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平時の指揮官、有事の指揮官
佐々 淳行著 平成7年4月1日 ㈱クレスト社発行
ちょっと古い本ですが、「有事のリーダーのあり方」を明解に書いた本として一読の価値があると考えて、ここにご紹介いたします。
マセ ヒューマンテクノサービスのホームページでは、最近「有事のリーダーのあり方」について、いろいろと発表してきました。関連する記事として合せて見ていただきたいと思っています。
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リーダーとマネージャーとは、はっきり違う非常時(有事)のリーダー(玄倉川の水難事故を例にして) 何故、防げなかったか? 全日空機ハイジャック事件 著者、佐々淳行氏は1930年生まれ、東大法学部卒業、キャリアとして、警察庁入庁、警備幕僚長として、東大安田講堂事件、浅間山荘事件などを指揮。その後、防衛庁に出向、官房長、防衛施設庁長官を歴任。初代内閣安全保障室長、昭和天皇の大葬の礼を最後に退官。危機管理の第一人者として活躍、著書も多い。
著者はキャリア官僚ながら、多くの大事件の現場指揮にあたり、体験的な多くの実績を持っている。有事における凛々しい「ハンズ・オン・マネージャー」のあり方を、著者はこの本の中で明確に描いている。
最近、新聞史上で賑やかに報じられている高級警察官僚の不祥事の多くは、有事の体験のない箱入りキャリア、「ハンズ・オフ・マネージャー」のまま昇進を続けて、今の地位に上り詰めたキャリアが内部の論理、内部のモノサシでしか自らの行動を律しきれないでいる姿、キャリア官僚の日常の姿が、特定の事件報道の中で、白日の下にさらされた結果である。
指揮官の本領、実力は有事の時にこそ、発揮されるのである
平時の指揮官、有事の指揮官 (目次の抜粋)
序章 現場指揮官の行動原理
有事には無為無策の日本型指導者 指揮官・村山富市総理の「不作為の罪」
第1章 「アフター・ユー」と「フォロー・ミー」
「平時は紳士たれ、有事は武人たれ」 自分の「顔つき」に責任を持て 上司の「2つの目」より厳しい「百の目」
第2章 上司と部下の実践的人間学
どうすれば、集団内に強い連帯感が育つか オズオズしていては、人は動かせない 存在感の薄い、顔のない名前 感情移入ができる精神構造 先憂後楽の精神こそ 現場指揮官は「根アカ」であれ
第3章 情報伝達の基本マニュアル
非常事態に、組織が適切な行動を取るために 情報ショートサーキットのTPO 悪い報告ほど、早くせよ 優先順位に対するセンすこそ肝心 素材情報には意見を加えてはならない
第4章 有事、リーダーは何をなすべきか
計画立案・決断・現場指揮の秘訣とは 本部会議と現場会議は、どこが違うか 私心は、決断の大敵である 命令し、統率し、指揮する能力 現場指揮者は「ハンズ・オン・マネージャー」たれ
第5章 現場指揮者における「統率の原理」
初期の目的を達成するための方法論を明かす 統率力の根源は「人間愛」 独断専行の勇気も必要 士気高揚こそ、現場指揮官の使命
以下に、この本の序章より抜粋引用して、「有事の指揮官のあり方」をご紹介します。(間瀬 誠)
有事の指揮官の「不作為の罪」は重い
平成7年1月17日午前5時46分、震度7を超える直下型地震が発生した。この阪神大震災では死者5378名、負傷者34626名、損壊家屋159544棟(2月16日警視庁調)という、関東大震災を上回る大災害となった。
このような危機の状況下で、人間集団にとってもっとも大切なのは「指揮官」である。
普段は根回し、円滑な満場一致、話合い、繰り返される会議などによる「調整」が尊ばれる。そして、日本型の指導者は、本質的に農耕民族だからか、村の長老タイプの調整能力に優れた、人格的に円満で敵のいない人が選ばれる。
平時の日本人社会では、決断力と実行力に富む狩猟民族の族長タイプの、個性豊かで、自分の意見を持ったリーダーは歓迎されない。「和を以って尊しとなす」がモットーで、集団の意思決定は、何となくみんな同意という満場一致のコンセンサス方式によって行われる。どうしてもという場合は絶対多数決方式が採用される。
しかし、「阪神大震災」のような非常事態、つまり有事にあっては、意思決定は指揮者の「決断」、それも場合によっては少数決、いや、独断専行によって行わなければならない。長々と会議をやっていると、倒壊した家屋の下敷きになって助けを求めている人びとが死んでしまうかもしれないからだ。
火災発生後、内閣総理大臣が下すべきだった決断は、延焼防止のための破壊消防、優先緊急車両を通すためのマイカー規制、違法駐車の実力排除。断水で消火用の水がなければ、化学消化剤の使用。自衛隊のヘリコプターによる空中からの消火など、第2次災害の可能性を覚悟し、憲法の定める「私権は公共の福祉のために、一定の保証の下に制限できる」との精神に則って、全責任を以って被害局限のための強攻策を断行することだった。
だが、村山総理は決断できなかったし、行動も起こさなかった。総理が決断できなければ、国土庁長官も逃げる。所管大臣が回避したものを、自衛隊を司る防衛庁長官、警察を指揮する国家公安委員長、消防を指揮する自治大臣、海上保安庁を指揮する運輸大臣らのうち誰が、決断して命令できるだろう。この不決断、不作為は各組織の現場指揮官たちに波及し、もしかしたら救えたかもしれない多くの生埋めの被災者たちが、燃え広がる業火の中で、悲惨な焼死を遂げるという結果を招いた。
人の生死にかかわる重大な局面で、決断と指揮命令を下す百尺竿頭に立たされたすべての指揮官は、その階級の高低、任務の軽重、老若を問わず、村山総理が苦悩したとまったく同質の孤独を味わうことになる。指揮官、責任者というものは孤独な存在なのである。その苦しみに耐え、人びとのために最善と信じる道を選び、その結果生ずる全責任を負おうとするのが指揮官魂というものだ。
内閣総理大臣は、指揮官職の最高位である。5000人以上の犠牲者を出した「阪神大震災」は、本質的には不可抗力の天災であった。しかし、倒壊した家屋の下敷きになって生埋めになった何百という犠牲者の一部は、内閣総理大臣が、自衛隊の大部隊の早期出動や、消防の破壊消防、化学消火剤の使用を蛮勇を奮って決断し、渋る兵庫県知事、神戸市長に自衛隊法第83条の自衛隊出動要請を行わせ、スイス、フランスからの捜索犬を四の五のいわずに入国させ、人命救助優先の諸施策を協力に推進していたら、おそらく一命だけはとりとめたことだろう。
村山総理に作為の罪はない。しかし、政治・行政の最大の使命の一つは、国民の生命・身体・財産の保護、即ち安全保障行政である。その優先性を軽視し、過去の亡霊である反自衛隊感情、極端な地方自治尊重に患い、不決断に陥り、5000人の死者、35000人の負傷者、10兆円を超える国民の財産に損害を与えた「指揮官」村山総理の「不作為の罪」は重い。
「個の行動原理」と「集団の行動原理」
平時にあっては、みんな、人間が集団生活をする生きものであることを忘れている。
(平和ボケしてしまった)平時における今日の日本は、極端な「個」の尊重であり、行動原理は「自由」で、「規制」が法的にも社会的にも排除される。意思決定の過程も「話合い」「根回し」。リーダーは農耕民族にふさわしい、敵のいない円満な人格者、長老タイプの「調整役」が選ばれる。平時はこれで何の支障もない。
ところが、非常事態が発生し、その人間集団が危機に見舞われると、人は突然、人間が集団的動物だったことを思い出す。
「阪神大震災」はその典型的な例であった。まさに日本社会の行動原理が、大震災発生の瞬間に「個の行動原理」から「集団の行動原理」へと切り換わったのだ。ところが、集団指導制の「みんなで渡れば怖くない」といった農耕民族型指導システムに安住していた村山内閣と平和ボケした全官僚機構は、中央から地方まで、非常事態にただちに対応しそこねてしまった。
狩猟民族の族長は、狩りに失敗し、獲物を獲り損ね、部族を飢えさせれば、途端に族長失格で追放される。他部族や天変地異との闘いで、部族の安全が守れず、避難誘導や防衛戦に失敗すれば、ただちに失格する。
農耕民族の指導者は、凶作について責任を取らない。「不可抗力だ」、「運命だ」ですんでしまう。しかし、狩猟民族はちがう。マンモスを見つけるトラッカー、狩場に追い込む勢子、石斧でアキレス腱を狙う戦士たち、全責任を負って作戦の全般指揮を取るのが族長だ。もしも、族長の不決断、無為・無策、不作為、無能などのせいでマンモスが逃げ、肉が得られなければ部族は餓死にする。だから、失敗すればリーダーはただちに更迭される。
この狩猟民族の役割分担を、防衛庁自衛隊、海上保安庁、警察、消防、地方自治体、あるいは本省の国土、防衛、外務、厚生、運輸、郵政などなど、各省庁と読みかえ、「族長」を内閣総理大臣と読みかえれば、そのまま一目瞭然、「個」と「集団」の行動原理の違い、そして平時・有事に即応して、その原理スイッチの切換えが不可避であることが分かるだろう。
平時体制とシステムを一瞬にして切り換え、「決断」「責任」「指揮命令」「従わぬものへの強制」という、苦しい非情な任務を果たすのが「指揮官」の宿命的な使命なのである。
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