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なかごうり(中越)では守護殿(上杉定実)のもとに御一門、八条左衛門様、石川や飯沼の衆もはせ参ずと聞き及ぶ。守護代(長尾為景)方の与力は房長、房景らご縁戚ばかり。高梨も親戚の縁を頼られての出馬。義理にからめての戦に気勢は上がらぬもの。いずれ守護代を破りし上杉衆が小鮒峠(小村峠)に立ち、あと巻きしなさるは必定。この要害と街道とを堅固に保たば、勝ちは動かぬ道理じゃ。 かほどの構えが成れば向後は殿(宇佐美房忠)おわす小野城と当方とが応じ、存分に駆け引き申そうぞ。なにせ岩手は東西六町、南北四町余。越後随一の城塞じゃ。永正の初め(1503年)より十とせ、掘りに掘り続け、横堀は38、縦堀は15条を数ゆる。井戸も多く沢水の便もあり。水の手を切らるる気遣いなど無用のこととてな。 …ありゃ、この逆茂木に押すっ立つるは漆の木じゃないかいな。あっ、こちも、こなたも…20年も丹精した漆じゃというに。やぁれ、いずれ百姓衆にこと分けせずば済むまいて。安田様よりの合力とて8人も杣工(そまく=きこりの頭領)の加勢を得しは心強う覚えしが、しょせん他国者。一刻も早よう戦場を退きたしと、かかる急ぎ働きをしでかすと見ゆる。さても乱世とは言いじょう、人心は墜つるものかな。 (宇佐美房忠家臣、加賀隹丞孝重・45歳) |

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