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■ここで使う「若者」とは、年齢だけを規定して使っておりません。
その意味は、GHQ占領下に消された「歴史」を取り戻そうと 活動されていらっしゃる日本人であれば、 柔軟性があり将に「若者」と認識しております。
実際、「60年安保闘争」や「70年安保闘争」は、 朝日新聞や岩波書店を中心とした反日メディアが主導した「闘争」だったのです。 それは、朝日新聞一社だけでもなければ、 「60年安保闘争」も「70年安保闘争」も起こらなかったと考えられるからです。 その頃の朝日新聞は、モスクワ支局長の経験者でなければ、 朝日新聞の社長になれないと真しやかに語られていました。 60年代後半から70年代前半には、 大学生は『朝日ジャーナル』を 小脇に抱えていると女子学生に持てた時代だったのです。
いま朝日新聞を読んでいると「白い目」で見られ、 息絶えだえになっている「過激暴力集団」に間違えられ、 持てるどころではありません。
この20数年、ひたすら情報戦を水面下で実践してきましたが、 時間がかかりましたが準備は整いましたので、 次回発売される「Voice S」から若者に参加していただき、 一気呵成に「情報革命」を仕掛けたいと切に望んでいます。 情報戦とは、先ず戦える環境を整えることから初めることが必要ですので、 1985年以降、 駅売店で売っている週刊誌に「南京大虐殺」を否定した記事が掲載されたのは、 私が仕込んだ情報戦の一貫の記事だったのです。 また「南京大虐殺否定論」の土俵を拡げるために 小林よしのり著『戦争論Ⅰ』に「南京大虐殺否定論」を
仕込んだのも情報戦の一貫として私が仕掛けたものです。
最近、小林よしのり氏の論理・思想が迷走しているように見えるのは、 「接ぎ木情報」だったからなのであり、別に驚くことではありません。 学術的に遺すべき図書として、絶版になっていたものを文庫本として、 企画を持ち込んで文庫化された図書として、 『パール判事の日本無罪論』、 『「南京事件」の総括』、 『「南京事件」日本人48人の証言』、 『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く』があります。 これらは私が企画を持ち込まなければ、絶版のまま消え去ったことでしょう。 現在、これら4冊の文庫本は電子版にもなっています。 最近、驚いたことがありました。 それは、親くしている全国的な女性団体の代表が、
いつも手元において活動の「教典」としている本が 『パール判事の日本無罪』と聞き、
「解説を書いているけど読んでくれた?」と質すと 「えェ〜」と驚き、まったく気づかなかったとのことでした。
これでは、情報戦を戦えないと思い、 「公」にできることは、徹底的に明らかにします。 まず、『パール判事の無罪論』を読まれている方は、 電子版以外だけで13万人を超えました。 この書は、司馬遼太郎氏が絶賛した書であり、 東京裁判の実相を知る「教典」として存在しております。 佐藤和男青山学院大学名誉教授は 「国際法の授業で副読本」として使われていた図書です。 最近、東京裁判関連本が多数出版されるようになっていますが、 『パール判事の日本無罪論』を超えるものはありません。 この一冊読めば十分です。時間とお金が無駄になります。 『パール判事の日本無罪論』が どのような経緯で出版されたかを解説に書いていますので、 書店でまず解説を読んでから購入するか判断してください。 これら一連の文庫本は、情報戦の「武器」として企画出版したものであり、 これら文庫本を読了された方々が、疑問として残った部分を「補足」するために 企画した図書が『ひと目でわかる〜』シリーズなのです。 これまでの「武器」で十分反日勢力を蹴散らす威力はありますが、 出版物には様々な限界があることが、最近明らかになりました。 それは、図書館を牛耳っている組合員や 書店に潜んでいる反日勢力の妨害です。
そこに「93円」で核心スクープ論文を読める革命的な媒体が登場したことで、 情報戦の環境はガラッと変わりました。 それは、成りすまし日本人の妨害を受けないことで、 武道館や横浜アリーナなどに集まる若者達が、コンサートに参加するノリで、 「93円」の電子版冊子の情報がツィッターなどで拡散されたら、 一瞬で核心情報が知れ渡り、 日本の国益を護れる世論が形成できる時代に突入したのです。 来年早々から、朝日新聞を中心とした反日勢力が怖れていたことが、 現実化しますし、させますので 皆様方の協力を切に望んでおりますので、宜しくお願い致します。 ★『Voice S』電子版冊子第3弾は、 『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く』を検証し、 報道写真を多用して「呪縛を解く」だけでなく、 「眞相箱」の嘘を徹底的に潰してあります。 日本罪悪史観(自虐史観)の教典を潰せれば、ガン細胞の根の削除になります。 そもそも「南京大虐殺」などの捏造用語は 「眞相箱」の台本で最初に使われていたのです。 12月中に「93円」で『Voice S』として発売されます。 ¥578
※ジャーナリスト水間政憲;インターネットだけ転載フリー〈条件・全文掲載〉
手元にあるこの『パール判事の日本無罪論』の
解説の水間氏の文章の最後の一文を載せます。
この書が、ダイヤモンドのごとく真理の光彩を放つとき、手にした人々が、
無意識にすり込まれていた東京裁判史観というマインド・コントロールから
解かれることを祈り、田中正明氏に感謝し、武蔵野をあとにした。
平成十三年盛夏
私は以前も書きましたが、この本が中学校の歴史の副読本になり、
全ての日本人に読まれる事を願います。
【関係記事】
大東亜戦争の真実
武士道を貫いた日本軍兵士
<マレーシア> ラジャー・ダト・ノンチック(元上院議員)
日本軍は、長い間各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い とても白人には勝てないと諦めていたアジア民族に感動と自信を与えてくれました。
長い間眠っていた「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせてくれたのです。 二ミッツ元帥(太平洋艦隊司令長官)
この国を訪れるもろもろの国の旅人達よ。 故郷に帰ったら伝えてくれよ。 この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。 その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を! <イギリス>スリム中将(イギリス第14軍司令官)
たたかれ、弱められ、疲れても 自身を脱出させる目的でなく、本来の攻撃の目的を以って かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団如きは 史上にその例を殆ど見ないであろう。 <韓国>朴鉄柱(韓日文化研究所)
現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は 決して日本から仕掛けたものではなかった。 平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。 それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。 日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。 それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。 日露戦争と大東亜戦争。 この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。 この意義はいくら強調しても、強調し過ぎることはない。 大東亜戦争で日本は敗れたというが 負けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。 彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。 日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。 日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。 ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが こんなものはすぐに回復できたではないか。 二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが しかし彼らは英霊として、靖国神社や護国神社に永遠に生きて 国民尊崇対象となるのである。 ガザリー・シャヘー(マレーシア元外務大臣) 日本はどんな悪いことをしたというのか。
マレー半島で南下したときの日本軍は凄かった。 わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。 私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。 日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず マレーシアは独立したのだ。 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。
なぜ日本が謝るのでしょうか? あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイギリス人を追い払ってくれたではないですか。 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。 この日本が払った尊い犠牲を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。 サンティン・アムステルダム市長
本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人のほうです。
日本は敗戦したが東亜の目的は実現した。
その結果アジア諸民族は各々独立を達成した。 日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。
自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。 タナット・コーマン氏(タイ国元副首相)
あの戦争によって、世界のいたるところで、植民地支配が打破されました。
そしてこれは日本が勇戦してくれたおかげです。 新しい独立国が多くの火の中から不死鳥のように姿を表わしました。
誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。
<インドネシア> モハメット・ナチール元首相)
アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。 大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を、日本が代表して敢行したものです。 大東亜戦争というものは本来なら、私たちインドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思います。 もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。 大東亜戦争はそういう戦いだったのです。 <インドネシア> サンパス(元復員軍人省長官)
特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。 日本の戦死者は、国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲賞を贈っているが、それだけですむものではない。 <インドネシア> ブン・トモ(元情報相)
日本軍が英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。 そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。 そして実は我々の力でやりたかった。 <インド> ネール(初代インド首相)
彼ら(日本)は、謝罪を必要とすることなど、我々にはしていない。 それ故インドは、サンフランシスコ講和会議には参加しない。 講和条約にも調印しない。 グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
インドは程なく独立する。 その独立の契機を与えたのは日本である。 インドの独立は日本のおかげで30年早まった。 この恩は忘れてはならない。 これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ、東亜民族はみな同じである。 インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう。 <ビルマ> バーモウ(元首相)
日本ほどアジアを白人支配から離脱することに貢献した国はない。 しかしまた、日本ほど誤解を受けている国はない。 チャンドラ・ボース(デリーインド国民軍裁判主席弁護人)
日本軍の勝利は、アジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに、参戦することを可能にした。 ククリット・プラモード(タイ国元首相)
日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。 日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。 12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。 更に8月15日は、我々の大切なお母さんが、病の床に伏した日である。 我々は、この二つの日を忘れてはならない。 <アメリカ> ベン・ブルース・ブレークニー(東京裁判弁護士)
原子爆弾という、国際法で禁止されている残虐な武器を使用して 多数の一般市民を殺した連合国側が、捕虜虐待について、日本の責任を問う資格があるのか。 <インド> パール判事(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
私の判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということが分かるはずだ。 それなのに、あなた方は、自分らの子弟に、 「日本は犯罪を犯したのだ」 「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」 と教えている。 満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。 日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流されていくのを 私は平然として見過ごすわけにはゆかない。 時が熱狂と偏見とを和らげた暁には、また理性が虚偽から、その仮面をはぎとった暁には その時こそ正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろう。 「群 青」神風特攻隊 Kamikaze corps in Japan
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2014年11月30日
コメント(1)
【オリンピック】平昌五輪 「長野」との共催もある!? 現実味を帯びてきた分散開催★2©2ch.net
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生活保護を受けながらIT犯罪に手を染めている中国人は数多いのでしょう。公安・警察はしっかりと対処せねばならない。
日本各地に中国のサイバー攻撃拠点があった? 警視庁の中国人業者ら摘発で大騒ぎ 2014/11/20 19:52 j-cast.com
不正アクセスと知りながらネット接続を中継していたとして、警視庁などが中国人らのサーバー業者を一斉摘発した。その接続拠点は、日本の政府機関や企業へのサイバー攻撃などに使われていたかもしれないというのだ。
「金銭などの被害は確認できていませんが、不正取得したIDやパスワードを使って特定サイトの会員に成りすまそうとしたと見られる事案はありました」
ネットバンキング不正送金に業者サーバーが使われる ネット接続サービス「OCN」を運営するNTTコミュニケーションズの担当者は、取材にこう明かす。 報道によると、IDやパスワードは、摘発されたサーバー業者らがブローカーらから買い取って中国で販売し、不正アクセスに利用されたとされている。
接続を中継するサーバーは、プロキシ(代理)サーバーと呼ばれ、利用者のIPアドレスがサーバーのIPアドレスに置き換わるのが特徴だ。
このため、実質的に匿名でネットを利用できることになり、中国からの接続も日本国内からの接続と偽装することも可能になる。接続の履歴であるログが業者に消されてしまえば、発信元も分からなくなってしまうという。
警視庁では、プロキシサーバーがサイバー犯罪に利用されているとして、2014年2月から業者の摘発を始め、東京都豊島区の中国人の業者らを不正アクセス禁止法違反や著作権法違反などの疑いで次々に逮捕した。3月には、大手プロバイダー10社に対し、悪質なサーバー業者と契約しないよう要請もしていた。
今回摘発された豊島区の別の業者と台東区の業者も、プロバイダーから契約を解除された。
しかし、豊島区の業者は5〜8月、台東区の業者は7月、ブローカーらから買ったIDなどをサーバー利用者に販売して不正アクセスにも使わせていた疑いが持たれている。
2業者は、中国でIDなどを1700〜5000円で1500人以上に販売していたという。
これらのIDが使われたかは不明だが、ネットバンキングの不正送金にサーバーが使われたことが分かっており、1〜6月に約300件、4億5000万円ほどの被害が出ていた。
会員ポイントを詐取するなどしようとした形跡?
読売新聞の記事によると、IDやパスワードなどの大半は、パソコン周辺機器メーカー大手「ロジテック」の無線ルーターから流出していた。 ロジテックでは2012年5月、ルーターの一部でセキュリティに脆弱性があるのが見つかり、外部からIDなどが取得される恐れがあるとして、ID変更などを呼びかけていた。
そこで、親会社であるエレコムの総務課に、今回摘発された業者が不正取得したIDなどがルーターから流出したものなのかについて取材すると、
「今のところ調査中で、確認できていません」
とのことだった。
マスコミ報道では、プロキシサーバーを使うことによって、日本の政府機関や企業へのサイバー攻撃などにも悪用できる。IDなどが流出していたとすると、こうした被害は確認されているのだろうか。
前出のNTTコミュニケーションズによると、IDなどを使って特定サイトの会員に成りすまそうとしたとみられるケースが13年末ごろから14年夏ごろまであり、3社ほどから
「アクセスが集中して、ログインしずらい状態になっているので、なんとかしてほしい」
と連絡が来た。
何度もログインを試みて会員ポイントを詐取したり個人情報を閲覧したりしようとしていたとみられるといい、大量のデータを標的のサーバーなどに送り付けてサービスを停止させるDDos攻撃の可能性もあるという。
また、毎日新聞の記事によると、会員制アメーバブログの不正ログインに摘発業者のサーバーが使われていたことが分かった。
13年4〜8月に会員のメルアドや生年月日、仮想通貨の履歴情報などが閲覧された可能性があるというのだ。ただ、運営会社のサイバーエージェントでは、J-CASTニュースの取材に対し、
「その後の調査でも、金銭などの被害は確認されていません」
と答えている。
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<民論団論>連動する日本の「経済」と「歴史」…金慶春(48)兵庫県・団体役員
(2014.11.26 民団新聞)
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攻勢受ける韓国
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本日、11月30日 秋篠宮文仁親王 は、49歳の誕生日です。 臣民としてお祝い申し上げます。 秋篠宮文仁親王 49歳 会見全文 庭で楽しまれる秋篠宮さまとご一家=11月15日、東京・元赤坂の秋篠宮邸(宮内庁提供) (問1)
−−殿下にお伺いします。今年は、広島の土砂災害や御嶽山の噴火など全国各地で災害が相次ぎ、多数の犠牲者が出ました。皇室では、千家典子さんの結婚という慶事の一方で、桂宮さまが亡くなられるという弔事もありました。この1年を振り返り、印象に残っている出来事と御感想をお聞かせください。特に、御公務では両殿下で中南米やアフリカに3回の公式訪問を重ね、国際親善に努められました。皇室の外国訪問についてのお考えも併せてお聞かせください。
殿下「この1年様々(さまざま)なことがありました。中でも今質問にありました広島の土砂災害、それから御嶽山の噴火による事故を始(はじ)めとして、自然災害が台風なども含めて多かったというのが印象に残っております。この関東の近辺でも2月に大雪が降って、それによる被害もかなり出ました。また、短時間に非常に降水量の多い雨が降るというのが増えていると思いますし、これからも数が多くなってくるだろうという報告書も出ています。そのような災害に対するリスクの管理が非常に大事になってくると思っております。また、御嶽山の噴火による事故についても、なかなか予測も難しいところがあるということも聞いていますけれども、日本には火山も多い一方で、登山を楽しむ人もかなり多いと聞いています。そのようなことを考えると、登山をして、これはいろいろな目的で行く人がいると思いますけれども、もちろん噴火に対する予知も大事ですし、山を登る人たちのリスク管理というのも大変大事になってくるのではないかと思っております。
また、もう一つ挙げるのであれば、今、西アフリカの方で広がっているエボラ出血熱があります。これは非常に感染力の強い感染症ですけれども、それに携わっている医療関係者には深く敬意を表したく思います。これに限らず様々な感染症があります。こういうものが一旦流行したときにどのように対応するか。何となくアフリカで起こっていることで、日本にいると遠いところで起こっているような気持ちになりますが、これだけ海外との行き来が容易にできる時代になっていることを考えると、そのことに適切に対応することが求められてくると思っております。日本でも約70年ぶりにデング熱が発症したわけですが、例えば気候の変化に伴って今後マラリアなどもまた日本で出てくる可能性もあるかと思います。そういうことへの対応をきちんと考えていくということが大変大事なことだと思っています。
あとこの1年で印象に残ったことというと、先達てノーベル物理学賞、3名の日本、これはどういう表現をすればいいのでしょうか、2名の日本人と1名の、国籍がアメリカに移られていますから日系になるのでしょうか、日本出身の方がノーベル物理学賞の受賞が決まったという、とてもうれしいニュースでした。日本の科学分野がこれからもますます発展していくことを願っております。 それとつい2日前でしょうか、スポーツの話になりますけれども、お相撲の白鵬関が32回の優勝に輝きました。大鵬の記録と同じになるわけですけれども、私なども32回に達するという人が今後出るのかと思っていましたが、それが実際のことになったことは非常にすばらしいことだと思います。
皇室の外国訪問については、これは公式と非公式と両方あるわけですけれども、非公式の方は非常に多様なので、とりあえず公式の訪問というものについて少し私の考えをお話ししてみたいと思います。例えば天皇の公式訪問であると、国賓という形がとられることが多いと考えますけれども、皇族の場合には、国賓としての訪問というのはまずないわけです。そうすると国際親善・親善訪問という形になろうかと思います、枠組みとしてはですね。ただこれは、なかなか受け入れる側としても、皇族、しかも天皇でもない皇太子でもない皇族をどう捉えていいかというのは難しいときがあるのかなという気がします。私たちも今まで何回くらいか分かりませんけれども、行った中で向こうの元首の方であったりとか大臣だったりとかとお話をしている中で、今回あなたたちが訪れた目的は観光旅行ですか、というふうに聞かれたことが2回くらいありますかね。こちらも観光旅行ではないけれども、かといって単なる親善だけですと主たる目的が見当たらなくて、なかなか答えるのが難しかったことがあります。皇族ですから、外交に携わってはいけないわけです。外交ではない親善、例えば王室がある国ですと、向こうの王室との親善というのはある程度分かりやすいかもしれませんけども、そうでない国もたくさんありますし、もし公式の訪問をするのであれば、例えば外交関係ができてから何十周年であるとか、日本と当該国との何か大きい文化行事があるとか、何か一つの核になるものがあるべきではないかと思います。そうではなくて単に親善ということを目的とした公式訪問というのは、目的が曖昧になりますし、そういうものは余(あま)りよろしくないな、というふうに考えております」
(問2)
−−両殿下にお伺いします。来年は戦後70年を迎えます。両陛下は今年、沖縄と長崎を訪問し、来年にはパラオ訪問が検討されています。両殿下も今年、悠仁さまと共(とも)に対馬丸の追悼イベントに参加されました。両陛下から戦争や慰霊についてどのようなことをお聞きになり、どのように受け止められていますか。また、お子様(さま)にはどのように伝えていますでしょうか。
殿下「私が本当に子どもの頃から度々に両陛下から戦争の話を聞きました。特にあれは、1975年でしたでしょうか、まだ復帰から3年の沖縄で海洋博が行われたときには、非常に激しい地上戦になった沖縄の戦争のときの話を、折に触れてというよりも非常に頻繁に沖縄戦の話を聞き、またそれに関連する映画を見たりいたしました。その後も度々に戦争のときの話を聞く機会があり、私たちは、戦争というものを二度と繰り返してはいけないということを強く思ったわけです。ただ、一方で私が子どもの頃にたくさん戦争の話を聞きましたけれども、それをなかなか子供心に理解するというところには、非常に大切なことだということは分かりましたが、きちんと理解するというところには至らなかったと思います。むしろ、そのことを分かるようになったのは、やはり、ある程度大人になってから話を聞くとともに、それに関連する昭和の歴史について戦争に触れているところがたくさんありますので、それに関連する書籍を読んだりしながら、だんだんと理解をできるようになっていったように思います。ただ、そうではあっても私自身、私たち自身がその時代に生きていたわけではありません。終戦後20年たってから生まれています。そのようなことからこういう出来事があったということは分かっても、そのときのその時代の雰囲気というのはどうしてもやはり理解、実際の感覚として分からないところがあります。
また、慰霊についてですけれども、これは戦後50年の機会に両陛下は大きな被害を受けた広島、長崎、沖縄と、東京大空襲被害での東京を慰霊されております。また60年のときに、これも多くの人が犠牲となったサイパンでの慰霊をされております。この慰霊について、やはり戦争中、そして終戦、それから戦後の復興を見てこられた両陛下にとって、その礎となった人たちのことを、考え、思いを寄せないわけにはいかないというお考えがあったと思います。そして1回慰霊をするごとに、また新たな事実を知るようになり、やはり慰霊をすることが非常に大切なことだという気持ちに自然になっていかれたと聞いております。特に、サイパン。今の陛下にとってサイパンが取(と)り分(わ)け印象に残っているのは、戦争がだんだん激しくなって、疎開が始まって、最初の疎開をされたのが静岡県の沼津だったのです。沼津の疎開中に、ある日学校の授業から帰ってきたときに、お付きの人からサイパンが陥落して、危ないので日光の方に場所を移しますということを言われて、それでサイパンが陥落したということが大変なことなのだと強く印象に残っているということを伺ったことがあります。いずれにしても、やはり戦争の中に日々の生活があった両陛下にとって、戦争の記憶を風化させることがないようにするという気持ちが非常に強くて、それが国内、それから海外での慰霊というものにもつながっていると私は理解しております。 子どもたちについてどのように伝えているかということですが、私たちも時々戦争の話を自分が知っている範囲で伝えることはあります。一方、子どもたちが御所へ伺ったときに、折々に両陛下から、その当時のことについてのお話がありました。先ほども申しましたように、私たちは戦争そのものを知らないので、自分の子どもたちに大事なことで伝えられることは伝えますけれども、なかなか当時の様子というのを正確に伝えることには限界があります。その意味からも両陛下から子どもたちへの話というのは非常に大切な機会であると思っております。私たちが今までしたこととすれば、例えば戦争で大きな被害を受けた場所に一緒に行って、その場で慰霊碑に花を手向けたり、体験のある方から話を聞いたり、そういうことはいたしました。先ほど質問にもありました、今年が学童疎開船対馬丸の悲劇から70年という節目の年ということもあり、その行事に家族で出席をしたわけです。これはそのときに長女から聞いた話ですが、彼女は対馬丸のことを、私たちがそのときの話をしたり、沖縄に行ったときに当時のことを知っている方から聞いたことが最初だと思っていたのですが、学校の図書室に、対馬丸の、何て本でしょうね。ちょっと題名は分かりませんけれども、あって。小学校の低学年の頃だと思うのですが、そのときに本を読んで、そういうことがあったことを知ったということを話しておりました。私からは以上です」
−−妃殿下はいかがでしょうか。
妃殿下「宮様と御一緒に参内(さんだい)しました折などに、両陛下より戦争や慰霊のことについてお話をお伺いすることが度々ございました。戦争によりかけがえのない尊い命を失われた多くの人々やその御遺族に対する深い思い、そして戦後の荒廃から復興に向けてたゆみない努力をされてきた人々に寄せるお気持ちをこれからも大切にしてまいりたいと思います。
天皇陛下が皇太子殿下のときにお話をされた「日本人として忘れてはならない4つの日」には、子どもたちが小さいときから一緒に黙祷(とう)をし、戦争で亡くなった人々のことを静かに思いながら過ごしてまいりました。また、本を読みましたり、戦争を体験した人や専門家からのお話を伺いましたり、関係する場所を訪れたりすることを通して、子どもたちが自然に平和の尊さを感じることができるよう心がけてまいりました。
戦争を直接知らない世代の私たちにとって、戦争を体験された方々の様々な思いをしっかりと受け止め、次の世代に引き継いでいくことは容易なことではありませんが、これからも戦争と慰霊について考える時間を大切にしていきたいと思っております」
(問3)
−−両殿下にお伺いします。佳子さまは学習院大学を中退し、国際基督教大学に合格され、入学することを決められました。12月には成年を迎えられます。御両親として佳子さまの決断をどのように受け止め、アドバイスをされましたか。佳子さまとの20年間の思い出と成年皇族として期待することもお聞かせください。英国に留学された眞子さまに期待されることと、小学2年生となられた悠仁さまの御成長ぶりについても併せてお聞かせください。
殿下「次女が大学を中退して、また、新たに受験をして、国際基督教大学に入学するということを決めたわけですけれども、私自身かなり直前までどこの大学に行きたいということをはっきりとは聞いていなかったんですね。ただ、高校3年のときに受験をして、第1志望だったところに入れなくて、そのまま内部進学をして、しばらくいたわけですけれども、当初からまたもう一度環境を変えて勉強したいからということを申しておりましたので、私はごく自然な流れだったのかなと受け止めました。私から特段何かアドバイスをしたということはありませんけれども、もしこのことを言っておいたら、また少し違ったかなと思うのは、第1志望のところに入れなくて、内部進学ができたわけですけれども、そのときに、何を自分がこれからしてみたいか、大学に進学せずに考える1年であってもいいのではないかということを言えば良(よ)かったかなと、これはもう後からになってしまうのですけれども、思ったことはありました。
20年間の思い出、そうですね。まず、生まれてしばらくの頃ですけれども、長女と比べると、すごく静かな子だったんです。静かな子というのは、赤ちゃんですから、夜泣きを余(あま)りしなくて、途中で起こされることが少なかったということですけれども、とても静かな子だなということを今でもよく記憶しております。それから、私は海外に家族みんなで行ったことはありますけれども、次女と一緒に二人で出掛けたことはないのですが、何の機会だったでしょうか、二人で上野動物園に行ったことがあるんですね。上野動物園に一緒に行って、ちょうど桜がきれいな季節であったので、じゃあ帰りに寛永寺の辺の桜を少し見ていこうかと言って、二人でお花見を楽しんだということが、次女が恐らく幼稚園の頃、5歳くらいでしょうか、そういうことがありました。また、だんだん年齢が高くなるにつれて、これは誰でもそうなのでしょうけれども、いろいろと親と口論になる機会も多くなってきました。私とちょっと性格も似ているところがあるので余計そうなのかもしれないのですけれども。以前は、口論になると、私自身も、長女が言っていたように導火線が短い人間なものですから、かなり激しい口論、応酬になったのですけれども、こちらもだんだん年を取ってきて、的を射たことを指摘してくれていることが意外と多いということが分かりました。ですから、これからも、娘に言われたことをある程度きちんと自分でも意識に留めておきたいなと思っております。それが20年間で思ったことです。
それから成年皇族としてとおっしゃいましたか。これは多分長女が二十歳になったときだったか、同じようなことを皆さんにお話ししたことがあるかもしれませんが、成年皇族としても、そうでなくても、いろいろな機会に開催される行事などに出席してほしいという依頼を受けたりすることがありますが、そういう機会一つ一つを大切に思いながら務めていってくれたらいいなと思っております。 長女については、もちろん先ほどお話ししたことは長女にも同じことが言えます。共通して、これはそのうち一番下の息子にもそういうふうに言うときがあると思いますが、基本的には頂いたお仕事一つ一つを大切に務めていってほしいということが一番ですけれども、それとともに現在イギリスの大学院で博物館学を専攻しておりますので、将来的に、そこで学んだことがいかせるような仕事ができたらいいのかなと思っております。
長男につきましては、去年できなくて今年これができましたというようなことは何があるかというのは今すぐには思い浮かびませんけれども、ただこの1年見ていると、少しずつ興味が広がってきているのかなという印象を受けます。割と息子は早起きをするのですけれども、朝早く起きて、別の部屋に行って本を読んでいたりとかすることもありますし、そのほか何があるでしょうか。何がありますかね」
妃殿下「夏ですと、飼っている魚とか虫の様子を見に行ったり、今は折り紙をしていますでしょうか」
殿下「少しずつ興味を持つ範囲が広くなってきているかなという感じは受けます」
−−妃殿下はいかがでしょうか。佳子さまの大学の決断をどのように受け止め、アドバイスをされましたか。
妃殿下「次女の佳子は、中学校・高校にいるときから、今までとは違う新たな環境の中で学びたい気持ちを持っていたように思います。大学に入学した後も、日々、専門分野の勉学に励み、また、お友達にも恵まれ、共に過ごしておりましたが、一方で、自分が考えていたことに向かって進みたいという思いが強くなって、私たちにも相談をすることもありましたが、時間をかけていろいろと考えて今回のような決断をし、一歩をふみ出したと思っております。
娘に対してのアドバイスですが、どちらかというと娘に伝えた言葉になると思いますが、娘がしっかりと考えた上での判断であるならば、目標に向かって努力するようにと話しました。そして、このように学校で学び、知識や経験を深めることができるような環境は、非常に恵まれていることを心得ておくように伝えました」 −−佳子さまとの20年間の思い出と、成年皇族として期待することをお聞かせください。
妃殿下「先程宮様がお話しされたことと重なりますが、娘の佳子はとても小さいときは静かな女の子で、でもよく周りを見て、自分の意志をしっかり持っていたように思います。小さいときから手を動かすこと、手芸や折り紙を作るのが大好きで、いろいろと出来(でき)たものを私のところに持ってきて見せてくれたことをよく覚えています。また、私が娘に作ってあげたぬいぐるみに名前をつけてくれ、大事にしていました。そのぬいぐるみに兄弟を作りたいと娘は考えまして、小さいなりに私が作ったぬいぐるみと同じような形になるように考えて、幾つもぬいぐるみを作ったことを思い出します。小学生の頃になりますと、フィギュアスケートに関心を持ち始めて、小学校の授業が終わった後や、休日の早い朝にスケートの練習のためにスケートリンクへ一緒に通いましたことも懐かしく思い出されます。
姉と弟とについてですが、3歳違いの姉の眞子とは、幼稚園、小学生の間は外で元気よく鬼ごっこをしたり、自転車に乗ったり、一輪車に乗ることがよくありました。中学・高校に移りますと、ちょうど10代の頃でしょうか、外遊びはなくなり、二人で仲良く話し合う時間が増えていきました。娘の佳子は小さいときから妹か弟が欲しいと話していました。そのため、自分に弟ができたときには大変喜んでおりました。私が出産する前に1か月入院しておりましたが、そのときには度々病院に訪ねてきてくれ、学校の宿題をしたり、これは夏休みだったので夏休みの宿題でしたが、留守中のことやスケートで練習したときのことの話などをしてくれたりしました。このように、娘の佳子の優しさに触れる穏やかな時間も思い出されます。
弟の悠仁とは、一回り、12歳年が違いますが、年齢が近い姉弟のように仲良く遊んでいる姿をよく見かけます。悠仁は優しくて、同時にしっかりと言うべきことは話してくれる姉を慕っています。
佳子は私にも素直に気づいたことを話してくれますし、また励ましたりもしてくれます。そのような佳子の言葉が私自身の考えや行動を見つめ直したり、また課題に取り組むきっかけとなりましたりすることもあります。いつの間にか、小さかった娘の佳子が成長し、私たちが頼るようになってきたことを、大変うれしく思います。 また、成年皇族として期待することについてお話しいたしますと、娘の佳子は来月二十歳の誕生日を迎え、新年の宮中行事に出席させていただくようになり、また成年として公的な活動に携わるようになります。これからも、日々の暮らしや務めを支えている人が多くいることを心に留め、感謝の気持ちを抱きつつ、様々(さまざま)なことを学び、経験を積み重ねて、若い成年皇族として一つ一つの務めを大切に果たしてほしいと願っております」
−−もう一つ、英国に留学された眞子さまに期待されることと、小学2年生となられた悠仁さまの御成長ぶりのことについてお聞かせください。
妃殿下「長女の眞子は、今年の秋から英国の大学院に留学し、学び始めています。大学院のことは具体的には知りませんが、様々な講義や実習を受けたり、またその後には短い期間で論文をまとめたり、続いて博物館実習の予定があると聞いております。このように比較的詰まったカリキュラムのようですが、有意義な時間を過ごし、元気に帰国してほしいと思っております。
長男の悠仁のことですが、今年も成長を感じる様々な場面がありました。3歳頃からでしょうか、野菜作りを手伝うようになりまして、今も野菜を作るのが好きで、そのようなときにも成長を感じることがございます。例えば、以前は野菜作りはどちらかというと、収穫する楽しみが中心でしたが、今は土壌を整え、種をまいたり、苗を植えたり、水をやったり、雑草を取ったり、このような野菜畑での作業、野菜を育てることから収穫することまで、その一連の過程に積極的に携わるようになってきました。家族の会話でもよく今はどのような野菜が実っているか、これからもう少しすると取れるよというような話もあります。例えば、「ちょっと畑に行って野菜を見てこよう」とか、「今度何の野菜を植えようかなぁ」などと言葉にしながらうれしそうにしています。このように話しているときは何か大人のような雰囲気で話しているようなこともあり、ほほえましく思います。
あと学校のことですが、今は2年生のお友達と一緒に竹をテーマにした活動、竹大作戦に取り組んでいます。春は遠足に行って竹の子を掘ったり、またその後には刀を使って、一人一人が竹のお箸を作ったり、そして夏にはその竹を使って流しそうめんを楽しみました。秋には今度は刀からのこぎりに替わりますが、のこぎりを使って竹のお皿を作り、保護者のお手伝いも得ながら子どもたちはサンマを焼いて、その味を楽しみました。そして先週でしょうか、私たちは学校の全校生徒が参加する音楽会を鑑賞いたしまして、そのときも2年生は竹をテーマとした舞台でした。それは竹取物語をベースにして作られた舞台で、生徒たちが力を合わせて見(み)せてくれた、発表した舞台を見ることができて、とても良い思い出になりました。
このように、竹と関(かか)わり合うことを通して、例えば刀とかのこぎりなどの道具を使うのは初めての子どもも多かったと思いますが、それに挑戦して竹の堅さをしっかりと感じたり、他にもいろいろな活動を通して季節の食べ物にふれたり、また一緒に発表会に向かって準備していくなど様々な経験ができました。
時折、授業参観や他の保護者のお手伝いで学校に参りますが、今も寒くなってきてはいますが、校庭で休み時間や放課後遊びのときに、たくさんの子どもたちが遊んでいます。この前もちょっと校庭を見ましたら、休みの時間に子どもたちが元気に遊び回り、その中に半袖半ズボン姿の長男の悠仁の姿を見つけ、頼もしく感じました」
(問4)
−−殿下にお伺いいたします。昭和天皇実録が完成し、殿下にも奉呈されたと聞いております。昭和天皇並びに昭和時代の思い出をお聞かせください。また、天皇のあり方についてのお考えと、悠仁さまにどのように伝えていくかも併せてお聞かせください。
殿下「昭和天皇の思い出ということですが、一つ挙げるとするならば、これは昭和の最後の頃ですね。昭和天皇の恐らく一番最後の生物学の関心事だったと思われるナスヒオウギアヤメというものがありました。ナスヒオウギアヤメというのは、ヒオウギアヤメ、これはアイリスの仲間ですけれども、ヒオウギアヤメの一変種になるわけですね。那須にあるのでナスヒオウギアヤメなのですけれど、昭和天皇の生物学研究所の職員が普通のヒオウギアヤメと違うものがあるといって見付け、恐らく変種だろうということになったのですが、そのアヤメが、果たしてヒオウギアヤメとどういう関係にあるのか、そのことを知りたいとあるとき私に話されました。いわゆる花の形態であるとか、そういうものでないやり方で何か分からないかと、遺伝学とか、生化学ですとか。それで、私がつなぎ役みたいな形になって、財団法人でしたけれども進化生物学研究所という元々は東京農業大学の育種学研究所だったところですが、そこの所長に話をして、ナスヒオウギアヤメのプロジェクトが始まったということがありました。その間、中間的な報告が私の所に来るとそれを昭和天皇の所で説明をするということをしていたのがちょうど1988年でしょうね。春ぐらいだと思うのですけれど。ただ残念ながら、一連の仕事が終わる前に崩御になってしまいまして、その後平成になってからですけれども、できた論文を吹上御所の、昭和天皇のお御影(みえい)というのでしょうか、写真の前にお供えしたと、そういうことが恐らく一番印象に残っていることかなと思います。そのほか、子どもの頃に、夜、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)がきれいにお堀端に咲いているから見に行こうという話があって、全員で曼珠沙華を見に行ったとか、そういうことがありますけれど、一番印象に残っているのは、やはりナスヒオウギアヤメのことです。
昭和時代について…。私は昭和40年の生まれで、昭和は64年までですけれども、時というのは、ふだんの生活の中では常に連続しているわけですね。だから、ここまでが昭和でここからは平成ですと確かに言えるのですけれど、流れとしては常に連続しています。ですから昭和の終わりから平成だと、それが一つの時代みたいな感じで自分は認識しておるのですけれども、もし昭和の時代で何か非常に印象に残っていることがあるかと聞かれると、やはり万国博覧会だと思います。当時まだ私は小さかったのですが、大阪の万国博覧会の会場で子どもながらに活気あふれる様子というのが非常に強く印象に残っております。いまだに太陽の塔の中の様子とか、各パビリオンのこととかが記憶に残っております。私は東京オリンピックの翌年生まれで、東京オリンピックは知りませんけれど、その後に札幌オリンピックがあるわけなのですが、そのときは北海道まで行くには行ったのですが、あいにく風邪を引(ひ)いていてほとんど宿舎で寝ていてですね、一つだけアイスホッケーの試合を見たということですから、それ自体は印象に残ってますけれど、余り強い印象は残っておりません。それから…」
−−「改めて天皇のあり方についてと、悠仁さまにどのように伝えていくか」
殿下「天皇の在り方についてというのは、私が余り軽々しく言えるものではありません。もし私が言えるとするのであれば、これは今の天皇陛下が即位20年のときの会見で話されているのでしょうか。象徴としての天皇の在り方を常に考えながら今まで過ごしてきたという趣旨のことを話されていますけれど、恐らくそれは陛下も天皇に即位して、そういうことをずっと常に考えてこられたのだと思います。私がもし天皇の在り方についてということに答えるのであれば、やはり、象徴としての天皇というのは、いかなるものがふさわしいのかということを考える、そういうことにあるのではないかと思いますし、長男にどのように伝えるかということについては、やはり私自身はその立場ではありませんので、陛下が言われたことを長男に、そしてまた長女、次女にも伝えるということになります。
(問5)
−−両殿下にお伺いいたします。ここ数年でソーシャルメディアが普及し、秋篠宮御一家を含め皇室の御活動がインターネット上で話題になることが増えてきています。こうした新しい形での皇室と国民のつながりについての受け止めと、ソーシャルメディアとの付き合い方についてお子様にどのように教育されているかをお聞かせください。
殿下「ソーシャルメディア自体をそれほどよく知らないのですけれども、今、世の中に、ものすごい数の情報があるわけです。例えば、ある所に行って、そこにいた人が写真を撮って、それでもう次の瞬間、ネット上に出ている。私も、時々、車の中でパソコンを開くことがあるものですから、そのときに何となく、何度かあるのですけれども、試しに検索をしてみると、何分か前のものがもうアップされている。すごいスピードで情報が流れるわけです。それに、コメントが付いたりとかしますけれど、だんだん、本当にどこにいても、そういうものがネット上に出てくるというのは、自分自身にとっては、プライベートも何もないなという気はするのですけれども、既にそういうツールがあって、それが普通の社会となっています。ですから、もちろん、非常にいい加減なことが書いてあることもあるわけですけれども、ある意味、致し方ないのかなというふうにも思います。それが良いとも悪いとも申しませんけれども、その一方、子どもたちにどう言っているかというと、これは皇室との関係ということではないですけれども、これだけのたくさんの情報が流れていて、本当の情報もあれば、全然そうでないこともあるわけですね。だから、それを全部素直に鵜呑(うの)みにしていると、全く間違った情報を基に、いろんな自分の考えを展開させることになってしまいますから、そういうことの取捨選択、それから自分の中でその情報をどう理解するかということは大事です。これはソーシャルメディアに限ったことではなく、紙、本とかの媒体でもそうですけれど、そのことは伝えていきたいと思いますし、もちろん、そのことについては、本人たちも分かっていると私は思います」
−−妃殿下いかがでしょうか。
妃殿下「ソーシャルメディアについては、これは比較的新しいものであり、変わりつつあるものであると聞いております。私自身、実際に、どのようなものなのか、知らないことも多くあります。今は、いろいろなコミュニケーションの手段がありますが、ソーシャルメディアも含めて、長所と短所があるように聞いています。このようなことがあることを、子どもたち、特に娘たちはふれる可能性もありますので、理解しておくことが大切であると話しています」
(関連質問1)
−−1問目でですね、外国訪問のことについてお話しいただきましたけれども、それについてもう少しお聞きしたいと思いまして。国賓としてではなく、国際親善として訪問される難しさということを先ほどおっしゃったと思うんですが、例えば1回で複数の国を訪問されるとき、殿下がおっしゃったように外交樹立、例えば100周年とか110周年とかそういう節目ですとそれに核になる式典とか行事があると思うんですけれども、そうでない国ですね、そういう国に行かれる場合に、どのようなことを重点に置いたり、どのようなことに気を付けて日程を立てていらっしゃるのか、それをお聞かせください。
殿下「なかなかそこは難しいところで、例えば今言われたような外交関係樹立100年とかで何とか国に行きます。そうすると、そこまで行ったら、非常に表現として悪いのですけれど、そのついでに近くのここにも行ってほしいっていう希望が出ることがあるんです。確かに例えば遠いところであれば、なかなかそれ以外の国にその後いつ行けるかどうかも分からないこともあるわけですけれども。ただ、そうするといつも申し訳ないなと私たちが思うのは、何となくここにこの行事があって来(き)ました。それでそれ以外は何となくついでですよって感じになってしまう可能性はあるわけです。御招待を受けているわけですから、もちろん丁寧に務めますけれども、やはりできれば、何か一つ核になるものがあればいいなと思いますし、複数行くときには、国ごとで滞在している期間をできるだけ違わないようにという、そういうことは心掛けています」
殿下「何人か手が挙がっていました」
(関連質問2)
−−今年でないとお伺いできないかなと思いまして、殿下にお伺いしますけれども、昭和天皇実録に関してなんですが、私が読んでおりまして、ちょっと感じたことがございまして、昭和の前半期ですけれども、世の中が非常に非合理的といいますか、非寛容的な風潮の時代がございました。そういう中にあってですね、昭和天皇が非常に合理的で、かつ、他国や他の民族に対する立場を考えて、他者に対する思いやりを持った考えを貫いてらっしゃるということが、実録を読んで非常によく分かりました。それは現在の天皇陛下にもしっかりと受け継がれていると私は思います。そこで、改めましてちょっと抽象的な質問で恐縮なんですけれども、合理的に物を考えるということと、寛容ということですね。これについて、殿下のお考えをお伺いしたいんですが、なぜこの二つを聞くかと申しますと、昭和天皇と現在の天皇陛下が、こういうお考えを基礎に持ってらっしゃるのは、科学者であったということと、皇室の伝統である慈しみというのがですね、非常に影響してるんではないかと思っておるんですが、そういう点で殿下はこの二つのことについて、どんなお考えをお持ちかなと思いまして、お伺いいたします。
殿下「合理性と寛容ですね。私は、寛容ということは非常に大事なことだと思います。天皇という立場であれば、なおさらですね。そうでないとなかなか天皇という立場で、様々(さまざま)な事柄を行っていくことは私は難しいと思うのですね。
この寛容と合理的なこととは、必ずしも二律背反するものではなくて、両方共存するものだと思います。ただ、今お話しになった昭和天皇それから現在の陛下の合理性が、科学者であるからかどうかというのは、私はちょっとわかりません。科学者にはいろいろ範疇(はんちゅう)があると思いますけれども、必ずしも科学的なものが全て合理的かというと、そうでないこともあるかもしれません。ただ、私はその両方というのは、決して相反するものではなくて、共存することができるものだと思いますし、物事はすべて合理的に考えられるかというとそうではなくて、(合理的に考えることが困難な)より複雑なものへの対応も当然必要になってくるわけですし、そういうものにも対応してこられたわけです。ですけれども、やはりある程度の合理性というのは、私は必要だと思っています」
(関連質問3)
−−先ほど殿下が佳子さまの御性格について御自分と似てらっしゃるというようなことをおっしゃってましたけれども、改めて、佳子さまの御性格というのはどのような性格かということを両殿下へですね、あと最近佳子さまから言われたことで気付かされるようなことがあるようなことをおっしゃってましたけども、具体的に何か最近言われたことで印象に残っているような一言があればお聞かせ願えますでしょうか。
殿下「もちろん似てないところはたくさんあるんです。だけど、娘とよく話しているときに、自分がもっと若い頃の感覚に何かとても似ているなと思うときがニュアンスとしてあるんですね。似ていると言(い)われると本人はちょっと嫌がるかもしれませんが、具体的に言うことは難しいですけれども、感覚としてこの子は随分似ているなと思うときがあって、親は大変だっただろうなと思うこともあるんです、実を言うと。なかなか言葉で説明はできないですけれども、感覚的に似ていたということでよろしいですか」
妃殿下「もう一度お願いできますか」
−−最近佳子さまからいろいろ話を聞かれて、気付かされるような場面があるというお話でしたけれども、具体的に何かこう言われてはっとされたような、最近印象に残っているようなものがあればお聞かせ願えますでしょうか。
妃殿下「普段の生活でよく話すことが多いものですから、ふとしたときのちょっとした言葉でこれは素敵(すてき)な考えだなとか、これはもう一度自分の中で受け止めてより良くしていくと良いなと思うことがいろいろとあります。これは娘の佳子に限らず、長女の眞子にも長男の悠仁にもあり、宮様と話していてもありますけれども、佳子の場合は比較的わかりやすく話してくれまして…。
普段の生活の中の一つの例ですが、私が知らないうちに、人と挨拶(あいさつ)するときの声が小さくなっていたようです。20代よりも30代、30代よりも40代、お互いに頭を下げて挨拶をしたり、表情で挨拶したりすることはあっても、声が小さいことがあります。もしかしたら20代のときは今よりも若くて体力があり、元気に声を出していたので、佳子はそのときと比べて話しているのかもしれませんが。挨拶というのはとても大事であり、今私が悠仁と一緒にいていろいろなことを伝えるときに、私自身が小さい声で話すと、悠仁の方も小さい声になってしまうのかしらと気づかされるようなことがあります。初めは私自身声を大きくして挨拶をするのがちょっと恥ずかしいこともありましたが、少しずつ始めてみると、20代のときの若さが戻ってくるような感じがします。いろいろなことを話すときも挨拶も、気持ち良くわかりやすい声で話すことの大切さを改めて私に伝えてくれたように思います」
殿下「結構いろいろ私の態度のことも言われることもあるしね」
妃殿下「ちょっと気づかされて」
殿下「『ああなるほどな』と思うことがだんだん多くなってきましたね」
妃殿下「お互いに、子どもたちが感じていることを私たちに伝え、また私たちが子どもたちにこれはと思うことを伝えて子どもたちもちょっと考え直す、そういう関係を大事にしたいと思うこの頃です。あと、どのようなところで似ているかというお話をされていましたか。私の方がもしかしたら客観的に見ることができるのかもしれませんが…。似ていると何となくうれしくなることもございますね」
殿下「ありますね」
妃殿下「私も、宮様と娘の佳子で何となく似ているかしらと思うことがあります。最近、行事が違うのですが、偶然同じ県に1か月の間に二度参りまして、そのときに同じ方に出会いました。私の方は気づかなかったんですけれども、佳子の方は、「もしかしたらあそこで会った人じゃないかしら」という話をしました。いろいろな場所でいろいろな方に出会って、その人のことを覚えている、それは父親と娘でとても似ているように思いました。記憶が私よりもずっとよろしいところで似ていましたり、先ほど言い合うという話がありましたけれども、言い合いをしつつもお互いにどこかで優しい心を持っている、そのようなところも似ている二人のように感じました」
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