正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しいのかはわかりませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後これらの部材の保存処理を終え、広陵町教委が立体的に組み立てたところ、長持形木棺の蓋とされ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た部材は（長さ１．２ｍ・最大幅７８ｃｍ・厚さ２６ｃｍ）、木棺蓋のように同じ幅ではなく、一方がよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
り狭くなっていることから、木棺蓋ではなく、船の波切り板であることが明らかになりました。そして長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さ３．７ｍ・幅４５ｃｍ・厚さ５ｃｍの部材は、波切り板にはめ込む左舷の舷側板で、長さ１．８ｍ・幅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３８ｃｍ・厚さ５ｃｍは同じように右舷下段の舷側板とわかりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことから刳り抜きの丸木船の上に船形の箱を継ぎ足し、上下に２隻の船を重ねたような準構造船であ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ることがわかりました（説明図）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
船幅が約８０ｃｍとかなり狭く、漕ぎ手を確保できず、船内を様々なもので飾り立て、死者をにぎやかに&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
送った喪船ではないか、という河上邦彦先生のコメントは極めて重要です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;文献に見える喪船&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、このように死者を船に乗せて送るという習慣が当時の文献に書かれてるのか、という問題が出てき&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ます。『日本書紀』をざっとみてみましたが、そのような記事はありませんでした。見落としもあると思&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いますので、もしありましたら教えていただきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、『古事記』の仲哀記に「喪船」という語が出てきます。その部分は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;&lt;br /&gt;
是に息長帯日賣の命（神功皇后）、倭に還り上ります時、人の心疑はしきに因りて、喪船を一つ具（そ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
な）へて、御子をその船に載（の）せて、先ず「御子は既に崩りましぬ。」と言ひ漏らさしむ。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
という部分です。ここでは喪船は、文字通り棺を載せた船ということで、古墳での祭祀とは若干意味合い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が異なります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国側の文献では、『隋書』の倭国伝に興味深い記事があります。それは倭人の習俗を記した部分です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;&lt;br /&gt;
死者は、斂（おさ）むるに棺槨を以てし、親賓は屍について歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人は三年、外に殯（もがり）し、庶人は日を卜して&amp;#30180;（うず）む。葬に及んでは、屍を船上に置き、陸地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でこれを牽（ひ）くに、あるいは小&amp;#36701;（しょうよ）を以てす。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と遺体を船上に載せることが描かれています。陸地で引く場合には、小さな車に載せる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ことも書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただしこの『隋書』の記事は、７世紀代の倭国の習俗を描いたもので、古墳時代前期中頃と考えられる巣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山古墳とは年代としてはあいませんので、そのまま使うことはできません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
７世紀代の葬送儀礼の淵源が、すでに古墳時代前期中頃には始まっていたと考え得る考古資料です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;問題点&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巣山古墳では未調査ですが、後円部には２つの竪穴式石槨がるようで、長持形石棺が納められているよう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
です。長持形石棺は、各石材を組み合わせてできていますので、その中に遺体を納めて運ぶということは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
できません。あらかじめ竪穴式石槨を作る広い墓坑を掘っておいて、そこに底板と側石を組み立て、その&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周囲を竪穴式石槨で覆っておく必要があります。その段階になって、ようやく遺体を運び込んで、棺内に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
納め、同時に副葬品を納めて、棺蓋をして、石槨の壁石と天井部分を覆って、遺体の埋納は終了すること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回確認された準構造船の幅は非常に狭く、漕ぎ手さえも乗れない点に関して言いますと、長持形石棺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は、その大きさと重さから船に載せることは当然不可能ですし、石棺の構造からも、石槨内に据え置いて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いたと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『隋書』には遺体が布などで覆われていたかは記されていませんが、巣山古墳では、『隋書』の記述のよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うに遺体そのものを船にを載せて運んだことは間違いないようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また『隋書』では、遺体を載せた船を引いたとありますので、舳先の部分には縄を引くための穴や縄をか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けるための突起があったと推定されます。今後の調査で、そのような部材が見つかる可能性があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の祁晋妬として注目される巣山古墳&lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/52525540.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/52525540.html&lt;/a&gt;で、当時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の埋葬儀礼を復元できる資料が出てきた意義は大きいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/54272356.html</link>
			<pubDate>Wed, 30 Jul 2008 12:41:00 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>