上越タイムス『山城をいく』

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10月、長峰原(吉川区長峰)に陣張りせし信濃衆(高梨政頼勢)は一向に寄せる色を見せぬわ。ためにこの黒岩越(米山寺街道)の堀切り(防御陣による道路封鎖)を仕おおす役目、無事かないそうじゃ。ご覧めされ。堀幅は2間。土塁はその丈6尺。あなたの臥木(ふしき=切倒木を組んだ障害物)の陰に高矢倉も構え申した。かほどの野馬避(のまよけ=牧場などで馬を囲う仕掛け)をばおいそれとこえられまい。逆茂木(さかもぎ)を除きにかかるところを矢先をそろえ、散々に射かけ申そうほどに。
なかごうり(中越)では守護殿(上杉定実)のもとに御一門、八条左衛門様、石川や飯沼の衆もはせ参ずと聞き及ぶ。守護代(長尾為景)方の与力は房長、房景らご縁戚ばかり。高梨も親戚の縁を頼られての出馬。義理にからめての戦に気勢は上がらぬもの。いずれ守護代を破りし上杉衆が小鮒峠(小村峠)に立ち、あと巻きしなさるは必定。この要害と街道とを堅固に保たば、勝ちは動かぬ道理じゃ。
かほどの構えが成れば向後は殿(宇佐美房忠)おわす小野城と当方とが応じ、存分に駆け引き申そうぞ。なにせ岩手は東西六町、南北四町余。越後随一の城塞じゃ。永正の初め(1503年)より十とせ、掘りに掘り続け、横堀は38、縦堀は15条を数ゆる。井戸も多く沢水の便もあり。水の手を切らるる気遣いなど無用のこととてな。
…ありゃ、この逆茂木に押すっ立つるは漆の木じゃないかいな。あっ、こちも、こなたも…20年も丹精した漆じゃというに。やぁれ、いずれ百姓衆にこと分けせずば済むまいて。安田様よりの合力とて8人も杣工(そまく=きこりの頭領)の加勢を得しは心強う覚えしが、しょせん他国者。一刻も早よう戦場を退きたしと、かかる急ぎ働きをしでかすと見ゆる。さても乱世とは言いじょう、人心は墜つるものかな。
(宇佐美房忠家臣、加賀隹丞孝重・45歳)

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はるばる吉野の郷からなぁ。ようお尋ねあられた。わしは水嶋磯部神社の寄人(よりびと=下級神職)を仰せつかる梨窪清兵衛と申しまつる。神主は、いまだ17歳じゃったが、先年小田原攻めにて生害(戦死)仕りましてな。跡取りも居りませぬに、ほんにむごいことにござります。
吉野の供御人(くごにん=天皇直轄御厨の住人)と仰せられるあなた様なれば、さぞや磯部臣(おみ)の御血統に連なるお方。ようこそ、この越後にゆかりのやしろをお尋ねくださった。
申すまでもなくこの水嶋磯部部社は、天智天皇統べる世の10年(670年)に、磯部臣ご統一が吉野の大乱を逃れたまい、ここを水嶋の地と名付け、坊ヶ池のほとりに社殿を建立されたのが初めでございまする。今のやしろはさきほどの登り道の途中に移りましたがな。ここ、ここ。この祠(ほこら)が元宮にございまする。
磯部の祖は仲哀天皇皇子、応神のすめらみことであらせられますれば、誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇神格、八幡神)を祭り申す。持統女帝の10年(696年)には、神祇官にて祭るべき737の官弊社に列せられましてございます。
あちらの丘に見ゆる要害は久ケ獄の城。近頃は「京ケ岳」と誤り呼ぶ輩も多ございますがな。かほどに長く乱るる世にあっては、磯部臣がお鎮めなされた御神域の静謐を安んずる心根を保つものなど絶えて居りませぬ。あの要害から望めば、三墓山城、小獄城、さらには箕冠城まで狼煙火で応諾がつきまするとか。
長尾の殿(上杉謙信)は我がやしろの貴きはばかられ、武甕槌命(たけみかづちのみこと=鹿島大神)、経津主命(ふつぬしのみこと=香取大神)ニ柱を勧請なされたが、われら寄人にとって祖霊、誉田別尊こそお仕えまいらす神と心得申すばかりじゃ。(青柳百姓、梨窪清兵衛、62歳)

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これで二度目のご上洛か。六年前、天文二十二年(1553年)の上洛は供周りも少なく、われらはご帰城あそばされるまで心痛したが、こ度は五百からの軍勢だ。都にはびこる阿波勢も殿のご威光にひれ伏すことじゃろう。いくさ船がこれだけそろうのも壮観じゃなぁ。
公方様から召されての再上洛とは、なんと名誉なことじゃ。(足利)義輝さまは御内書を遣わし、わが越後との和睦(わぼく)を諭されたと。京に行けば関東管領就任と『北信濃争乱平定』の沙汰が殿に下される手はずじゃ。天下にわが長尾家の名が知れ渡るというもの。甲州とのいくさは正義のいくさとなるのじゃ。
いかなる欲深な武田といえど、たかが甲斐、信濃の国守風情が関東管領に挑むわけにいくまいて。ま、今は乱世、当知行勝手の習いなれば、ただちに畏まることもあるまいが、いくさは名目が肝心じゃ。
(春日山船方頭、水木予市兵衛・36歳)

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船方衆よ。今朝の成敗、見事じゃったぞ。佐野の殿様もお城の矢倉から、おぬしらの漕ぎっぷりをご覧になっての、いたくご満足じゃ。だれぞ傷を負った者はおらぬか…そうか、大事ないか。手傷を負うた者にはお城の金創医(きんそうい=外科医師)を遣わせとの殿の仰せゆえ、遠慮なく申し出るがよいぞ。
わしもここから船いくさを見さしてもろうたが、いやぁ、おぬしらの船足の速いこと。なに、櫓櫂を四丁も増やしたのか。どうりでの枇杷島衆の船にたちまち追いついてしまったなのも道理じゃな。これで、前島修理亮が御館に兵糧を送ろうとのたくらみ、二度と企てることはあるまい。
去年三月の霜台公(そうだいこう=上杉謙信)のご逝去からまもなく一年。長く越後を二分したこの兵火も、はや仕舞になろうぞ。今日のおぬしらの働きで御館の命運は尽きたも同然じゃ。
侍どももよき戦い振りじゃったが、戦功第一は何と言ってもお前方、船方衆じゃ。冬の間も、よう海上の物見を続けてくれたの。一度でも枇杷島城から御館への兵糧入れを許せば、三郎殿(上杉景虎)は息を吹き返し、このいくさはもっと長引いていたじゃろうて。
明日からも物見は続けてもらうがなに、先のことではない。御館落城は目に見えておるし、わしらはこれから、上条城と枇杷島城を攻めるでの。吉報を待ちやれ。さすればおぬしらも昔に変わらず漁に出られるというものじゃ。(佐野清左衛門尉配下、組頭、近藤甕二郎左衛門・33歳)
戦国幻想紀行『山城を行く』
【根知城】(糸魚川市根小屋)
根小屋のお城が見えてきたぞ。ひと息入れまいか…ほれ、うしろがお館のある栗山、左奥が詰城の上城山じゃ。姫川と根知川に囲まれおる三山じゃな。それゆえ、この根知のお城は難攻不落。信濃三ヶ口の一つ、仁科口の押さえになっとるのがお前らにも見て取れよう。
最前にも申したがな、才蔵。孫衛門。きょう、主らは我ら大谷内村の屈衆(かまりしゅう=偵察斥侯部隊)の主なる者として寄騎の草野様におめ通りが叶うのじゃ。失礼があったはならん。というてな、主らの早道(早駆け)の力がどれほどのものか、寄騎殿にお見せ駆るのが登城の眼目じゃ。お前方は山中なれば軒猿衆(謙信麾下の忍者集団)も目を剥くほどの早道の達者。遠慮のう技を披瀝申し上げれば、お城方も満足されよう。
我ら大谷内の百姓は代々谷を守り、かたぎ衆が寄せればいち早くお城にご注進申し上げる、大切な役目を荷ってきたのじゃ。その重責を果たせばこそ、根知一帯は今の世でも地下請(じげうけ=百姓による年貢徴収請負)や自検断(裁判権を含む自治)を許されておる。春日山の町衆や他村の衆の如き扱いを受けずに済んできたのじゃ。きょうのご検分が村にとってどれほどのものか肝に沁ましておくれ、くれぐれも頼みまいらすぞ。
此度、根知に城入りされた殿様は信濃坂城(さかき)の葛尾城主、村上義清様じゃ。北信濃の戦いでは非道な甲斐衆を存分に追われ、四年前の八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)で自ら先陣を申し出られたほどの勇将ぞ。この根知のお城が万一、破るることあらば春日山は腹背を突かれ、越後はたちまち信玄坊主の手に落つる。客将なれど、上杉様がいかに殿様を頼りに思し召されたか、お前ら方も想ってみるがよい。(大谷内村乙名、西條橘次郎 51歳)
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