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日本のマスコミが言わない不都合な真実(三橋貴明氏の情報提供 2013年5月時点)

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朝鮮は百年前から乞食外交
 
 板垣英憲氏のブログ「マスコミに出ない政治経済の裏話」に、新しい記事が投稿されました。細部はブログをお読みいただきたいのですが、この中には、「韓米ペア」と「日韓併合の経緯」という二つの貴重なお話があります。

 米国は半島有事を心配して、日韓の融和を図ろうとしていますが、朴槿恵大統領や尹炳世外相らの一方的な話ばかりを聞いて、靖国参拝などで日韓に波風を立てるとして安倍総理を悪者に仕立てる風潮にあります。この米韓が結託して日本を「仲間外れ」にする現象を「韓米ペア」と呼んでいます。

 しかしながら、「第2次朝鮮戦争」の危機を目前にしたこの時期に日本が「仲間外れ」にされることは、一旦緩急の時に陸海空3自衛隊が戦争に巻き込まれないで済むため、歓迎すべきことだと述べています。

「村八分は有難い」安倍晋三首相は、米韓蜜月関係で「第2次朝鮮戦争」仲間から外されて助かっている
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/03cdd90d3b95f68ccbf...

「日韓併合の経緯」 :
 ロシアのピーター大帝が進めた「東方政策」(ウラジオストック=東方を侵略せよ)を「南下政策」に転じて、満州から朝鮮半島に向かい、大日本帝国との間で、軍事衝突しそうになっていたころ、米国は、海軍兵学校のアルフレッド・マハン校長が著した兵学書「シーパワー(海上権力論)」に沿って、太平洋戦略と対ロシア極東戦略、朝鮮半島戦略を進めていた。

 1904年7月、米国タフト国務長官(後の大統領)が、日本の桂太郎首相との間で、秘密裡に協定(桂・タフト協定)を結ぶ。その内容は「米国がフィリピンを占領、支配する代わりに、米国は、日本が朝鮮半島を支配することを認める」というものであった。タフト国務長官は、フィリピン各地で米国支配に反対する抵抗運動が頻発していて、これを鎮圧するのに手間取り、朝鮮半島を支配する余裕がなかった。このため、日本に朝鮮半島支配を依頼したのであった。

 当時のセオドア・ルーズベルト大統領は、演説のなかで、こう力説した。
 「日本による野蛮国・朝鮮の解放は、人類にとって幸福になるばかりか、それは、White burdenならぬYellow burdenを担う日本の明らかな運命・Manifest Dentinyではないのか。ましてこれに対する一撃すら与えることもできない無能で野蛮な民族、集まれば争い分裂することを事にしている朝鮮人、仮に統一国家が形成できたにせよ、朝鮮がアジアにおいて、何の脅威にもならない、と判断した」
 セオドア・ルーズベルト大統領は、このころ「満州国に新国家建設」(ユダヤ人国家建設)を構想していた。

 朝鮮側は、朝鮮王国がワシントンに派遣した李完用(後に総理大臣)が、交渉に当たり、日韓併合を受け入れて、1910年8月22日に、米国の強い要請でもあった韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合した。以後35年にわたり、大日本帝国による支配が続いた。

 大日本帝国が、武力により朝鮮半島を勝手に侵略して、支配したわけではない。これが、「日韓関係の正しい歴史的事実」であり、両国民は、「正しい歴史認識」を持たねばならないのである。韓国マスメディアや韓国政府が、「歪曲」して喧伝しているような歴史認識は、間違いである。

 しかも、大東亜戦争終結後、69年が経過しようとしているのに、朝鮮では、セオドア・ルーズベルト大統領が100年以上も前に演説したように「無能で野蛮な民族、集まれば争い分裂することを事にしている朝鮮人、仮に統一国家が形成できたにせよ、朝鮮がアジアにおいて、何の脅威にもならない」という情けない状況が、未だに続いている。まったく気の毒な民族だ。

 日本を「歴史認識」「歴史教科書」「靖国神社」問題で日本を追及し、「言いがかり」をつけて、いつまでも「乞食外交」を続けるよりも、朝鮮民族は、一刻も早くきちんと朝鮮半島を統一して、「文明国」に成長すべきであろう。安倍晋三首相は、「何を言われても、脅されても、もう舌も出したくない」と決意しているのだ。
 

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ソウル大学の歴史(京城帝国大学)

前史

 李氏朝鮮では、1895年開国504年)の甲午改革により近代教育制度が始まった。
 初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年(光武10年)まで11年経っても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた。
  そのため1906年(光武10年)には韓国統監府より普通学校令が公布され、5〜6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた。
 対して日本は1908年隆熙2年)に私立学校令を公布し、統一した教育の実施を狙った。
 
 1910年明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる。
 しかし、当初は朝鮮人年少者は未就学であり、就学した朝鮮人も、多くは民族系の私立学校や書堂に通学し、日本系の普通学校での朝鮮人は日本人の3%程度だった。
 総督府はこのような事実に対し、1911年(明治44年)に改正私立学校規則を公布、1918年(大正7年)に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が93%、女子が70%代にまで急上昇した。
 
 1918年(大正7年)、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、1920年(大正9年)に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」(1922年)により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。
 
 朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる。
 他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。
  • 1918年(大正7年) - 大正デモクラシー
  • 1919年(大正8年) - 三・一独立運動
  • 1920年(大正9年)12月 - 臨時教育調査委員会(総督府令第68号)が設置。
  • 1922年(大正11年)2月 - 「第二次朝鮮教育令」(勅令第19号)が公布。「内鮮共学」の方針を採用。
  • 1923年(大正12年)11月 - 朝鮮帝国大学創設委員会を組織

大学沿革

 
 1924年(大正13年)に予科を設置し、1926年(大正15年)に法文学部医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。
 1929年昭和4年)から大規模な水力発電所鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年(昭和6年)の満洲事変1932年(昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年(昭和16年)には理工学部が設置された。
 
 城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。
 しかし、1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年(昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年(昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。
  • 1924年(大正13年)5月 - 朝鮮総督府所管の帝国大学として設立。大学予科(修業年限2年)を設置。
  • 1926年(大正15年)5月 - 法文学部医学部設置。
    • 法文学部は憲法・行政法/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法/経済学/政治学・政治史/羅馬法/哲学・哲学史/支那哲学/倫理学/心理学/宗教学・宗教史/美学・美術史/教育学/社会学/国史学/朝鮮史学/東洋史学/国語学・国文学/朝鮮語学・朝鮮文学/支那語学・支那文学/外国語学・外国文学の各講座を設置。
    • 医学部は解剖学・生理学・医化学・薬物学・病理学・微生物学の各講座を設置。
  • 1934年(昭和9年)- 予科の修業年限を3年に延長。
  • 1938年(昭和13年)- 理工学部の予科生が入学。
  • 1941年(昭和16年)- 理工学部設置。
  • 1941年(昭和16年)10月 - 授業年限の短縮令。太平洋戦争開戦で短縮期間は延長。
  • 1942年(昭和17年)5月 - 高地療養研究所を附置。
  • 1945年(昭和20年)6月 - 大陸資源科学研究所を附置。

戦後

 終戦により連合軍軍政期に入ると、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げ、京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。
 ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。

転載元転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識

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http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/mobile-images/entry.gif?theme=/.shared-pleasy/themes/rich/sakura/韓国の差別的身分制度を廃止した日韓合邦

朝鮮はひどい差別社会であった。


 明治43年(1910)年の日韓合邦は日本の武力による強制というのは真っ赤なウソで韓国人が望んだものですが、既得権益者はやはり抵抗しました。
 李朝の身分制度は良民といわれる両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と賤民(奴婢、俳優、医者、巫女、白丁)がありました。両班は労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。

 李朝末期に朝鮮を訪ねたロンドン・デーリーミラーの記者マッケンジーが役人に聞きました。
記者
「なぜ餓えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」

役人
「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」

 日韓合邦になるとこれらの身分制度は廃止になります。

 両班一族の日記
「おおよそ乙巳の年以降、両班と村役人たちが劫奪(こうだつ・無理に奪うこと)を受け、窮民と平民が時宜を迎えたからか、村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」
 村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。
 制度を変えただけでは差別はなくならないのは当時も同じだったようで、衝平社という「白丁」の団体が身分開放の運動を1920年代に行っています。そして白丁の子弟が学校に通うようになります。すると両班が「うちの子供を白丁の子供と同じ教室で勉強させるのか!」
と怒ります。そしてデモを繰り広げるようになります。しかし、警察機構により鎮圧されました。

 中人も両班から厳しい差別を受けていました。彼らは文字も読み、計算ができる階級ですから、日韓合邦の環境変化に適応し、官界に進出したり商人として成功したり、地主として成功したりしました。子弟は日本に留学させることができました。そしてこの留学組から多くの知識人が輩出されることになります。近代朝鮮文学の父といわれる李光珠(イ・グアンス)は「民族改造論」を発表し、朝鮮文人協会を発足させました。崔南善(チェ・ナムソン)は朝鮮最初の新文化雑誌「少年」を刊行し、文化啓蒙運動を展開しました。経済学では白南雲(ペク・ナムン)が挙げられ、彼は「朝鮮社会経済史」を出版しました。(後に社会主義運動をおこす)

 日韓合邦時代に現在の韓国の近代化の基礎が出来上がるわけですが、それは人的面では李朝時代に虐げられていた身分の人たちの進出によるものです。現在、韓国ではこれらの人の多くを親日(売国奴の意味)として糾弾されていますが、とんでもない話です。韓国民にとって恩人の方々です。




参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)

添付画像
 碁を打つ政府高官の両班階級 1904年 (PD)
 
 
こんな記事もあります
みんながどういう記事を書いているか見てみよう!
2012/4/14(土) 午前 0:21
... 村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」  村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。  制度を変え ...
2012/2/25(土) 午前 10:36
... 韓国与党議員の「韓日合邦100周年」発言を韓国ネットユーザー ... 総理大臣の李完用など容認派、両班や儒者など反対派と割れ ... 第二次日韓協約に違法はなくて、日韓併合は合法など、日韓の歴史の真実を知るべきです。 良識ある日本国民の皆様 ...
2010/2/2(火) 午前 0:11
... 村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」    村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。  制度を変え ...
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