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日本人のこころ

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日本は太陽

太平洋戦争(日本では大東亜戦争)で日本軍が玉砕したパラオのアンガウル島に立つ
戦没者慰霊碑が、ホテル建設計画のため立ち退きを迫られていたが
昨年、日本国内の人々の善意により無事移設された。
「戦友の碑を守りたい」
と奔走した玉砕戦経験者でパラオ在住の海洋生物学者、倉田洋二さん(84)は
「きれいになった。皆さんに感謝したい」
と、この冬、帰国して関係者らに移設の報告に回っている。
パラオは昭和20年の終戦まで31年間、日本が統治した。
日米の激戦地となりアンガウル島でも日本軍の守備隊が玉砕した。
戦後、倉田さんは東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。
平成6年、戦友の墓守をしたいとパラオへ移住した。
アンガウル島の浜辺には
「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」
などと刻まれた昭和28年建立の日本国の碑など慰霊碑26基と観音像1体が
太平洋かなたにある日本の方角を向いて建てられていた。
ところが平成20年に地主から移転を求められ、
島内で代替地を確保できたものの移設費に苦慮した。
倉田さんが同年、一時帰国して寄付を募って回ったが、戦友会は解散し、
遺族の多くは亡くなって連絡が取れなくなっていた。
戦友のため奔走する倉田さんの姿を本紙などが紹介したところ、
3つの団体と100人を超える個人から目標の80万円を上回る約350万円が寄せられた。
当時、厚生労働省は国が建てた碑の移設費は国が負担するとしていたが、
同省外事室は
「倉田さん側から費用が十分集まったため負担に及ばないとの連絡があり、
お任せすることにした」という。
約250万円かけ平和公園を整備し、すべての碑と観音像を移した。
熱帯気候で育たないソメイヨシノに代えて、真っ赤なインドザクラも約20本植えた。
残金約100万円は維持管理費に充てる。
倉田さんは
「新聞記事を読んで寄付してくださった方が一番多かった。本当にありがたい。
だが関係者は亡くなっていき、私もこの年齢。日本の国が何とか永代供養を考えてほしい」
と話している。
2011.1.4 産経新聞)
イメージ 1
 
 
・・・・・・ 
パラオ諸島。
1543年にスペインが発見して統治し、
1899年にドイツが買収。
1919年、第一次大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本の委任統治領となり、
大東亜戦争後の1947年に日本からアメリカの信託統治下となりました。
 
こうして見るとパラオは約400年間も外国の統治下に置かれてきましたが、
この400年のうち約30年にしか過ぎない日本の統治時代が「一番よかった」と
現地の人達は言っていました。
 
その理由は、現地人へ日本と同じ教育を施したことと、
現地に来た日本人たちが現地人たちを大切にしたことですが、
それ以上に彼らが日本を慕うのは何でしょう?
 
それは、かつて日本兵たちがペリリュー島やアンガウル島を守るために、
攻め来る米軍を相手に玉砕するまで戦った勇猛果敢な戦闘ぶりがあるからです。
 
この激戦は両島とも焦土と化し、建物も緑も全て破壊され尽くされましたが、
現地の人達は死を賭した日本兵たちへの尊敬の気持ちは戦後も消え去らなかったのです。
そのよい例がパラオの国旗に現れています。
 
パラオは国として自立するために国旗を定めなければなりませんでしたが、
その案を全島から募集したところ70ほど集まったといいます。
その中から選ばれたのが日本と同じ日の丸のデザインでした。
ただ日の丸の部分が黄色で、白地の部分が青としました。
パラオの国旗は知っていても、その理由を知る日本人は少ない。
 
パラオの現地の人は語る。
「国旗の選択はパラオの歴史と伝統がこめられていました。
だから選考委員は真剣で、選考に日数をかけたのです。
でも最終的にこの旗に決まったのは、
日本の旗に一番似ているので、最大の人気が集まったからです。
日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現わします。
周囲の青地は海を意味します。
月は太陽が出ないと輝くことが出来ません。
つまり、月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つのです。
太陽とは日本のことです。
海に囲まれたパラオという国は、
日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのです。
我々は戦争中に日の丸を掲げて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、
大きな魅力と尊敬を捧げています。
一万に及ぶ英霊たちは私達に、
勇気と国を想う心があればアメリカより強くなれること、を教えて死んだのです・・・」
・・・・・・
 
 
戦後、パラオの人達に心からこのように言わせた我々の祖先たちは誠に立派でした。
祖先たちが命がけで守ったものを、その後の人達が理解して、
語り継いで残してくれるのは何よりも供養になる。
・・・
 
さて、私は、私の住む自治体の主催する「新年 賀詞交歓会」に毎年出席させて頂いています。
今年も出席しました。
ここでは必ず最初に「国歌斉唱」からはじまります。
 
声高らかに、1000人以上の人達が、ひとつになって大きな日の丸に向かって歌うのです。
私も周りの声に負けじと直立不動で大きな声で歌う。
 
日本では「国」を「国家」と書く。国に家をつける。
天皇陛下を中心に日本人は皆、家族同然。
君が代を歌っていると、素直にそういう気持ちになります。
「日本はいい国だ。 守ろう、この国を!」
 
 
 
イメージ 2
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

大変です!!
現在、外務省のホームページから国旗と富士山の画像が消えている模様です!!
どうかご確認をお願いしますm(__)m

外務省ホームページ (日本語)

( ;▽;) 英語版の方には国旗があるのですが、不死の山と国の意味を消された事実・・・

・゚・(つД`)・゚・ 国旗と富士山と日本を返せ〜!! 以前のHP以前の魚拓


※前科あります民主党※ 官邸HPから消えた日の丸 2009/09/17(木) 博士の独り言より
打越和子さんは「靖国のこえに耳を澄ませて」という本を書かれている方で、
数年前に講演でこのように述べています。・・・・・
 
 
みくにいまたゞならぬときつはものと召され出でゆく何ぞうれしき
 吾死なば後につゞきてとこしへに御國護れよ四方の人々
 
これは私の故郷の熊本県出身の和多山儀平さんという方が、
出征を前に詠まれた歌ですが「召され出でゆく何ぞうれしき」という言葉。
そして「後につゞきてとこしへに御國護れよ四方の人々」というこの訴えですね。
私達の世代は出征していった人達は戦争には嫌々、涙ながらに引っ張られていったと教えられてきました。
みんながそうだったのだろうと。
けれども、この方は御國がただならぬときに召されていくことを「何ぞうれしき」と。
そして私が死んだならば、この国を永遠に護りついで欲しいと後生に願いをかけておられるわけです。
 
その後生というのは「他ならぬ私ではないのか?」
そう思った時、私はそういう人達に願いをかけられている存在だということに気が付いたんです。
それが最初でした。それから〝みくにがただならぬとき〟とは一体どういう時だったのか、
という当時の国際情勢を学びました。
それからその戦争の真相が「なぜ戦後世代に伝わって来なかったのか」
戦後の占領政策についても学びを深めていったわけです。
 
それから数年が経った平成五年になって、細川首相が
「あの戦争は間違った戦争であった。侵略戦争であったと私は思っている。」
と発言しました。
その年は学徒出陣五十周年の年でした。
 
靖国神社で開かれていた学徒出陣五十周年特別展を企画した靖国神社の方々に
インタビューーする機会を得ました。
その時に靖国神社の神職さんの話を聴いて驚いたのは、
実によく一人一人の方のことを克明に知っていらっしゃる。
「〜さんはですね。飛行機にのって〜から行かれて、こういう歌を詠まれたんですよ。」
ってすらすらとその短歌がでてくる。
そして、
「〜さんは恋人がいらっしゃいましてね。今〜に住んでおられましてね。この前子供さんがいらっしゃって・・・」
とかそういう一人一人の名前や歌やご家族の名前、その人が残した手紙の一節、
そういうものがすらすらすらっと出てくるんですよ。
 
それを身内のことのように懐かしくお話されるんですね。
私はそれまでに戦没者を大切にしなければならないという気持ちはすでにもっていました。
けれどもその一人一人の方について、
じゃあどなたを知っているの? 
その方はどういうお言葉をのこされましたか?
その方はどこに住んでいらっしゃって、どういう人だった?
 
そういうことは全く知らなかった。・・・
 
慰霊というのは、その人達お一人お一人のことをもっとよく知ることではないだろうか。
「英霊を大切にしなければいけない」という一つの概念に留まっていては、
私達は本当に慰霊するということは出来ないのではないかな、と思わされました。
 
・・・・・・
 
 
昭和十九年十一月、第九三一航空隊の空母「神鷹(しんよう)」に乗り組んだ一人の若者がいました。
十一月十七日、「神鷹」は済州島西方海面で敵潜水艦の雷撃を受けて沈没し、
その若者は艦と運命を共にした。
 
この若者は熊本県八代市の和多山儀平(わだやま ぎへい)さんです。 享年20歳。
 
米穀商の父母の間に、姉一人、弟三人、妹二人の七人兄弟の長男として生まれた和多山さんは、
九州男児そのもので、普段はやさしい兄として慕われていましたが、
一旦点火されれば爆発的なエネルギーで直ちに行動する武人(ますらお)であったという。
 
昭和十六年、旧制熊本高等工業学校に入学。
ここで日本学生協会に入り、自らの人格を高めるために熾烈な求道、研鑽に励みます。
聖徳太子のみ教えを道のしおりと仰ぎ、明治天皇の御製を拝誦し、吉田松陰を学びます。
 
昭和十八年に海軍予備学生として茨城の土浦航空隊に入り、
その後選ばれて新入予備学生の教官になります。
 
入隊後もひたむきな姿勢は変わることなく、「立派な海軍士官になる」ことを自分の使命と信じ、
どんなに厳しい肉体訓練も決して弱音は吐かなかったという。
 
昭和十九年九月十四日、和多山さんは弟の茂平さんにこのような手紙を出しています。
「人間としての感情は否定すべくもないのは当たり前だ。
しかしなから兄が又は海軍軍人一般があえて表面それに無関心をよそおうのは、
感情におぼれて不覚をとる事を恐れる故であり、その内にこもる想いは万斛(ばんこく)の想いである」
 
この「万斛の想い」について偲ぶ記述が和多山さんの日記にあります。
 
「今朝方、実に言いようのない夢を見た。
しるす事にする。
場所は母の実家、大島の海岸、軍刀を吊るして見慣れた家の前の防波堤より降りて、
これを最後にと八代の家に帰ろうとする時、渚より母は眼に涙を浮かべつつ、
実に忘れられぬ顔をしながら、
『儀平ちゃん、何も想い残す事はないから一生懸命働いて天皇陛下の御為に死んで来なさい』
と胸にすがって泣くのである。
(略)
しかしながら、決して取り乱してはいない。
ひたすら皇軍に捧げた我が子との別れに生じ来る別離の悲しみと
武運を祈る心との交錯する複雑なる面わである・・・ 私を送るのである。
その時、家の門に父が現れる。
別れようと父に最後の握手を交わさんとすると、父は母を見返り
『儀平、元気で行け』と言いつつ握手をのけて私の体を抱きかかえられる。
腰の剣がだらりと下がった重みに目がさめる。
気がつけば甲板の釣床の中」
 
この夢に現れた両親の態度は現実もその通りでした。
一九年三月五日、父と姉の智さんは和多山さんの元へ面会に訪れて最後の名残を惜しんだが、
母だけは
「一度あの子をお国に捧げた以上、心は動きませぬ。立派につとめを果たしてくれる事を祈ります」
と言って、面会には来られなかったという。
・・・・・・
 
その後、和多山さんが乗った「神鷹」の最後の様子は、戦後も知ることは出来ませんでした。
家族は八方手を尽くして調べ、ようやく戦友からの手紙によってその一部を知ることが出来ました。
 
「神鷹」は大型商船を緊急に改造して造った特設空母で、
戦局のきわめて不利な状況下、沈没の危険性はことのほか大きかったと皆わかっていました。
その「神鷹」に和多山さんは自ら進んで希望して乗船したのです。
この船に乗る順番であった同期の少尉が一人息子であることを察した和多山さんは、
「君は一人息子だ。自分には弟も多い」と言って進んで交替したという。
 
昭和二十三年になって
「和多山少尉は、海中を何かにつかまって流されながら、
戦友たちを励ますように元気な歌声を響かせていた」と生存者が証言しています。
 
「一度はお国に捧げた限りは」と面会に来ることがなかった気丈な母は亡くなり、
姉の智さんは弟の船が沈んだ東シナ海の波が打ち寄せる天草の岬へ、
今も年に一度は訪れているそうです。・・・
 
・・・・・・
 
打越さんは講演の最後にこのように述べております。
 
「歴史に目覚めてきて、戦没者たちのことを知ろう、知りたいという若い世代の人達が
たくさん出てきています。
そういう若い世代が、戦没者、死者との絆を回復する、死者との対話を回復する、
自分たちにかけられた願いというものに目覚めた時、
本当に生きるということの尊さが解ると思います。
 
命を大切にしなさい、自分を大切にしなさいといくら言っても
生きることの尊さが解るものではない。
亡くなった方々たちの思い、自分にかけられた願い、そういうものに目覚めてこそ解る。
ですから、今の教育問題というのも、靖国神社の問題と深く根っこは同じであって、
亡くなった方たちへの尊敬の念を回復することが、
本当に子ども達の命の輝きを回復することではないかと私は思っております」
 
 
イメージ 1

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

日本の矜持とは何か

平成22年5月31日、東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われた拝礼式。
墓前には天皇皇后両陛下御下賜の大花籠が飾られ、
午後零時30分、皇宮警察音楽隊の演奏に合わせて、国歌「君が代」が斉唱されました。
今回の拝礼式で納骨されたご遺骨は、
硫黄島、フィリピン、マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、ビスマーク・ソロモン諸島、モンゴルで
昨年度に政府収集団などが持ち帰った3,937柱です。
当墓苑には合計35万8269柱のご遺骨が納められたことになりました。
 
最近ではこの柱という数え方を知らない人がいますが、
この柱というのは神様を数えるときに使うものです。
 
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特定非営利活動法人JYMAという団体があります
厚生省の指導協力のもと、戦後処理行政の一環である政府主催の戦没者遺骨収に参加し、協力して、
国庫補助金が給付されている民間ボランティア団体です。
 
昭和42年発足以来、戦没者遺骨収集促進団体協議会加盟団体として246次に亘り、
延べ1,424名の青年や学生を大東亜戦争の激戦地に送り出してきました。
 
遺骨収集事業は年を追う毎に困難になっておりますが、
戦没者のご遺骨を祖国にお迎えする事業や、
ルバング島での小野田少尉捜索やベララベラ島の残留日本兵捜索など、
日本兵捜索などを行ってきました。
 
しかし、国庫補助金を給付されているとはいえ、
実際の活動資金は参加学生達がアルバイト等で捻出した費用と、
志ある企業や個人の皆様のご支援により賄っているのが現実です。
 
当時、欧米のアジア侵略から日本やアジア諸国を護るために散華された英霊たちを
祖国日本に帰国させるのは、日本という国家の責任、務めです。
 
以前にもガダルカナル島で遺骨の収集をした夏井さんを紹介した時に、
遺骨収集というのは周辺に残砲弾などがあり、非常に危険な場合もあります。
 
この危険な活動を民間人が行う。しかも活動資金が足りないために、
学生達がアルバイトで捻出した費用、つまり自腹でやらせるのです。
現在の日本で遺骨収集を行う主体はボランティアです。
日本という国の在り方はこれでよいのでしょうか。・・・・・・
 
帝国陸海軍が解体された後に復員省が出来ました。
それを管理したのが援護行政を行っていた厚労省です。
厚労省が遺骨収集をやっているのは「遺族や戦友の便宜を図るため」だけです。
そこには国家としての矜持が感じられません。
 
遺骨収集が戦後60年以上たった今も終わらずに、民間ボランティアに任せている。
国としての威信をかけてでもやるべきことを、
厚労省のようなところに委ねていてよいのだろうか。
砲弾処理も含めて、なぜ防衛省でないのか。
・・・・・・
 
昭和59年、
民間人も犠牲になったサイパンの遺骨収集に参加した赤木衛さんは衝撃を受けた。
密林を行くと、小さな遺骨とともに赤いランドセルを見つけ、
その中にはたくさんの教科書が入っていたそうです。
赤井さんはその赤いランドセルと小さな遺骨を麻袋に入れて山を下った。
「生きていたら自分の母親と同世代くらいだろう」、と思ったといいます。
 
この出来事が学生主体で遺骨収集に取り組むNPO法人「JYMA日本青年遺骨収集団」の理事長を務める赤木の活動の原点になったといいます。
 
「さまざまな思想の学生がいてよく意見も衝突したが、今のおれたちがあるのは、
一つしかない命を投げ出した戦没者のおかげという根っこは同じだった」
大学卒業後は活動から遠ざかったが、
平成6年に休止中だった団を再建し、学生たちをサポートしています。
 
13年以降の政府派遣は全額国庫負担ですが、
それまでは自己負担分をアルバイトや賛助者の支援だけでは賄いきれず、
寄付を募った企業からは怪しまれ、警察に通報されたこともあったという。
「でも、自分ではなく誰かのために働くという喜びがあった。
生きるということは命をつなぐことなんだと、収集を通して教えられた」と語ります。
 
旧戦地には、今も多くのご遺骨が残されています。
平成22年3月末の厚労省調べでは残っているご遺骨は次の通りです。
 
硫黄島には13,180
中部太平洋に174,350
ニューギニアに77,600
ソロモン諸島に62,390
フィリピンに375,770
ミャンマーに45,610
旧満州に206,000
ロシアに35,825
 
全戦没者240万に対して114万のご遺骨が残されたままです。
 
国に殉じた英霊たちが祖国に帰ることも出来ずに異国の地に眠る。
きっと、魂こそ靖国神社に帰ってきていると信じていますが、
その亡骸は今も異国の地で野ざらしのままです。・・・
 
赤木さんは訴える。
「本来は遺骨収集はとっくに終わっているはずのもの。
我々にとって最大の目的は収集そのものではなく、
後世にわたって戦没者をいかに慰霊、追悼していくかということなんです。
 
私達は戦歿者の犠牲の上に整えられた平和と繁栄を享受しています。
しかし私達はほんの65年前のことを忘れてしまってないでしょうか。
現在の安寧は、世界を相手取って戦った、南海の孤島や極寒のツンドラに眠る多くの戦歿者の犠牲を礎に成り立っている事を。
 
JYMA日本青年遺骨収集団は昭和42年、学生慰霊団として発足、
戦争の傷跡の残る外地に赴き日本軍玉砕地における慰霊活動を実施していた際、
”草むす屍”同然に遺骨が放置されている現状を憂い「学生遺骨収集団」を結成し、
その後広く一般青年層に呼びかける為に「日本青年遺骨収集団」と改称、
学生を中心とした非営利団体とし活動して参り、
平成十四年十月、特定非営利活動法人として認証された、今年で創団43年の団体です。
 
近年、民間の非営利団体は、福祉、環境、まちづくりなど幅広い領域で活躍し、
その重要性が広く認められております。
私どもは戦歿者遺骨収集活動を喫緊の課題として、
戦歿者慰霊を創団の精神として時代へ繋ぐため、
加えて諸外国との親善活動を推進しております。
 
慰霊の前衛を担ってきた戦友や遺族らが遍く慰霊を担ってきましたが、
先輩世代の衰徴により、今、世界各地でそれらの祭祀が主を失っています。
 
先の大戦では世界各地で多くの日本人が亡くなり、
その多くは増援を送ること叶わず戦略的に見捨ててしまった人達です。
戦争の史実、多くの人の出血と涙に無関心を決め込むような事になれば、
英霊達を更に見捨てる事になり、そうなれば、もはや日本は文化的な国家の資格がない
と考えますし、その成員としての我々青年世代の矜持さえも後世からそしられましょう。
 
諸外国に例を引くなら、これらは公の力により、
国家の加護の下に置かれて然るべきなのでしょうが、
先の大戦を冷静に評価する思考を停止してしまった世代や、国に任せようとばかりせず、
青年世代が、先輩世代の残した慰霊の灯火を継承し、
願わくば我々がその核となっていこうというのが、私達の志でもあります。
 
この事業に参加する青年達は、行政のフットワークでは出来ない仕事や、
利潤追求を原則とする企業活動には及ばない事業を手がけて参る所存です。
私どもの活動にご賛同とご支援を賜り、
新たな仲間が事業へ参画してくださる事を切望いたしております」
 
また、赤井さんはこうも言う。
「日本全国に軍の師団は置かれていました。
自分の故郷の先輩達です。
その先輩達の遺骨すべてを故郷にお連れする。
地域ごとに出来るはずではないか」
 
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

親日感情が強いウズベキスタン。
それは我々日本人の先人たちの血と汗と、日本人としての誇りのおかげなのです。・・・・・
 
大東亜戦争の終戦時、
60万人以上の日本人がシベリアに抑留され強制労働に服しました。
そのうちウズベキスタンに強制移送された25千人の日本人のうち、約800人以上が帰国することが出来ずに異国の地で亡くなりました。
その多くは水力発電所や運河、道路などの建設にあたりました。
 
中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、
今も国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会いました。
この人は、まじめに懸命に汗を流していた日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったといいます。
捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者たちは当時の地元民に心から敬意を表されたという。
 
また、現地の人はボロボロになった日本兵に「絶対に帰れる」と励ましたといいます。
ある少年はソ連警備兵の目を盗んでこっそりと収容所の隙間から日本人捕虜の傷だらけの手に黒パンや果物を握らせたという。
彼ら少年も生きるのが大変な時期だったはずです。
しかし次の日にはそこに粗末な温かみのある日本兵の手造りのおもちゃが置いてあったという。
 
 
ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇場は、レンガ造りの三階建て観客席1400の建物で市の中心の代表建造物として今もその威容を誇っています。
これは約500人の日本人抑留者が2年がかりで建設した遺産です。
レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行いました。
抑留兵士の中にいた建築技術者がこの国に地震が多い事を知り、丁寧に手を抜かずに造ったといいます。
 
66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際、この劇場はビクともせず、
「日本人の建物は堅固だ」
「日本人の建築技術は高い」という評価を得ました。
 
この劇場正面には
1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した
とウズベク語、日本語、英語で表記されています。
これはカリモフ大統領が
「決して日本人捕虜と表記するな。 日本とウズベキスタンは一度も戦争していない」
と厳命したといいます。
 
1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めたウズベキスタンは、カリモフ大統領をはじめに
日本の明治維新や戦後復興をモデルとして「日本に見習え」を合言葉にしました。
 
2万人の抑留者のうち800人以上が現地で死亡し、そのまま土をかぶせられた土まんじゅうでした。
見捨てられたままのその土まんじゅうの墓は荒れ放題となっていました。
しかし元抑留者たちが中心となって募金活動を行いウズベキスタン政府の協力も得て、
その後、日本人墓地が整備されました。
 
日本からは「日本に帰ってもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった日本兵たちのために
サクラの苗木千三百本が送られました。
 
・・・・・・ 
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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