最近は芝居を見ても、すっかり証文を出さずにほったらかし。そこで、今年見た芝居をまとめてメモしておく。 「寿初春大歌舞伎」昼の部 今年の初芝居は、翫雀・扇雀兄弟による「葛の葉」から始まった。「機屋の場」での早替りなどケレンが楽しい。だがそれ以上に扇雀の葛の葉が良かった。「子別れの場」で強烈な母性を感じさせる葛の葉姫である。障子への曲書きも無難にこなし、最後は宙乗りで引っ込むのも楽しい。翫雀の保名は、柔らかさの中に愛嬌がある。近年、翫雀・扇雀の舞台が、本当に面白くなってきた。竹三郎が信田庄司を勤める。甲高い声で一本調子のセリフ回しはこの人の芸風。庄司妻柵は鴈之助。 「佐々木高綱」は、岡本綺堂の新歌舞伎の名作。我當、進之介親子が高綱・定重親子を勤める。登場人物の心理的葛藤が複雑に絡み合う物語だが、やはり新歌舞伎は難しい。脚本にある近代主義と歌舞伎味をどうやって融合させるかが問われるからだ。我當、進之介ともに悪くはないが、個人的好みには合わなかった。ただ、馬飼子之介の吉弥が、素晴らしい演技力を見せていたのが印層的。この人は、立ち役も面白くなってきた。僧智山は弥十郎。 「芋掘長者」は、三津五郎の踊りに舌を巻く。やはり芋掘長者は、踊りの上手い人が、わざと下手に踊るというところに皮肉な面白さがある。最後の芋掘りの踊りも楽しい。 そして、最大の見ものは藤十郎と我當顔合わせの「沼津」だ。まず、二人とも上方の言葉をきちんと話せるのが嬉しい。「棒鼻の場」でのアドリブ芝居も盛り上がる。「平作住居の場」は、我當の平作、秀太郎のお米が熱演。とくにお米が印籠を盗んでから、平作がそれを問い詰める。暗闇でお米を叩く振りをして、自分を叩いて音を出すところなど胸にしみる。お米のクドキも見事。「千本松原の場」では、義太夫に乗って藤十郎の十兵衛、我當の平作が見事な動き。すっかり舞台に魅了されてしまった。(於大阪松竹座、一月三日所見) 「浪花花形歌舞伎」第二部 第五回目となった浪花花形歌舞伎は、第二部を見る。ご贔屓の亀鶴が濡髪の大役を勤めるのが楽しみ。しかも「角力場」から「難波裏」「引窓」とやるのが嬉しい。やっぱり芝居は出来るだけ通しに近い形で、筋がよくわかるようにしてほしい。 「角力場」で亀鶴の濡髪が登場。線の細さは仕方がないが、関取の言葉もまずます。姿形に爽快さがある。そして翫雀の山崎屋与五郎と放駒の二役がいい。与五郎のつっころばしもさることながら、放駒の町人気質が抜けきらない様が秀逸。なんともいえない愛嬌がある。本当に最近の翫雀は面白い。それと壱太郎の吾妻が目を引く。姿、科白とも非凡なものを感じさせた。「引窓」は竹三郎の母お幸が車輪の絶品。とくに自分の永代供養のためにコツコツ貯めた金で、濡髪の人相書きを売ってくれと言うところ、思わず涙がこぼれそうになる。そして受ける翫雀の南与兵衛も継母への想いを十分に演じる。ここに翫雀の人間味が溢れ、素晴らしい場面となった。亀鶴の濡髪は、動きの無いなかに、十分大きさを見せる。3人の親子の情愛が複雑に絡み合う舞台で、本当に胸を打たれた。(於大阪松竹座、四月十二日所見) 「七月大歌舞伎」昼の部 「七月大歌舞伎」は、松緑、菊之助、孝太郎の「春調娘七草」から。なぜ七月に? もっと夏らしい演目があろうに。 「木村長門守」は、片岡十二集のひとつ。我當が家の芸に挑む。だが、いまの我當に木村長門守は気の毒。若々しく演じようとするが、どうしても動きが重い。いっそ、別の機会に進之介にやらせてみたい。一方、充分芝居を見せたのが家康の左團次。大御所としての貫禄あり、狸爺としての軽みあり。テレビでも活躍する左團次だが、そういった経験が新歌舞伎で十分に生かされているのがよく分る。 そして最大の見物が「先代萩」だ。しかも「花水橋」から「御殿」「床下」「対決」「刃傷」と半通しなのが嬉しい。まず「花水橋」、菊之助の足利頼兼。まず大身の大名に見えなければどうにもならないところに難しさがある。線の細さはいかんともしがたいが、華麗さは見事。 「御殿」は藤十郎の政岡と仁左衛門の八汐の顔合わせが嬉しい。飯炊が省略される変則の脚本は初心者向け。仁左衛門の八汐は、コッテリとした味わい。千松がなぶられるところ、鶴千代を上手屋台に隠す藤十郎いつもの型だ。そして政岡のクドキは圧巻の一言。一部観客に拍手する不心得者がいたが、政岡のクドキが進むと、自然と拍手は減り、すすり泣く声が増える。まさに熱演は拍手を止める。「床下」は、松緑の男之助が荒事味を見せた後で仁左衛門の仁木弾正が登場。面明りの演出も見事で、じつに古怪な味わい。花道の引っ込みを見事で、座頭役者の貫禄である。 その仁木弾正が「対決」になると、すっかり小物になってしまうのがこの狂言の不思議なところ。菊五郎の細川勝元は手に入った捌役。左團次の外記左衛門もいい。團蔵の山名宗全は小役人風。大江鬼貫をベテラン権一が勤めるのが嬉しい。愛之助の渡辺民部は颯爽としている。「刃傷」は仁左衛門の仁木弾正が魅せる。死ぬところもコッテリとしていて、仁左衛門自身が楽しんで演じているのがよく分った。(於大阪松竹座、七月二十六日所見) |
観劇偶評(劇評)
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直接、劇場で鑑賞した舞台の評です。
南座「吉例顔見世興行」夜の部は、幸四郎の「石切梶原」、錦之助襲名口上が付いた「寿曾我対面」、藤十郎の「娘道成寺」、仁左衛門の「河内山」、そして松緑・菊之助の「三社祭」と翫雀・扇雀の「俄獅子」である。 まず「石切梶原」。幸四郎の梶原景時はさすがの演技である。とくに見せ場である太刀の目利きから理に勝る梶原を見せる。やはり幸四郎はこういう理知的な人物の造形が上手い。石橋山合戦の物語でも、情よりも理によって頼朝を助けた梶原という観があった。もうひとつ素晴らしかったのが二つ胴の試し切りの場面。太刀を構えるときに、ジリジリと剣先を挙げて決まる。もちろん手水鉢も後ろ向きに切る。吉右衛門型の様式美を見せてくれた。大庭景親と俣野景久兄弟は我当と愛之助。敵役としては憎体が不足。錦吾の六郎太夫、高麗蔵の梢、さすが一門で固めただけあって手堅い。罪人剣菱呑助は家橘。もうけ役だが、酒尽しのセリフで沸かせた。梶原方の大名、山口十郎に亀鶴、川島八平に薪車。 「寿曾我対面」は、劇中に錦之助襲名の口上が付いた。先代時蔵亡き後、錦之助を指導してきた富十郎が挨拶。「一から歌舞伎を勉強したいと、信二郎君が私の下に訪ねてきました」と語っていたが、富十郎にとっても良い生徒を持てたのでは。いずれ錦之助が天王寺屋に恩返しするときが来ると思う。肝心の芝居は、やや退屈。まず錦之助の五郎は仁が違う。菊五郎の十郎との遣り取りでも、工藤祐経に飛び掛ろうとするところ、手順をなぞっているだけの観が強く、切迫感に欠けた。だから見せ場である杯を割り、三方を押しつぶすところでも力強さがない。せっかくの襲名披露なのだから、もっと錦之助の仁に合った演目を選択すべき。富十郎の工藤は、さすが座頭役者の貫禄である。ただ、幕が切って落ちてから最後まで高座に座ったまま。鶴の見得でも立たないのは残念。足の調子でも悪いのだろうか。舞鶴は時蔵。道化味が不足である。秀太郎の大磯の虎は、さすがの艶やかさ。鬼王新左衛門は梅玉、この人が登場するだけで気分が良くなるのは贔屓目か。化粧坂少将は扇雀、喜瀬川亀鶴に梅枝、近江小藤太成家に松緑、八幡三郎行氏に愛之助。梶原景時、景高親子は團蔵と亀鶴。 さすがの舞台を見せてくれたのは藤十郎「娘道成寺」。あれだけ腰の据わった踊りは、そうそうない。どれだけ複雑な振りをしても、体の中心線がぶれず。そして若々しい。ただ、喜寿記念と銘打つのはいかがなものか。初代鴈治郎は死ぬまで若旦那で通し、決して自らの老いを見せなかったことで知られる。いくら高齢化社会とはいえ、歌舞伎役者が老齢自慢をするようでは困る。もうひとつ、聞いたか坊主が般若湯(酒)、天蓋(蛸)を出す場面もチャリが不足。せっかく亀鶴、薪車以下、上方の若手を起用しているのだから、もっとサービスして欲しかった。 仁左衛門の「河内山」は、質見世の場から始まるのが嬉しい。ここでお数寄屋坊主の姿を見せることで、次の松江邸での偽使僧姿の違いが面白さを増す。さて仁左衛門の河内山は不敵さ、凄みがいい。おまきから事情を聞いて、大名への反骨心が湧き上がる好戦的な河内山である。竹三郎の後家おまきも落ち着いた演技。甲高い声で一本調子なセリフ回しも批判が多いが、逆にファンである私からすればたまらない。東蔵の和泉屋清兵衛も世間知に富む人物だ。松之助の番頭伝右衛門、あいかわらず場を盛り上げるのが上手い。序幕から上々の出来である。松江邸広間の場、翫雀の松江侯は殿ご乱心。これではまるで馬鹿殿である。もう少し国持ち大名としての高貴さと、その裏返しである気儘さを出して欲しい。ただ、書院の場では、河内山との遣り取りで充分相手を挑発する。これに河内山が「もってのほかなるご乱行」となるわけで非常に面白かった。仁左衛門の使僧北谷道海実は河内山宗俊は、お数寄屋坊主姿とは打って変わった気品がある。だから玄関先で「それじゃ大膳は、知っていたのか」とガラリとくだけるところ、見せ場である「悪に強きは善にもと」のセリフも堪能した。そして見事なのは玄関先から花道に進んでの「馬鹿め」。ここでも翫雀が充分に口惜しさを表現したことが効いた。左團次の家老高木小左衛門は常識人。團蔵の北村大膳は、狡猾さの中にどこか小役人風情があり好演。愛之助の宮崎数馬、孝太郎の浪路。仁左衛門以下、さすがの舞台を見せてくれた。 大切は踊り二つ。松緑と菊之助の「三社祭」は、若さあふれる舞台。技術的なことは置いておいて、こういう若くてピチピチした踊りを見るのは楽しい。翫雀と扇雀の「俄獅子」もよく息が合った踊りであった。とくに若い衆をたくさん使っての立ち回りは爽快。立ち回り大好き人間の私からすれば、疲れが一気に吹き飛び、楽しい気分で一日の観劇を締めくくれたのが嬉しかった。 (12月23日所見) |
今年の南座顔見世は二代目中村錦之助襲名披露である。信二郎時代から、萬屋の将来を支えるのは、この人しかいないと思っていただけに、錦之助襲名はお目出度い。大きな名前に育てて欲しい。その顔見世だが、昼の部は「将軍江戸を去る」「勧進帳」「すし屋」「二人椀久」と興味深い狂言が並んだ。 まず、幸四郎の弁慶に錦之助の富樫、これに藤十郎が義経を付き合うという豪華な配役の「勧進帳」。この興行中に通算950回目の弁慶を演じることになる幸四郎だけに、さすが堂々とした弁慶である。とくに幸四郎の弁慶のいいところは、はやる四天王を抑えてから、勧進帳の読み上げ、山伏問答と、常に理に勝る弁慶になっていることだ。いかにも知恵者でという風がある。延年の舞になってからは、見事の一言。一方、錦之助の富樫は声がいい。弁慶の重厚な声に対して、高音がよく対応している。口跡もよく、詞がよく聞こえる。とにかく富樫という役は、爽やかさがなければどうにもならないのだから、その点でも錦之助の富樫、充分次第点だ。藤十郎の義経は、品位と風格で文句なし。関所では小さく存在感を押さえ、関所を抜けたところで、笠を脱いで上手に座ると急に大きく見える。さすがである。四天王は、翫雀、高麗蔵、梅枝、錦吾。 「すし屋」は丸本物の名作だが、菊五郎の権太が登場するあたり、菊五郎劇団お得意のホームドラマになっている。時蔵の弥助実は三位中将維盛、菊之助のお里のジャラジャラしたやり取りに、権太が開けかけた戸を閉め直すあたりのタイミングが面白い。家橘のおくらを泣き落とすところも、茶を目に付けて涙に見せる型で、手順に狂いがない。悪知恵が働いて、それでいてどこか憎めない愛嬌のある権太である。見せ場である鮓桶を担いでの花道の出、自分の妻と倅を若葉の内侍、六代君の替え玉として差し出すあたり、一瞬の憂いを見せながら、露悪的に振舞うあたりは見事だった。弥左衛門に切られてからの見あらわしも文句がない。左團次の弥左衛門は、旧恩に報いようとする篤実さがよく出ている。そして、富十郎の梶原景時は立派な梶原であった。すべてを見通した知恵者としての風がよく出ている。東蔵の若葉の内侍も、いかにも公達の御台所という風格があるが、やや風格がありすぎて、時蔵の維盛が負けてしまう。 ところで、これだけ人気狂言が並んだ昼の部で、意外にも私の心を最も揺さぶったのは真山青果の新歌舞伎「将軍江戸を去る」だった。まず、梅玉の徳川慶喜が素晴らしい。上野大慈院の場、時鳥の声を聞きながら読書するところで、将軍としての英邁さ、剛毅、気品すべてが備わる。秀太郎の高橋伊勢守とのやり取りで「将軍も裸になりたいときがある」と思わず本音を吐露するあたり、内に苦渋を秘めた慶喜その人である。こういう内面に屈折を抱えた人物をやらせると梅玉は当代一だ。そして我当の山岡鉄太郎、実直で、それていて懐の深い人物。この二人が真山劇得意の議論を行うのだから、面白くないはずがない。そして有名な尊皇・勤皇論争は、所詮屁理屈である。慶喜も鉄太郎も屁理屈を屁理屈として論じている。なぜなら、二人とも戦争回避という命題に向けて、その大義名分を探しているに過ぎないからだ。そういう“知恵ある大人の熱血”を描いたところに真山劇の真骨頂がある。梅玉と我当が、それを充分に演じきる。秀太郎の高橋伊勢守は、冷静沈着ななかに、この対面劇の影の仕掛人としての知性を感じさせる。そして千住大橋の場、ここでもすべてを達観した慶喜の穏やかさを梅玉が見せた。ここまでくれば最後の「江戸の地よ、江戸の人よ、さらば」の名セリフが、胸に突き刺さる。かつて戸板康二は「将軍江戸を去る」を「見るたびに泣かされる作品」(『すばらしいセリフ』駸々堂)と評したが、まったくその通りで、じつに泣かせる芝居だ。まったく素晴らしい舞台であった。 昼の部の大切りは、仁左衛門と孝太郎の「二人椀久」。一日の芝居見物を締めくくる一幕として、幽玄の美を堪能した。 (12月19日所見) |
手元の資料を見ると、歌舞伎鑑賞教室が初めて実施されたのは昭和51年とある。つまり、今回で通算31回目の開催となるわけだが、まことに立派なことだと思う。鑑賞教室で初めて歌舞伎に触れたことがきっかけで歌舞伎愛好家となった人がいかに多いことか。かくいう私もそんな一人だ。 その鑑賞教室を初期から支えてきたのが先代仁左衛門であり、その遺志を受け継いでいるのが我當だ。松嶋屋親子、本当に立派だと思う。そして、この鑑賞教室から生まれたスターが、吉弥だろう。今回の舞台を見て、そう思った。 今回の鑑賞教室は、歌舞伎十八番の内「鳴神」。我當の鳴神上人、吉弥の雲の絶間姫というおなじみのコンビである。 まず目を引くのは、吉弥の充実ぶりだ。花道の出からその姿の良さは申し分ない。最近の若手女形は、なんとなく現代的な造形(つまり、本物の娘っぽい)が多くなる中で、なんとも古風な容姿がいい。たぶん、関西の古い歌舞伎ファンの間で吉弥が評価される理由だろう。そして、今回の雲の絶間姫では、その古風さが生きている。まず、色気がありながら女性の生々しさがない。だから、鳴神上人との物語や、肝心の乳房に触れさせる場面で、下卑た印象がなくなるのである。 もう一つ、今回の吉弥のいい点は、師匠である我當を相手にして、妙な遠慮がなくなっていることだ。だから、知恵者である鳴神上人が姫の乳房に触れ、破戒の誘惑に懊悩するところで、その鳴神上人を上回る知恵と胆力を、やや世話にくだけた台詞回しで表現している。そして、注連縄を切るところで、充分に舞台の中心を占める演技を見せることができたと言えよう。いよいよ、吉弥も若手から中堅へと歩を進めつつある証拠といえる。 相手役が充実していることが、我當の鳴神上人をさらに面白い物にした。というのも、姫が登場するまでは、我當の持ち味である大きさが目を惹いたものの、やや動きが重く、緩慢な印象だった(おそらく私が所見した日が初日ということが関係していると思う)。ところが、姫とのやりとりになってから俄然、我當の動きがよくなっていく。とくに破戒の果てに姫と夫婦になろうとするあたりから、元気一杯。そして、荒れになってからの立ち回りも、上方役者では稀有な荒事味を持つ我當ならでわの面白さを発揮した。 ただ、立ち回りでは所化白雲坊にベテランの當十郎が脇を固めるものの、その他の所化たちの動きに連携をやや欠くところがあった。これは初日だからだろう。全体としては、非常にバランスのいい舞台だった。 (於岸和田市立浪切ホール、六月三日所見。写真は番付) |
(前篇より続く)第二部は「土屋主税」と「お染の五役」。個人的には、この第二部がいちばん面白かった。 まず「土屋主税」は、翫雀の土屋主税、亀鶴の大高源吾、竹三郎の宝井其角、吉弥のお園、薪車の落合其月と、役者のバランスが非常に良かった。 特に目を引くのが亀鶴の大高源吾だ。其角邸の場では、花道の出から姿に大きさがあり、雪に足をとられまいとする仕草には工夫があった。また、落合其月に面罵されるところでは、討ち入りなど無関心といった感じのさらりとした台詞回しの一方、「あした待たるるその宝船」の句を残す所では、きりりと心に期するものを感じさせるなど、科と白ともにメリハリが利いている。 竹三郎の其角は、落ち着いた宗匠ぶり。騒がしさが無く、この場に重みを加える。意外だったのは薪車の落合其月。なかなかの手強さで、敵役の可能性を感じさせた。 土屋邸奥座敷の場では、翫雀の土屋主税が興味深い。もともと、この狂言は初代鴈治郎の容姿を見せることを眼目に作られた芝居だけに、形容本位の芝居になりがちなのだが、翫雀の土屋殿は、いかにも気の良さそうな殿様で、発句などしそうにないほど。それが、下の句の意味を考えて討ち入りを待つところでの鷹揚な存在感につながり、心地よさを感じさせた。ただ、そのため討ち入りが始まってから殿の性急な性格が現れるところでは、ややちぐはぐな印象になる。鷹揚さと性急さという、土屋殿の二面性をどう繋いでいくのか、今後の課題だろう。 討ち入りが始まってからの竹三郎の演技は見事の一言。糸にのって、可笑しみのある動きが観衆を惹きつけた。さすがベテランの味である。吉弥のお園も手堅い。そして、討ち入りが終わって、亀鶴の大高源吾が再び登場したときには、私はもうすっかり舞台に引き込まれていた。 ところで、「土屋主税」は一般的に「愚劇」だと言われる。確かに講談調の劇ではあるが、にもかかわらず、不思議なくらい胸にグッとくる芝居だと私は思う。それが「忠臣蔵」という世界の不思議な魅力だろう。恐らく、忠臣蔵が好きな人は、みな自分を四十八人目の義士に模しているのだと思う。だから、「土屋主税」にしろ、「松浦の太鼓」にしろ、「天野屋義兵衛」にしろ、四十七士を応援する「四十八人目の義士」を登場させる狂言が、無数に生み出されたのだと思う。そんな中で、「土屋主税」は、塀越しに高提灯を掲げて赤穂義士を応援したエピソードを含めて、私の大好きな物語だ。 今回も、亀鶴の大高源吾が本懐成就の後、土屋邸を訪れるところで、不覚にも涙がこぼれそうになった。やはり、忠臣蔵物は、素晴らしいと思った。 孝太郎の「お染の五役」は、早変わりが眼目の踊り。着ぐるみまで登場する実に馬鹿馬鹿しいまでの趣向だが、こういった馬鹿馬鹿しさもまた歌舞伎の楽しみだ。充分に堪能した。五役の中で特に目を引いたのが、土手のお六。どちらかと言えば可憐なお姫様役が多い孝太郎が、実に婀娜っぽいお六を見せてくれた。今後、こういった役にも芸域を広げていって欲しい。猿回しの夫婦に愛之助と吉弥が付き合う。一巴太夫の常磐津が耳に心地よい。 今回の浪花花形歌舞伎のもう一つの注目は、第三部の新作「大塩平八郎」だ。丸本物や古典を中心にすえた演目から、一歩進めた野心的な試みだろう。従来、上方は新作を好むところがあるから、私自身も相当に楽しみにしていた。 さて、「大塩平八郎」である。正直言うと、幕開き当初は、あまりに新劇風なので、ややガッカリした。良く言えば成駒屋お得意の東宝歌舞伎の雰囲気であり、悪く言えば大衆時代劇のような感じだったからだ。ところが、物語が進むにつれて、すっかり芝居の世界に惹き込まれてしまった。というのも、これが「友情」の物語だったからだ。 町奉行所の同僚である大塩平八郎(翫雀)と佐川兵衛(愛之助)はたがいに嘘さえ見抜ける間柄。そして大塩の息子、格之進(進之介)と佐川の娘、槙(孝太郎)は、互いに好き合っている。そんな両家の屋敷には、それぞれ一本の桜木があり、二つの桜木は根が繋がっているかのように並んで繁っている。 その後、大塩は幕府の失政に失望し、与力を辞し、私塾洗心洞を開き門弟と学問の傍ら窮民救済にあたるのだが、敵役の与力、奥舎玄蕃(薪車)が、公儀を蔑ろにする行為だとして大塩をなじり、嘲る。門弟たちは憤り、大塩の決起を促すが、大塩はいったんこれを抑える。 主人の身の上を案じた中間源次郎(亀鶴)は、庭の桜木越しに佐川の中間久蔵(吉弥)に不安を打ち明ける。 やがて、佐川が大塩の真意を確かめにやってくる。だが、大塩は本心を明かさない。門弟の中に玄蕃の間者が紛れ込んでいたからだ。二人の会話をうかがう間者を源次郎が見つけ、引きずり出すと、格之進がこれを一刀の下に切り捨て、決起への覚悟を示す。息子の覚悟を知った大塩も、遂に決起を決意し、もし自分の正義が間違っていたなら、お前が俺の首を討ってくれと佐川に託し、佐川もまた大塩が敗れたときには、自分が最期を見届けることを告げて、一同を見逃すのだった……。 一見、歌舞伎味の乏しい舞台に、私は惹き込まれてしまった。とくに、翫雀の大塩が愛之助の佐川のことを思い、「俺とあいつは二本の桜。幹は離れていても、根は地中でしっかりと結ばれている」と言うあたりで、グッと胸が詰まってしまった。なぜなら、成駒屋と松嶋屋が、本当に相携えていくことが、今後の上方歌舞伎にとって不可欠なことだからだ。昔から上方の歌舞伎ファンは、成駒屋派と松嶋屋派に二分され、互いを貶すことに余念がなかったが、これが上方歌舞伎衰退の一因との反省がある。そしていま、舞台で繰り広げられている友情こそ、大阪のファンが長年求めていたものではないのか。そう思うと、やはり胸が熱くなった。 もう一つ感動したのは、中盤以降は大塩と佐川が後影に引き下がり、亀鶴の源次郎と吉弥の久蔵の狂言となることだ。とくに主人のために奮闘する亀鶴と、それを理解し、支える吉弥の友情が、実に良く描かれ、演じられていた。この二人もまた、上方歌舞伎にとってかけがえのない人材だと思う。 善人ばかり登場する中で、唯一敵役を演じた薪車も手堅い。案外、こういった敵役に芸域が広がっていく可能性を感じた。 ところで、新作には新作の怖さがある。それは「型」がないということだ。古典ならば、「型」通りに演じれば、いくら役者が拙くとも、それなりの形ができる。これが「型」の凄さなのだが、今回のような新作の場合、「型」がないことで、役者の自力が出てしまう。その意味で、翫雀、愛之助、亀鶴、吉弥の四人は充分に演技者としての自力を見せた。 一方で、まだまだ力不足を感じさせたのは進之介だ。台詞回しが拙い。経験が必要だろう。ただし、進之介が科白を言うとき、微妙に顔を歪めることに気づき、はっとした。なぜなら、十三代目仁左衛門もまた、顔を歪める癖があったからだ。やはり彼もまた偉大な芸統を受け継ぐ一人だと思い知らされる。 今回の浪花花形歌舞伎は、一つのエポックメーキングとなる公演だったと思う。というのも、過去二回はいずれも、花形歌舞伎と銘打ちながらも、実質的には藤十郎(当時は、鴈治郎)や秀太郎が若手を支えての公演だった。ところが、今回はまったくの若手だけで一興行打ったわけだから、その意味は大きい。また、狂言立ても「家の芸」あり、新作ありと野心的だ。このメンバーで、これだけの芝居ができるようになったことは、私のような関西の歌舞伎ファンにとっては、本当に嬉しいことだ。この調子で、過去の遺産の「継承」と「新風」を関西歌舞伎界に吹き込んで欲しい。 (於大阪松竹座、四月八日所見) |




