ここから本文です
tearface 風雲急を告げる!
メディアや野党の主張(維新を除く)には、5W1Hがない。おかしくないか?

書庫捏造南京事件

記事検索
検索
激論「南京事件」秦郁彦と山田朗はマジキチ無知!民間人に混じった便衣兵を確実に選び出すことは可能
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓

http://image.with2.net/img/banner/banner_23.gif

http://blogranking.fc2.com/ranking_banner/d_02.gif


http://blog-imgs-83.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/201511130415205ba.jpg
11月12日(木)放送BSフジ「プライムニュース」『「南京事件」とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証』
左から、藤岡信勝(拓殖大学客員教授)、秦郁彦(現代史家)、山田朗(明治大学教授)

http://www.bsfuji.tv/primenews/index.html
11月12日(木)
『「南京事件」とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証』

中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
視点・見解が異なる3人の識者を迎え、『南京事件』の実相と、日本が取るべき対応を検証する。

ゲスト
秦郁彦 現代史家
藤岡信勝 拓殖大学客員教授
山田朗 明治大学教授


■ハイライトムービー(番組HPの動画)
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【前編】
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d151112_0.html
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【後編】
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d151112_1.html


今回、約1時間半に及ぶ討論の中で、最も論点となったのは、南京市民に混じった支那軍の便衣兵を正しく選び出すことができたかどうかだった。

この問題が再三再四に渡って論点となったが、秦郁彦と山田朗の2人は、一般市民と便衣兵との区別がつかないから多くの一般市民が便衣兵として殺されたと主張した。

それに対して、藤岡信勝氏は多少は反論したが、上手く説明ができなかった。

結局、藤岡信勝氏も、「処刑した便衣兵の中に市民も混じっていたかもしれない。日焼けの具合とか体格などで基本的には区別ができるが、ミスは幾つかあったかもしれない。」などとあやふやな発言をしてしまった。

だから、この問題が何度も繰り返し取り上がられたが、結局は一般市民も便衣兵に混じって処刑されてしまったような印象を強く残してしまった。

仮に便衣兵と間違えて一般市民を殺してしまっても、それは日本軍の責任ではなく、完全に軍服を脱いで便衣兵となった支那軍の責任だ!

しかし、実際には、日本軍は、一般市民を便衣兵として間違えて摘出することはなかった。

大半は、下着(兵隊服)の確認だけで、間違えることなくすぐに見分けがついた。

日本軍は便衣兵摘出の際、体つきの他、坊主頭、鉄帽子の日焼け跡、手の銃ダコ、下着(兵隊服)、市民の証言などをも確認したので、便衣兵と間違えて一般市民を処刑したことはなかった。


━━━━━━━━━━
▽番組の動画&要点▽
http://blog-imgs-83.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20151113042627b78.jpg
■You Tube動画
プライムニュース「南京事件の真相に迫る激論!写真の真偽を分析、30万人説の検証など」最新2015/11/12
https://www.youtube.com/watch?v=GMV5gHzDXeU


http://blog-imgs-83.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20151113042321ce7.jpg
山田朗(明治大学教授)=南京大虐殺肯定派(捏造派)
南京大虐殺は事実!
犠牲者数は、十数万人を下らない!
根拠は、埋葬記録など。



http://blog-imgs-83.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20151113042354c64.jpg
秦郁彦(現代史家)=南京大虐殺肯定派(捏造派)
南京大虐殺は事実!
犠牲者数は、4万人!
捕虜殺害が3万人で、民間人殺害が1万人
根拠は、日本陸軍の戦闘詳報に推計を加えた。
支那共産党軍の機関紙
ベイツの東京裁判での証言



http://blog-imgs-83.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20151113042418fb2.jpg
藤岡信勝(拓殖大学客員教授)
虐殺事件はなかった。
犠牲者数は0人。
根拠はいろいろある。
一例として、支那国民党は1937年12月1日から1938年10月24日に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったとか捕虜の不法殺害があったとは言わなかった。
記者からも、そのような質問は全く出なかった。



15:15〜
秦郁彦
難民区の中に便衣兵が隠れているという想定で刈り込みをやったが、区別がつかなかった。
そこで結果的に青壮年で兵隊だったかもしれないという、「疑わしきは」ということで皆引っ張り出して、その場で全部殺してしまった。
それから、残ったのは、揚子江に連れて行って、機関銃で殺した。
これが約7000人です。
ですから、その中にどのくらい一般市民が混じっていたかどうかは分からないが、少なくとも参戦者の感触から言えば1割以上はそうだったろうと。
とにかく取り調べをしなくちゃいけないです。



28:00〜
藤岡信勝
上海から南京へ行く途中で殺害や略奪行為があったのは、清野作戦(三光作戦)をやった支那軍の仕業だ。

29:00〜
秦郁彦
逃げる支那軍にそんな余裕はない。
日本側の記録に、支那軍が大規模な清野作戦をやったという記録はありません。



33:00〜
城内の安全区以外の場所に市民は住んでいたか?


38:00〜
秦郁彦
城内の安全区以外の場所にも市民は多数いた。
少し奥には隠れて多数いた。
空っぽなんてことはない。



45:00〜
司会
問題は、便衣兵として殺害された人たちは本当に便衣兵だったかどうか?
民間人が混じっていたのではないのか?
区別ができたかどうか?

藤岡信勝
混じっていたかもしれません。
日焼けの具合とか体格などで、基本的には区別ができる。
ミスは幾つかあったかもしれない。



52:00〜
司会
そうなると、やっぱり沢山の市民の中から、便衣兵を選び出せるかどうか?


藤岡信勝
便衣兵の中から大人しい者かどうかで区別した。



54:00
ティンパーリはスパイ(支那の国民党の工作員かどうか)



55:00〜
司会
山田さん、南京城内に残った人たちの中から、便衣兵を選び出すことが当時可能だったかどうか?

山田朗
それは不可能でしょう。
市民であるか便衣兵であるかといことを何らかの有力な根拠に基づいて分けることはできませんよね、実際。


司会
では、そこには確実に民間人が混ざって、便衣兵という名のもとに、虐殺された可能性があるということですか。



55:45〜
捕虜の扱いについての話
主に、幕府山事件について

━━━━━━━━━━



>15:15〜
>秦郁彦
>難民区の中に便衣兵が隠れているという想定で刈り込みをやったが、区別がつかなかった。
>そこで結果的に青壮年で兵隊だったかもしれないという、「疑わしきは」ということで皆引っ張り出して、その場で全部殺してしまった。
>それから、残ったのは、揚子江に連れて行って、機関銃で殺した。
>これが約7000人です。
>ですから、その中にどのくらい一般市民が混じっていたかどうかは分からないが、少なくとも参戦者の感触から言えば1割以上はそうだったろうと。
>とにかく取り調べをしなくちゃいけないです。



まず、最初に言っておくが、便衣兵(ゲリラ)を発見したら処刑することになっているのは、古今東西の原則(もちろん合法)だ。

戦場においてゲリラ=便衣兵(軍服ではない民間人の服を着た卑怯な兵士)から狙われるほど恐ろしいものはない。
制圧したと思って村や町に入ると、建物の陰から鉄砲の弾が飛んでくる。
敵兵を探しても、いるのは善良そうな顔をした人々だけ…。
あるいは、少年少女だと思って油断していると突然懐から拳銃が出てきて撃ち殺されたりする。
ゲリラ戦・便衣隊戦術は民間人を戦闘に巻き込む。

便衣兵と判明すれば殺すしかない。
便衣兵を殺さなければ、その後も支那軍は癖になって便衣隊戦術をエスカレートさせ、日本軍や一般市民の被害は拡大する一方だ。

安全区内の便衣兵(民間人を装った支那兵)摘出作業は、第十六師団によって慎重かつ正確に行われた。

日本軍は便衣兵摘出の際、体つきの他、坊主頭、鉄帽子の日焼け跡、手の銃ダコ、下着(兵隊服)、市民の証言などをも確認したので、便衣兵と間違えて一般市民を処刑したことはなかった。

http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120922123410086.gif
兵民分離査問に立会した内田義直氏(陸軍省通訳官・第十六師団警備司令部配属)は、その実態を次のように述べている。
「中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、一般市民を狩り立てることはなかった。上着だけが民間服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。詳細記事


ただ、上記のような日本軍による正確な便衣兵摘出作業などについては良く知られておらず、一般男性が処刑されたと勘違いして見ていた人も少なからずいたようだ。

便衣兵摘出作業に参加せずに遠くで見ていただけの日本兵の多くも、便衣兵摘出作業の正確さを知らずに、処刑した男性の中には一般市民も混じっていたと思い込んでしまっていた。






>29:00〜
>秦郁彦
>逃げる支那軍にそんな余裕はない。
>日本側の記録に、支那軍が大規模な清野作戦をやったという記録はありません。



秦郁彦は、本当にレベルが低くて、無知丸出しだ!

支那軍の清野作戦(焦土作戦)に関する記録は、日本軍にも英国などの外国にも山ほど存在している。

なぜ、フジテレビ(BSフジ)が秦郁彦のような無理丸出しの南京大虐殺肯定派(捏造派)を出演させるのは、フジテレビ(BSフジ)が南京大虐殺を肯定(捏造)したいからだとしか考えられない。


▼清野作戦に関する記録▼

●清野作戦(焦土作戦)
支那軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。

上海〜南京、また、南京城壁の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。

南京戦の前後も、支那軍や盗賊による強奪に伴い殺害も発生した。


――――
ラーベ
11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため。

――――
孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった。
――――
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し、方か、破壊した、支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。

――――
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める

――――
第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。

――――
ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

――――


―――――
片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
 
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」347頁

大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る湯山の南の句容の状況
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。…奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」349〜350頁

『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著
―――――


英国の通信社も、蒋介石が清野作戦(焦土戦術)を命令していたことを報じた。
和13年7月12日 東京朝日
【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】
 蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、 日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、 何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。
(以下略)






>33:00〜
>城内の安全区以外の場所に市民は住んでいたか?

>38:00〜
>秦郁彦
>城内の安全区以外の場所にも市民は多数いた。
>少し奥には隠れて多数いた。
>空っぽなんてことはない。



南京の人口は1937年に支那事変が始まる前には約100万だったが、その後南京市民は南京戦が始まるまでに日本軍占領地の上海などに避難したため、1937年12月13日の南京陥落当時の南京の人口は約20万人だった。

そして、その20万人は、全員が安全区(難民区)に避難していた。

支那軍は、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。

南京城壁の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。

したがって、まずは、南京城壁の周辺に一般住民は全く居なかった。

次に、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜、南京に残った約20万人の善良な市民は全て安全区に避難していた。

南京城内の安全区以外は無人だった。


――――――――――
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令
――――――――――


南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らって一般市民が危険な場所に残っていた筈がない。

▼裏付け資料▼
12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)

12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)

12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に集結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
NYタイムズ12/8(アメリカ資料編P390)

12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)

12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
(南京事件の日々P40)

12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。(略)AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)

12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)

12月11日
警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101〜102)

12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)

12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう
(安全委員会公文書T-6)

12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
 こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」


▼南京城内の安全区以外が無人だったことの裏付け▼
━━━━━━━━━━
Yahoo!掲示板
トップ > 生活と文化 > ニュース、時事問題 > 海外ニュース >
南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
No.8418


安全区内にしか市民がいなかった(市民であって中国兵や負傷兵を看護する従軍看護婦でないことに注意)という説は日本「南京」学会理事の冨澤繁信氏が強く主張しています。
その根拠は冨澤氏の著書『南京事件の核心』(展転社)に詳しく論じられています。
一部抜粋しますと、
・・・蒋介石の宣伝部の顧問であった、ティンパーリという人が「南京事件」を諸外国に宣伝するために、『戦争とは何か』という本を日本軍南京占領の翌年(1938年)に出版した。この本の中には「南京事件」のたくさんの事例が集められている。この事例の実質的編纂者であり、南京大学の教授で、かつ蒋介石の顧問であったベイツという宣教師が、この事例について次のように言っている。「ここに記録された事件は南京安全地帯内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は1月末まで事実上の無人地帯となっていたのであって、此の期間中、殆ど外国人の目撃者はなかった。」(『戦争とは何か』103頁)
(『南京事件の核心』冨澤繁信著 展転社)

 一部の虐殺派の人々はラーベ日記に一月中旬、安全区外で5万人の難民が発見されたと記述されていることを以って安全区外無人説を否定する向きもありますが、以下の理由により根拠薄弱です。

1.国際委員会の用意した収容所は全部あわせても5万人程度の収容力しかなく、それ以外の市民についてはその住居を掌握できていた訳ではない。
 ラーベが発見した5万人が、安全区から自宅へ帰還しようとしていた人々でないと断定する根拠は無い。
 日本軍は1月上旬より市民に自宅への帰還を呼びかけている。
2.また、良民証の発行により、身元の確認された南京市民は城外より城内の元の住居へ帰還が可能となっており、ラーベの発見した5万人が城外より帰還した市民ではないという根拠も無い。
『南京安全地帯の記録』第23号 布告
 本司令官は12月24日より、全ての難民と市民に対し良民証を発給する。これは居住と就労の便宜だけのためのものである。・・・この調査の後には良民証を持たない者の南京城内居住は許されない。・・・
 昭和12年12月22日
 日本陸軍 南京憲兵司令官
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)

3.国際委員会の主要業務は難民に対する食糧の配給であり、人数分の食料が供給されるよう、日本に対してたびたび苦情を申し立てている。
 この配給人数について、良民証発行による人口調査の結果、国際委員会は1月14日の第41号報告で従来の20万人から25万人に上方修正しているが、これ以降、配給対象人数の上方修正は行われていない。
 ラーベにより5万人もの難民が発見されたなら、新たに増加供給の要求が無ければ不合理であり、そもそも5万人発見の記録そのものの信憑性が乏しい。
『南京安全地帯の記録』第41号 福田氏への手紙
 1938年1月14日
・・・我々は貴軍が、10歳以下の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。この住民を通常の米の配給で養うには・・・
 ジョン・H・D・ラーベ 委員長

『南京安全地帯の記録』第54号 プリドウブリューン氏への手紙
 1938年1月28日
・・・南京25万の難民のうち、大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。・・・
 ジョン・H・D・ラーベ 委員長
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)
なお、25万人という数字は1/18、1/19、1/22の記録にも見られるので、ラーベに発見されてから直ちに日本軍に殺されたということはあり得ないw

━━━━━━━━━━





>54:00
>ティンパーリはスパイ(支那の国民党の工作員かどうか)



南京虐殺は嘘24 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)1
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3287.html
南京虐殺は嘘25 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)2
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3284.html
南京虐殺は嘘26 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)3
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3282.html
南京虐殺は嘘27 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)4
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3278.html
南京虐殺は嘘31 ベイツとティンパリー、嘘吐き宣伝工作員同士の音信
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3266.html






>55:45〜
>捕虜の扱いについての話
>主に幕府山事件について



「幕府山事件」は、大量の捕虜を解放しようとした時、暴動が発生したための合法的な処置であり、虐殺の証拠ではない。

なお、支那軍は、支那事変のあった8年間で、投降したり負傷したりして捕まえた日本兵を捕虜として保護したことは全くうなかった。

「反戦兵士」にする極めて少数の日本兵を除き1人残らず惨殺した。

まさに「皆殺し」だった。

一方、日本軍は、南京だけでも1万人以上の支那兵を捕虜として保護した。


http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html
幕府山事件


 まず、幕府山事件とはどのようなものであったのかについて、公式の戦史である戦史叢書の見解を引用します。
・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・
(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)

 次の資料は抽象的であり、ははなはだ疑問である。
 南京攻略戦では攻略直前に敗走の蒋介石の中華民国軍が同胞の中国人を虐殺し逃亡していたということが明らかになっている。

これら大将の発言は虐殺している現場を直接自分の眼で観ていたものではない
大将クラスは後日南京に入城している。
したがって
既にシナ人の死体が多数、転がっていたという報告は受けていない可能性が大きい。
戦闘行動の上級部隊への状況報告は、分隊から小隊へ、小隊から大隊へと順を経て徐々に要約・統一され手短に成果が報告される。
既にシナ人の死体が多数あったとしても、戦闘行動中の将兵にとって、死体は敵でないので重要事項ではない。
「これは他の小隊がやったのか?」
戦闘実員指揮の小隊長には、死体の処置は戦闘行動中において任務外である。
死体に関心を集中させる余裕もない。
敵ではないという確認ができればよいのである。
疑問点はあいまいなので報告されないのが一般的だ。

報告は極めて重要であるが、受ける大将は「また聞き」の範疇を免れない。
[PDF]コミュニケーションゲーム(情報伝達の困難性)
高級将校にとって、南京を攻略できたことと今後の南京統治で手一杯であったであろう。
また敗走時の中華民国軍が流した「これは日本軍がやった」というデマも流されていた。
現在、親しくなった上海のお年寄りの多くは「あれは蒋介石軍がやったんだ」とこっそり教えてくれるそうだ。

大将クラスの「また聞き」の発言よりも、もし虐殺があったとすれば、戦闘行動を実員指揮した多くの小隊長の発言が重要だ。
この資料の限りでは、虐殺があったか不明であり、
虐殺がなかったかも不明である。

・・・・・・・資 料・・・・・・・
資料:軍人の発言に見る「南京事件」

 こちらは、当時の軍幹部が「事件」をどのように認識していたか、という視点の資料紹介です。 どれも掲示板で時々引用される文章ですが、ここでは極力関連部分全体を収録することにより、原文のニュアンスをより正確に伝えるように努めました。

 ときどき掲示板では「日本軍の軍紀は世界一厳正だった。従って南京事件はウソ」という趣旨の書き込みを見かけますが、 実際には、当の軍の上層部からして、「軍紀の乱れ」を嘆かざるをえない状況に陥っていたことがわかります。


 

<目次>



●松井石根大将


 南京攻略の総司令官として、「南京事件」の責を問われ、極東軍事裁判で死刑判決を受けた、松井石根大将の発言です。


花山信勝『平和の発見』より

  松井石根

 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

南京事件ではお恥しい限りです。

 南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。


 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。 日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。 その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。 ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」

(花山信勝『平和の発見』P229)

*「ゆう」注 花山氏は、「教誨師」として、巣鴨拘置所にて、死刑宣告を受けた戦犯たちと面談しています。上記は、そのうち松井大将との、第四回目の面談の部分です。 前後を含むより長い引用は、こちらにアップしました。 なお原文には改行はありませんが、読みやすくするために、随時改行を行っています。


 
松井大将「支那事変日誌抜粋」より

五、我軍の暴行、奪掠事件

 
上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三留意を促せしこと前記の如し。 図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。

 是思ふに

一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。

二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。

等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能す。

 因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。 然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能わさりし実情は已むなきことなり。

 因に本件に関し各部隊将兵中軍法会議の処断を受けたるもの将校以下数十名に達せり。又上海上陸以来南京占領迄に於ける我軍の戦死者は実に二万千三百余名に及ひ、傷病者の総数は約五万人を超へたり(欄外)

 因に我軍南京攻略に関しては予は最初先つ軍を蘇州、湖州の線に停止せしめ、隊伍の整頓と補給の進捗を図り、除ろに正々堂々の攻撃再挙を行はん事を欲したりか、 我大本営全般の作戦計画上上海方面軍の一部を他方面に転用するの計画なりしと、 敗退せる敵軍の江南地方に其隊伍を整理する遑(いとま)を与へさるを有利とする関係上遂に急劇快速の進撃を決行する決せり。

 尚本作戦間江陰附近に於ける我海軍飛行機の米国軍艦パネー号爆撃及南京上流に於ける我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)の英国軍艦及商船砲撃事件等を惹起せるは遺憾なりしも、 こは敗退する敵軍は多く英米等の艦船を利用せるも尠からさりし事実と追撃戦斗間避く可からさる我部隊の興奮とに因り其過誤を招来するに至りたる次第にて、予は本件に対しても各部隊に対し厳重なる警告を与へたり。

 又我軍の南京入城直後に於ける奪掠行為に対しては特に厳重なる調査を行ひ、努めて之を賠償返還せしむるの方を講したり。 特に英米仏其他列国官民に対する賠償に関しては我外交官憲を介して努めて友諠的に本件の善処を図れるも、戦場内にある列国人の財産生命か自然戦禍の累を受けたることは已むなき次第と云はさるを得す。

(『南京戦史資料集Ⅱ』P185〜P186)


*「ゆう」注 この資料には、以下の編者解説が付けられています。

「これは松井大将が昭和二十年十月十九日A級戦犯容疑者に指名され、翌年三月五日に巣鴨に入所する前(病気のため入獄延期)に記したもので、 いわば極東軍事裁判における訴追の対策としての覚え書である。従って史料としての価値は低いが、最大の訴因と松井大将が予想した、 いわゆる「南京事件」についての認識や、弁明の方向づけなどを探るには貴重な資料といえよう。」(同書 P6)



 



●畑俊六大将


 松井大将の後任として、昭和十三年二月十四日より「中支那派遣軍司令官」を勤めた、畑大将の記述です。


『陸軍大将 畑俊六日誌』より

 昭和十三年二月十四日 中支那派遣軍司令官


一月二十九日

 本日より二月六日まで第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察の為北海道、弘前地方に出張。

 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

 此意見を大臣に進言致しをきたるが、出張前大臣に面会、西尾、梅津両中将を南北軍司令官たらしむるを可とする意見を申述べ出張したる処、意外にも二月五日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、 それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、とにかく帰京の上とし六日朝上野に帰着したる処、 中島参本総務部長駅にて待合せ本部長の来信の如き意味を伝へ、次で大臣より面会したしとのことにその足にて官邸に至り大臣に面会したるに、大臣より上述の如き申出あり。

 上海は方面軍と二軍司令部との折合兎角面白からず、此際現役者を以て交代せしむるを適当とすべく、又海軍の長谷川中将には古荘より先任なれば大将を以てしたり。

 小磯は大臣が推薦したる処外へ出すことは参謀本部側にて到底承諾せず、中村は病気なり。又あまり細かすぎ適任ならず。結局余の外なければ行て貰ひたしとのことに考慮を約して辞去したり。

(みすず書房『続・現代史資料4 陸軍(畑俊六日誌)』 P120-P121)
 


2008.8.10追記 さらに畑は、戦後にこのような回想を残しています。


『南京の虐殺は確かに行われたか』より

 昭和十三年二月、私は松井石根大将のあとをうけて上海に到着した。私は直接には兵団と関係がなかつたので、各郷土の特質についてはあまりよく知らないが、 上海に到着するまで、南京の虐殺ということは夢にも考えていなかつた。

 南京に到着してみても、なんの痕跡もなかつたし、人の耳にも入つていない。ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山のように出された。

それがために松井石根大将はついに悲惨な最期をとげられた。

 それも運命と思えばあきらめられないこともないが、いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。 そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。

 けれども、これは戦場という特種の環境の下ではたらいた心理作用のなせる業で、平静にかえつたとき、これを責めるのも無理だと思つている。

 もともとこの裁判の遠因が、いわゆる復讐のための裁判だつたのだからやむをえないことだろう。

(『丸』エキストラ版 Vol 15 P76)
 





●岡村寧次大将


 岡村大将は、1938年6月、「第十一軍司令官」に就任、終戦時には「支那派遣軍総司令官」の地位にありました。


『岡村寧次大将資料』より

 「第四編 武漢攻略前後」

 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟

 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、 大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。

 それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、 それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、 それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。

 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、 十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。 わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。

 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。

(『岡村寧次大将資料』(上) P290〜P291)

*「ゆう」注 「岡村寧次大将資料」については、 こちらのコンテンツで詳しく紹介してあります。
 


 



●河辺虎四郎・参謀本部作戦課長


「最後の参謀次長」として知られる河辺虎四郎氏は、南京事件当時、「参謀本部作戦課長」の地位にありました。回想録『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より引用します。


河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より

 作戦休憩案

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。

 前年の夏動員された在郷の将兵は、"お正月までには帰って来るヨ"と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、 前途果たして如何になるか、"”相手にしない"といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。

 華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。 南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。

 外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、 いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現われた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。

 そこで私らは、今後如何なる態勢に移るにしても、まずもってこの際戦場に新鮮な補充兵を送り、軍隊士気の一新是正をすることが肝要だと痛感した。 そしてそれがためには、夏季を含む数カ月間、 中国戦場にある各兵団に対し、その戦面を現在線より拡大することを禁じ、占拠地を確保して防支の姿勢を固め、兵員の新陳代謝と、正しい意味の戦場慣熟の訓練をさせるべきだと信じた。

 この趣旨は上司からの同意を受け、海軍側も遂に了承してくれたので、御前会議においての決定を仰ぎ得た。

 私はこの決定をもって、昭和十三年二月末東京を発し、北京(寺内大将)、張家ロ(蓮沼中将―後の大将)、新京(植田大将)および京城(小磯大将)の各軍司令部を歴訪し、各長官に直接伝達した。

 華中方面(畑大将)には、その軍参謀長(私の実兄、正三少将)が新任に際し、ちょうど東京に来たので、これに伝えられた。

 京城に私が行ったとき、小磯大将は、"大本営の決定をとやかくいうのではなく、この趣旨を遵奉するのであるが・・・″と前置して、個人の所見を君(私)の参考にまでとて、 大将の腑に落ちぬ諸点を一席述べられたが、私が”戦略上の御所見まことにどもっともと存じますが、軍隊の実情私らの見るところかくかく・・・と述べたところ、 大将の独特な明快さをもって、"そうか、よくわかった、御苦労さま"との緒言を吐かれた。

 右のように一応全軍的に、「作戦休憩案」が伝わったのであった。しかしそれは忽ちに崩れたらしく、私はこの直後に転任して後ほどなく、徐州会戦が起こった。

(『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』P153〜P154)






●真崎甚三郎大将


 最後に、「2.26事件」の黒幕とも言われた、真崎甚三郎大将の日記です。家を訪問してくる人々から、「北支」や「上海方面」の、「軍紀風紀頽廃」「掠奪強姦の例」を嘆く言葉を聞いています。


『真崎甚三郎日記』より

(一九三八年)一月二十八日 金 晴

 九時より約一時間散歩。

 十一時江藤君来訪、北支及上海方面の視察談を聞く。同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、今回も主なる責任者の談を交 へて研究せり。従て同君の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。

(『真崎甚三郎日記 昭和十一年七月〜昭和十三年十二月』 P263)



四月一日 金 晴

 塚原君四時半に来訪、予を伴ひ共に築地四丁目藍亭に至る。上海毎日新聞社長深町君を主賓として其の談を聞けり。会する者小寺、米田、森及勝次なり。 別に耳新しきことあらざるも軍の不統一、掠奪強姦の例、支那が降伏せざること等に関する談話なりし。十一時に米田、森等と共に帰宅す。十二時まで語る。

(同 P291〜P292)


 
(2004.7.31記 2008.8.10追記)
イメージ 1


2015/11/07 に公開
◆『南京大虐殺』記憶遺産11文書を検証する

パネリスト:
 阿羅健一(近現代史研究家)
 江崎道朗(評論家)
 藤岡信勝(拓殖大学客員教授)
 水間政憲(ジャーナリスト)
司会:水島総

※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千­人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、­全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
http://www.ch-sakura.jp/579.html

◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/

【関係記事】

記憶遺産意見書:日本、「南京」否定派を引用

毎日新聞 2015年11月06日 08時00分(最終更新 11月06日 10時12分)

 ◇ユネスコ受け入れず 

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺」に関する資料に対して日本政府が提出した民間研究者の意見書を疑問視する声が出ている。日本は、登録申請した中国に反論するため、外務省と専門家の意見書をユネスコ側に提出した。しかし、専門家意見書に南京事件否定派とみられている学者の著書が引用されるなどしたため、かえって日本の印象を悪くして逆効果になった恐れがあるという。
 意見書は明星大の高橋史朗教授が作成した。ユネスコ日本代表部の佐藤地(くに)大使の意見書などとともに、ユネスコ世界記憶遺産国際諮問委員会に9月末、提出された。
 高橋教授は意見書で、中国が一部公開した申請資料を分析。申請資料だけでは「内容の真正性について判断することができない」と指摘した。
 意見書は、「約100名の日本兵が『大虐殺』の存在を否定する本を出版している」と記し、南京市にいた中国人女性の日記についても「伝聞情報に依拠した記述ばかり」と記述。さらに、事件自体を否定する主張で知られる亜細亜大の東中野修道教授の著書を引用して、中国が提出した写真の撮影時期に疑問を呈し、「関連性が疑われる」とした。
 南京軍事法廷で中国人30万人虐殺の首謀者として死刑になった日本軍中将については、部隊が「南京城内に500メートル入ったところで移動を命じられ、虐殺は物理的に不可能であった」と結論づけた。
 欧州と日中韓の歴史認識の比較を研究する静岡県立大の剣持久木教授は「意見書は、南京大虐殺を否定する学派にくみしている印象を与える。ナチスによるユダヤ人虐殺を否定するのと同様の印象を世界に与えかねない」。東京外国語大の渡邊啓貴教授(国際関係論)も「日本に対する印象を悪化させて逆効果になった可能性がある」と懸念する。
 一方、高橋教授は「東中野教授に批判があるとしても、引用した研究内容は検証されたものだと評価している」と反論。外務省関係者は「(高橋教授は)保守派の中ではバランスの取れた研究者だ」と話している。
 日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」と認めている。2010年の日中歴史共同研究では、日本側は被害者数を20万人を上限に4万人、2万人などと推計。中国側は「30万人以上」と主張した。
 馳浩文部科学相は5日、パリで開かれているユネスコ定例総会で演説し、世界記憶遺産審査について「透明性の向上を含む改善を早急に実現する」ために加盟国が議論を進めていく必要があると指摘した。【宮川裕章、パリ賀有勇】

イメージ 1



次の動画

【捏造南京大虐殺関係記事リスト】
検索 検索
tearface
tearface
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

友だち(85)
  • 保守派の日本人
  • 建設環境は震災復興
  • say*ku*ash*n*38
  • 土佐文旦
  • 役に立つマネジメントシステムって
  • Office ITSY 山口
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事