◆ 歌 舞 伎 素 人 講 釈 ◆〜私の観劇ノート〜

映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」上映会は大成功のうちに終了しました。ご来場の皆様、ありがとうございます。

雁のたより(その他・随想)

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 映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」(監督=羽田澄子)といえば、十三代目仁左衛門の晩年を記録したドキュメンタリー映画の傑作である。以前から見たい見たいと思っていたのだが、全6部構成・10時間41分の超長編のため、めったに上映されない幻の名作だ。
 その「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」が、8月22、23、24日の3日間、大阪のりそな銀行大阪本店ビル地下講堂で上映されることになった。はっきり言って、この機会を逃すと、もういつ見れるか分からない。しかも今回の上映会は、商業資本の主催ではない。関西在住の歌舞伎ファンが、それこそ手弁当で上映会を行おうというのだ。(かくいう私も、実行委員会の末席に連ならせていただいた。)

 6部とも見所は多いが、その一部を紹介する。
 「若鮎の巻」
 昭和62年、若手の自主公演「若鮎の会」を指導する仁左衛門。学ぶ若手の中には、当時、仁左衛門の部屋子だった千代丸時代の愛之助の姿も。
 「人と芸の巻(上)」
 十三代目84歳から88歳までの舞台、芸談、生活の記録。昭和62年6月の「沼津」では十三代目の平作、孝夫時代の十五代目の十兵衛、お米を演じる秀太郎の名舞台も。
 「人と芸の巻き(中)」
 昭和61年、「菅原伝習手習鏡」の練習と舞台稽古。視力低下のなか、体で舞台での動きを覚えようとする仁左衛門。そしてのんびりとすごす日常生活の一面。
 「人と芸の巻(下)」
 私財を投じて興行した仁左衛門歌舞伎のエピソードや、仁左衛門の人となりを番頭・伊藤友久、長男我當、次男秀太郎、五女静香、夫人喜代子が語る。
 「孫右衛門の巻」
 脳梗塞に倒れながらも、1カ月で舞台復帰。「恋飛脚大和往来」で、孝夫の忠兵衛、八右衛門の我當に稽古をつけ、視力を失いながらも孫右衛門の舞台稽古を行う仁左衛門。
 「登仙の巻」
 最晩年の舞台と生活の記録。最後の舞台は「八陣守護城」の清正。初役であった。この舞台の3カ月後の平成6年3月26日、嵯峨の自宅で亡くなる。享年90歳。

 上映会のチケットは、6作品券5500円、3作品券3500円、1作品券1500円。コンビニ発券も可能だ。
 詳しくは、下記のオフィシャルホームページをご覧ください。
映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」上映会 公式WEBサイト
 以前から一部新聞報道がなされていたが、『演劇界』が5月号で休刊になる。幸い、8月からリニューアル復刊するそうだが、なんとも寂しい気持ちでいっぱいだ。現在、歌舞伎を専門に扱う雑誌は、歌舞伎学会の『歌舞伎―研究と批評』と『演劇界』の2誌しかなく、しかも前者は「研究と批評」と銘打ちながら、実際は研究論文主体に掲載される学術雑誌であるだけに、肩肘張らずに寛いで読める『演劇界』は、歌舞伎を見だしたと同時に、毎月欠かさず購読し、とくに直に見ることの少ない東京の舞台の劇評を楽しみにしていただけに、数ヶ月とはいえ劇評の連続性が途切れるのは残念である。
 そう思いながら5月号を読むと「私の歌舞伎賛」と言う特集が目を惹いた。タイトルは「私の歌舞伎賛」だが、実際は「私の『演劇界』賛」とも言う内容だからである。そのなかで、上村以和於氏が「歌舞伎座が私の学校なら、『演劇界』は私の虎の巻である」と書いていて、思わず膝を打った。たしかに『演劇界』は、“私の虎の巻”だ。歌舞伎を見るようになって、次にそれに就いてなにやら劇評めいたものを書きたくなったときに、私が参考にしたのは、伊原青々園や三宅周太郎、戸板康二といった過去の大家たちの劇評集なのだが、それを公式の参考書だとすると、裏の参考書つまり虎の巻は、やはり『演劇界』に載ったリアルタイムの劇評だった。
 だから芝居を見た後、ノートに書き記したメモの内容が、次の月に出る『演劇界』の劇評と少しでも一致していたり、あるいはまったく逆の見解だったりといったことを確認しては、一人合点の満足や反発を覚えるといったことを今まで繰り返してきたのである。
 歌舞伎は、上演されてしまえば(映像で残すという手段があるにしろ)基本的には消えてしまう一回性の芸術だ。だからこそ、劇評という形でその痕跡を残す必要がある。同じ特集のなかで鳥越文蔵氏が「後世参考になる劇評を残しておくことこそ「演劇界」の義務である」と書いているが、まったく同感である。
 いずれにしても、8月のリニューアル号を楽しみに待ちたい。

本が溢れる

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 草森紳一『随筆 本が崩れる』(文春新書、2005年10月)を読んで、なかなか身につまされた。さすがに、著者のように平積みされた本が崩れて、風呂場に閉じ込められるようなことはないが、それでも本の置き場所というのは、読書家・愛書家の共通した悩みだろう。かく言う私も、部屋の書架は既に満杯で、日に日に平積みされた「本の塔(!?)」がニョキニョキと伸びていく始末である。
 家族は、「要らない本は捨てろ」と言う。ところが、「本」というものを捨てられないのが、愛書家あるいは貧乏性の悲しいところで、全くできない。
 結局、根本的に整理するためには「書庫」を作ることにつきるのだろうが、そんなことは住宅事情から不可能だ。
 ああ、ブロクなら書庫の増設は簡単なのだが…
 皆さんは、本の整理、どうしていますか?

(写真は私の部屋の書架と「本の塔」です。)

ガンバレ!岩波書店

 私の住む町の駅前に、小さな本屋がある。本当に小さな本屋で、品揃えも、当然少ない。にもかかわらず、私は最低でも月に一回はこの本屋で本を買っている。なぜなら、この本屋こそ、わが町で唯一、岩波書店の本を仕入れている本屋だからである。
 ご存知の方も多いと思うが、本というのは、版元から取次を通して本屋の店頭に並ぶ。その後、売れ行きの悪い本は、通常、返品されることになる。出版というのは基本的に水物であり、再販制度の制約もあるため、こういうシステムで、小売店の仕入れリスクを軽減しているわけだ。
 ところが岩波書店の本は、このシステムを採用していない。つまり、本屋の完全買取である。だから岩波書店の本を仕入れることは、本屋にとっては、相当のリスクとなるのである。そして、それでも岩波書店の本を仕入れる本屋とは、それだけその本屋は「志」が高い。そう断言してよい。
 だから、私は岩波書店の本を買う時は、必ずその本屋で買うことにしている。ささやかだが、少しでも岩波書店の本が売れ続ければ、その本屋も、引き続き岩波書店の本を仕入れ続けてくれるにちがいないと思うからだ。

 とにかく最近は本が売れない時代であり、とくに真面目な本の出版は、大変厳しい。本屋は本屋で経営が苦しいため、売れにくい本などはますます店頭から姿を消していく。結果、本屋の店頭は、マンガとビジネス本、そしてタレント本に占拠されることになるのだが、本屋に入って、ホリエモンの書いた本や、アイドルのエッセイ本(そんなものはゴーストライターが書いたにちがいない)が平積みされているのを見ると、貴重な森林資源の無駄使いだと、ほとほと嫌になるのである。
 そんな教養なき現代、いっそう光を放つのが、ここしばらくの岩波文庫の充実ぶりだ。とにかく、最近の岩波文庫のラインナップは凄い。例えばこのブログに関係する芝居関係の本でも三木竹二『観劇偶評』、杉山其日庵『浄瑠璃素人講釈』(そう、このブログのタイトル及び書庫名は、この二著から拝借しました)、三宅周太郎『文楽の研究』といった歴史的名著が次々と文庫化された。私のような、これから芝居を勉強しようと思うものにとっては、まさに随喜の涙ものである。
 芝居関係以外にも、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、ヴィーコ『学問の方法』、アダム・スミス『法学講義』、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』、ディドロ『絵画について』、コンラッド『コンラッド短編集』、サイード『パレスチナとは何か』、田中正造『田中正造文集』、竹越与三郎『新日本史』、村井弦斎『食道楽』などなど、毎月毎月、信じられないような本が続々新刊された。
 その上、重版の方も、クロポトキン『ある革命家の手記』、ヘーゲル『政治論文集』、ロマン・ロラン『トルストイの生涯』、伊藤東涯『制度通』、江村北海『日本詩史』、幸徳秋水訳『パンの略取』など、これまた歴史的な古典が続々と復刊している。
 そもそも、文庫という出版形態は、ドイツのレクラム文庫に範をとり、古今の古典を廉価でしかもコンパクトな形で人々に届けることを目的としている。その意味でいえば、さすが岩波文庫は本邦文庫の元祖だけあって、倦むことなくその王道を突き進んでいる。とにかく、今のような知的劣化の激しい時代においては、岩波文庫は数少ない希望であり、良心だ。だから、岩波書店には、今後もこの路線を堅持して欲しい。世の真面目な読書家の生命線は、ここにかかっている。ガンバレ!岩波書店。心底、そう思うのである。そして、岩波書店の本を仕入れ続ける町の本屋さん、その「志」は、絶対的に正しい。その正しさは、必ず歴史が証明する。ガンバレ!本屋。
 唐突だが、私は当代團十郎が好きである。そして、全ての歌舞伎ファンも当代團十郎が好きに違いないと勝手に確信している。いや、当代團十郎を悪く言う人は、所詮、本当の歌舞伎ファンでは無いとさえ言い切りたい。
 周知のとおり、当代團十郎は梨園きっての苦労人である。成田屋宗家の御曹司に生まれながら(その出生においても、既に苦労の多い立場にあったが、それは言うまい)、若くして父を亡くし、叔父である先代松緑の後ろ楯で修行し、艱難辛苦、家の芸の継承に努め、今日の芸風を築いた。いや、単なる芸風ではない。その素晴らしい人格を作ったのである。
 当代團十郎の芸は、その人格が滲み出るところに価値がある。例えば「勧進帳」。私はやはり当代團十郎の弁慶がいちばん好きだ。彼の弁慶は、主を思い、仲間を労わり、自らを顧みぬ弁慶だ。それは神々しい程である。特に花道に飛び六法で引っ込む前の一礼。これこそ彼の人格が全面的に発揮される瞬間である。
 その團十郎が病に倒れて、もう幾月になる。だが、闘病中にもかかわらず、彼は公式Webサイトに「入院日記」と題する消息をこまめにファンに送ることを忘れない。まさに彼の人格が為せる業である。その「入院日記」を読んで、私は益々團十郎が大好きになったのである。
 「入院日記19」に拠ると、團十郎は「選挙には必ず行っている」と言い、今回の総選挙もなんと病院内から投票したそうである。そして、入院中は読書に励み、ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』を読んだそうである。梨園広しと言えども、ジョン・ダワーを読む歌舞伎役者は、團十郎ただ1人ではないか。だがそれ以上に感銘を受けたのは、その後に今度は「六法全書」を取り寄せ、日本国憲法を読んで、憲法問題を真面目に考えていることである。
 「入院日記20」では、憲法九条について矢張り真面目に語っている。ここで團十郎は、憲法九条を「瓢箪から駒」と言う(つまり、やはり「九条」は得がたい「駒」なのだ)。そして、憲法の拡大解釈はいけないと言い、さらに「世界平和を高らかに謳い上げ、しかも、現実をはっきりと見据え、拡大解釈などせずに、崇高なる目標を達成できる日本国憲法を日本人の叡智を結集して作り上げ、私達が憲法の賛否を語り合える機会を是非作って欲しい」とまで言うのである。私は、ほとほと感服したのだ。
 現行憲法の戦争放棄条項に対する「愛着と不満」、これはかなりのの日本人が普遍的に持つアンビバレントな感覚である。このアンビバレントな感覚が、いつも憲法問題を複雑にし、我々の口を重くするのであるが、團十郎もまた、この感覚を鋭敏に感じ取っている。だがそこで彼は歌舞伎役者であると同時に、1人の国民として真摯に読書し、考え、考え抜く中で人に語り掛けようとする。それも病床の中からである。
 病と闘いながら、日本国憲法を読む團十郎。これこそまさに彼の人格が滲み出るエピソードである。私はそんな團十郎が大好きである。
 今、團十郎は病と闘いながら、自らの生と死を見つめているに違いない。と同時に戦争と平和についても思いをめぐらしている。私はそんな團十郎の一日も早い快復を祈る。そして、この経験と思索を肚として、例えば團十郎型の「熊谷陣屋」などを見てみたい。そう真剣に思っている。

「入院日記」は「成田屋公式Webサイト」http://www.naritaya.jp の「成田屋通信」で読むことが出来ます。

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