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ソウル大学の歴史(京城帝国大学)
前史 初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年(光武10年)まで11年経っても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた。
1910年(明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府は朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる。
しかし、当初は朝鮮人年少者は未就学であり、就学した朝鮮人も、多くは民族系の私立学校や書堂に通学し、日本系の普通学校での朝鮮人は日本人の3%程度だった。
総督府はこのような事実に対し、1911年(明治44年)に改正私立学校規則を公布、1918年(大正7年)に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が93%、女子が70%代にまで急上昇した。
1918年(大正7年)、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、1920年(大正9年)に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」(1922年)により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。
朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる。
他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ系宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。
大学沿革 1929年(昭和4年)から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年(昭和6年)の満洲事変と1932年(昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年(昭和16年)には理工学部が設置された。
城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変(日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。
しかし、1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年(昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年(昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。
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