■「可視化」に知恵はあるか
◆消えた登竜門
かつて留置場の看守という職務は、若き警察官が刑事になるための登竜門であった。
−ホシは飛ぶもの逃げるもの。
被疑者と呼ばれる人々の生態に直面し、若手は彼らの扱い方を学んでいく。年配刑事の調べの機微の絶妙さは、たいがい看守時代の経験から培われたりしていた。
定年近いM刑事は看守時代、爆破テロの極左過激派容疑者に遭遇した。取調室では黙秘。ふてぶてしい姿に、公安刑事たちは「こいつは冷血だ」とこぼしていた。
M氏にはそう思えなかった。留置場での容疑者は「担当さん」と彼を呼び、雑談に応じて笑う。犯した罪は冷血だが、「留置場での彼は無邪気な若者。人の痛みを感じる人間性はあった。極左思想に支配されていても攻め手はあったはず」。一面で人を判断してはいかん、という戒めになった。
留置場にはさまざまな人間がいた。毎夜うなされていたのに、自供後はつかえがとれたように熟睡する殺人容疑者。「あの取調官は嘘つきだ。新聞には書かせないと言っていたのに発表しているじゃないか! 子供が学校でいじめられている」とわめき散らす窃盗容疑者…。「人間は難しい。生半可な向き合い方では通じない」。刑事が対峙(たいじ)するのは人間。ややこしさを学ぶのに、看守係はうってつけだった。
ところが昭和55年、被疑者留置規則が改正され、看守業務は捜査部門から分離される。相次ぐ冤罪(えんざい)発覚で無理な調べが問題視され、留置環境を捜査側が管理する態勢への疑義が高まったためだ。
これによって看守業務から刑事養成機能は失われた。今は看守経験のない刑事も珍しくない。「ホシの扱いがヘタになった。否認ボシが増えるのも道理だ」。そんな声がOBたちから聞こえてくる。
◆さあ話せ、では無理
警察庁は6月、全国で試行した取り調べ一部録音・録画(容疑者632人)の検証結果を公表した。目をひくのは取調官613人へのヒアリング。97%が一部可視化を「自白任意性の立証に効果」と評価するのに、これが全過程の可視化となると91%が「やるべきでない」に転じるのだ。「容疑者との信頼関係作りに支障」「真実の供述が得にくくなる」が理由だ。
全面可視化がなぜ「真実の供述」を阻害するのだろう。「動機を言うのは容疑者にとって恥ずかしいこと。全面可視化ってのはそこにカメラを入れ、さあ話せ、と迫るようなものだ」。そう指摘する刑事には、こんな経験がある。
一緒に暮らす女性をバットで殴り殺した男が逮捕された。殺害は認めるが、動機を言わない。いくら説得しても男は頭を抱えて「勘弁してください」と繰り返すばかり。何日かたち、男が反応を示したのは、「恥ずかしいことでもあるのか?」と尋ねたとき。立ち会いの刑事を取調室の外に出させ、男に向き合った。「これで2人きりだ。誰にも聞かれないよ」
男は小さな声でひとこと、「×××」と言った。性的不能を表す俗語だった。被害者からなじられ、かっとなったのだろう。「そうだったのかい」。うなずくと男は泣き出し、やっと全面自供した。
◆治安のコスト
現実の世の中で起きる事件は、個人的な、恥ずかしいことが理由になっていることがほとんどだ。それらの解明の積み重ねが、結局は治安を良くしてゆく。
告白した容疑者は秘密を共有する刑事に信頼を寄せ、その言葉を受け入れる。その結果、容疑者に贖罪(しょくざい)意識が芽生えてくる。「カメラが回る前で彼に『×××』と供述させられたと思いますか」。変化を快く思わない職人感情を差し引いたとしても、刑事が問いかけるものは重い。たしかに、これが可視化問題の核心なのだろう。
民主党がマニフェストに盛り込んだこともあるが、可視化論議の活発化は足利事件など冤罪の続発が契機だ。状況は、看守を刑事から分離した時代に酷似している。これが結果的に容疑者の扱いを拙(つたな)くさせたのなら、可視化という新たな施策にも副作用が予想される。それが真相解明の阻害であれば、損失はあまりに大きい。
ならば真に解明を阻害しない制度を設計すべきだろう。容疑者の求めに応じ、きわめて個人的で言いにくい動機や背景に関する供述は録画・録音しないなど、例外を設けてもいいのではないか。
法相は否認事件の可視化試行も検察に指示した。悪くないと思う。否認事件の実態をガラス張りにして追及の難しさと治安のコストを国民に知らしめたほうがいい。可視化の流れが止まらないのであるなら、そのプラスを最大にし、マイナスを最小限にとどめる知恵を出し合うときだ。(いぐち ふみひこ)
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