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朝鮮半島南部の前方後円墳
 
 1983年韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。現在までに、5世紀後半から6世紀半ば築造されたとみられる前方後円墳が、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとされる全羅南道に11基、全羅北道に2基確認されている 。
 
 現在前方後円墳が集まる全羅南道を流れる榮山江(Yeongsan-gang)流域は、墳丘形態と円筒埴輪などの外部施設、甕棺による独特な埋葬法や九州北部でも発掘されている鳥足文土器の副葬から、この地域は周囲とは異なる文化を持つ地域であったことが見受けられる。
 このことから、被葬者について、大和朝廷によって当地に派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族、あるいは倭人系百済官僚であるとする見解や、いずれも倭国と縁のある東城王・武寧王に随伴した倭人有力者とする見解などが出ている。榮山江流域に倭人が住んでいたという説も存在する[7]
 
 
 
 
 百済が高句麗の南下により、475年に首都の漢城(現在のソウル)を落とされ、都を熊津(現在の現在の忠清南道公州市)に移し、高句麗戦で失った地域の代わりに求めた土地が榮山江流域であったが、武寧王がこの地域を支配しようとしていた時代に前方後円墳が現れており[7]、百済が背後に他国との関係があることを見せつけるために造った、あるいは百済に協力した倭人が造ったとするものもある[7]
 
 古代、文化は朝鮮半島から日本へ一方的に移動したとする先入観から、前方後円墳を『里帰りによる逆輸入』などと考える研究者も存在し、そのような固定観念による全羅南道西部の前方後円墳についての解釈に日本の研究者から批判の声も挙がっていた。
 近年は、前方後円墳を倭人の墳墓と認め、倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実を認定した上で、百済に服属した倭系官僚がこの地を支配していたなどと従来の観念から脱却しつつある韓国人学者も出ている[14]
 
 朴天秀は、韓国の前方後円墳が在地首長の墓を避けるように単発的に存在し、石室を赤く塗るものもあり九州の古墳と共通点が多いことから、その被葬者は九州出身の豪族である可能性を提起している。
 また、当時の先進文化は韓国から日本に渡ったものであり前方後円墳もその1つであるという認識が1980年代の韓国にはあったが、それは間違いであり、韓国の前方後円墳は5世紀から6世紀に日本から韓国に伝わったものであると指摘している[15]
 
 なお、2005年10月31日、韓国のマスコミでソウル江東区で百済時代の前方後円墳10数基が発見されたとの報道があった。
 
 
 
 
■朝鮮半島に前方後円墳が作られた
 5世紀以降半島のヨンサンガン下流に13個の古墳が現れた。小さなもので13m、大きなもので70mの規模を有する。130mといえば、当時の日本では地方豪族のなかでも中程度の大きさとされ、かなりの大きな古墳ということになる。http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E9%85%8D%E7%BD%AE.jpg
 
 
 この時代、百済は高句麗に漢城を攻め落とされ、熊津(ウンジン)に遷都する。百済の北半分を高句麗領土に占拠されたことになる。
 当時の王、武寧王は漢城地域の領土の代わりを南に求めた。ヨンサンガン下流地域はそれまでは地方豪族の領有地で百済の領地にまでなっていなかったが、古墳ができる前後に百済の占有地になっている。

 ヨンサンガンの前方後円墳の大きさは最大で70m有り、百済王の墓ですら20m程度だった事からして、おそらくは百済のコントロールの外にあったのではないか。
 また4世紀から5世紀の半島南部と日本列島の関係は百済と大和という繋がりと、朝鮮半島南部と北九州の地方豪族がそれぞれに繋がって互いの交流を深めるという関係が併存して存在していた。
 
 
 

任那日本府

 任那日本府(みまなにほんふ)とは、日本書紀の欽明紀に記されている、古代朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあった倭国の統治機関。倭の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的。
 なお、「任那日本府」の表記は、国号の表記が「日本」と定まった後世に用いられるようになったものであり、鎌倉時代末期に成立したと推定される『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』では任那日本府を任那之倭宰(みまなのやまとのみこともち)と注釈していることから、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府(やまとのつかさ)とも表記したのではないかとされる。また、日本書紀では任那官家(みまなのみやけ)という表記も見られる。
 
 概要
 『日本書紀』をはじめ、中国朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在すること、『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている[注釈 4][注釈 5]など、朝鮮半島での倭の活動が記録されており、また幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で発見され始めたこと、そして新羅百済伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと[注釈 7]等の史実より、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、百済王に臣従した倭系百済官僚)が現在の全羅南道である地方において一定の軍事的・経済的影響力を有していた[注釈 8]
 
 特に有力な根拠として、宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している点である。
 
 
日本と韓国以外での記述
 世界各国では世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。
 また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、韓国南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する。
 
 またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子韓半島北部に建てた国だ。その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている[19]
 中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は「新羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している[20]
 

韓国の前方後円墳

http://www.chugoku-shoten.com/korea_zenpou.jpg
編輯:百済研究所 発行:忠南大学校出版部(白馬学術叢書 11)

日本国内発売:北九州中国書店

2000年6月9日発行 定価 ¥4,500¥3,000

本書は、1999年10月に行われた「百済 韓・日学術会議」の正式報告書です。
※注:本書は全文韓国語です。
本書に収録された論文目録は次の通りです。
  • 韓日前方後円墳比較検討―石室構造と葬送儀礼を中心に
    土生田純之(日本専修大学)
  • 前方後円墳の展開とその多様性
    北條 芳隆(日本徳島大学)
  • 百済の栄山江流域支配方式と前方後円墳被葬者の性格
    朱 甫敦(慶北大学校)
  • 百済の南遷と栄山江流域政治体の再編
    朴 淳發(忠南大学校)
  • 古代の洛東江と栄山江
    申 敬テツ(釜山大学校)
  • 総合討論
  • 附:韓国の前方後円墳資料
 

転載元転載元: 水・土壌汚染、アジア史を現場で考え真実を伝える

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