■明治国家を滑走させた伊藤博文
民主党政権が最初に迷走した一因は、国家の意思決定システムを躍動する生き物として捉えられなかったことにある。首相や政権与党という機関を身にまとう前から、ロクな診察もせずに手術内容を決定していた。国家戦略局や閣僚委員会の設置、事務次官会議や党政調会の廃止、政務三役の超過労働などだ。案の定、人工的な切除や移植で人体に拒否反応が続出した。
他方、帝国主義の時代にあって、欧米列強の植民地とされず明治国家を滑走させたのは伊藤博文だった。そこに生命を吹き込んだのである。伊藤と言えば、1889年の明治憲法の制定における功績が良く知られる。だが、それ以前の1885年に内閣制度を創設して初代首相に就任し、明治憲法の制定に向け意思決定システムに道筋をつけたことは重要だ。
それを理解する前に、まず明治国家が生存する条件を知らねばならない。その必要条件は、軍事力と財政基盤である。「富国強兵」という国家目標は、それを端的に表す。だが、両者を確立するには、安定した意思決定システムという十分条件が不可欠だ。
では、安定した意思決定システムの問題となったものは何か。江戸幕府を軍事力で凌駕し「権力」を手中に収めても、それが「権威」に裏付けられなければ正統性は得られない。そこで明治国家が持ち出したのが、江戸幕府(将軍)の権力が蔑にしたと批判してきた、朝廷(天皇)の権威だった。
しかし、「錦の御旗」で誕生した明治国家は、これで攪乱要因を抱えてしまう。天皇の権威が強すぎるあまり、権力の形成に制約が付けられたのだ。指導力を発揮すべく強い権力を形成しようとすれば、必ず「幕府的存在」の再来と糾弾される。
このことは、明治国家を滑走させる際にも、明治国家を破綻させた太平洋戦争の際にも、最大の障害となった。伊藤はこのことを、的確に理解していた。というより、理解せざるを得なかったといった方が正確かもしれない。
■西南戦争と「維新の三傑」後
もう1つ、具体的に問題となったものがある。明治国家内部の「権力の配置」だ。藩閥グループは、軍事力によって最初に権力を掌握した。薩摩では大久保利通、黒田清隆、長州では木戸孝允、山県有朋、伊藤など。だが、たかだか西南日本の2藩による権力の独占には、様々な勢力から正統性に疑問が投げかけられた。
まず、明治天皇と側近たちの宮中グループである。時に岩倉具視も加わった。権威だけ与えて権力を掌握されたのでは江戸幕府と変わらない。若き明治天皇は自分が操り人形なのかと訝り、これに乗じた佐々木高行、元田永孚ら側近は「天皇親政運動」を展開した。一方、板垣退助、後藤象二郎らの民権派グループは、「有司専制批判」を掲げ国会開設を主張した。
要は、2つのグループとも、「幕府的存在」批判を持ち出して権力の分け前を求めているのだ。今でも、権力の分け前や保持を求め「独裁」批判を持ち出す政治家は後を絶たない。
権力の配置をさらに複雑にしたのが、1877年の西南戦争である。戦争終結で西郷隆盛ら士族層グループを鎮圧すると、国内軍事力の絶対的優位が確立した。だが、開戦直前、士族層グループが農民一揆と連動することを阻止するため、地租負担を3%から2.5%へと大幅に軽減していた。
この17%の地租減税と莫大な戦費とが相まって、財政基盤に暗い影を落とした。明治国家は、天皇の「権威」の扱いと具体的な「権力の配置」をめぐり、深刻な混乱に直面していた訳である。
以上の混乱は、初期の明治国家を支えてきた木戸、西郷、大久保の「維新の三傑」が、それぞれ病死、自決、暗殺と、西南戦争から僅か1年ほどで相次ぎ他界したことが背景にあった。この「維新の三傑」後の時代に、突如として矢面に立たされたのが伊藤だった。
「斯くの如き威望の大臣(注:内務卿であった大久保)を失ひ候以上は・・・万一国家の禍乱是より生じ候・・・容易ならず」。
伊藤が記した書簡からは、言いようもない不安が伝わってくる。深刻な混乱を重ね、生存すらままならぬ明治国家に、新しいリーダーとして安定した意思決定システムを築かねばならない。弱冠37才の伊藤にとって、不安に苛まれるのは無理もない。
■財政論争を巡る混乱
西南戦争は、ただでさえ窮乏する明治国家の財政基盤を揺るがした。戦争翌年の国家予算6094万円の2/3に相当する戦費4157万円分が不換紙幣の発行と岩倉の借入で賄われ、基幹税収たる地租は開戦直前の減税で1000万円の減収となった。経済統計の未整備で酒税・タバコ税など間接税は脆弱であり、江戸幕府が締結した不平等条約で自主権がない関税の収入割合は3%だった。
単純計算で3年後の財政赤字は7200万円に上ると予想され、国際収支の赤字、悪性インフレ、米価高騰で悪循環に陥った。そして、これらの戦後処理として激しい財政論争が巻き起こった。
黒田や大隈重信は、5000万円の外債募集案を提起して積極財政による殖産興業路線の継続を主張した。だが、明治天皇ら宮中グループは、外債募集が欧米列強による植民地化につながるとして強硬に反対する。
そこで、黒田は岩倉と地租1/4分の米納案を提起した。米価高騰のなかでは1050万円の増収だ。だが、地方豪農層を利益集団に持つ民権派グループは、実質的な地租増税案に強く反発する。
結局、伊藤や井上馨の提起により、歳出削減で400万円、間接税の増収400万円などの健全財政路線が採用された。積極財政による殖産興業路線は転換され、世にも過酷な「松方デフレ」政策が始まった。
3年間で2775万円の不換紙幣が整理され、土木費はゼロシーリングが続いた。この結果、デフレ恐慌で企業倒産や出稼ぎが相次ぎ、米価は下落し地方豪農層には激しい不満が鬱積した。一方で、インフレの安定と財政基盤の確立がもたらされ、円安と輸出促進による外貨獲得という好循環を迎えた。
しかし、財政論争で浮き彫りとなったのは、「維新の三傑」後における意思決定の深刻な混乱だ。なかでも宮中グループは、たびたび政治介入して意思決定を覆した。自分たちの意思反映や情報が不十分と見るや、明治天皇は「御不快ノ御気色」であり、「議事サヘモ御決定ハムツカシク」と藩閥グループを威嚇した。
この混乱は、宮中グループの「天皇親政運動」だけに帰するものではない。当時の意思決定システム自体に、構造的な問題が根差していたのだ。
■太政官制というシステムの機能不全
意思決定の機能不全は、明治国家が採用していた律令制以来の太政官制にあった。朝廷の「権威」を前面に出したシステムである(図1)。
繰り返し変遷していったが、大体、天皇の下に太政大臣(三条実美)、次いで左大臣(有栖川宮)・右大臣(岩倉)が存在し、その下に藩閥グループからなる参議、そして省卿が位置した。大体、参議は国務大臣、省卿は行政長官といったところだ。
三条や有栖川宮に政権担当能力はない。宮中グループが多かった省卿は、最高意思決定機関たる「内閣」に参議と同列で参加し藩閥グループに攻勢をかけた。加えて、維新時に15才だった明治天皇は青年となって政治的に覚醒した。「操り人形」となることを警戒し、「内閣」臨御は1880年で120回を数えていた。
貴族出身では例外的な政治能力を備えた岩倉は、ここに目をつけた。宮中グループが多数派の省卿に「内閣」の議事を紛糾させ、最後は示し合わせている明治天皇の「勅諭」で意思決定する。外債募集案の却下はこの策で実現した。
たまらず伊藤は参議・省卿の分離案や兼任案を打ち出すが、佐々木から「二藩にいよいよ権力を与へるの政略と、天下の人心益々疑惑を来せり」との批判を浴び、元に戻された。宮中制度に手を付けようとすれば、岩倉から猛反発された。
意思決定は暗礁に乗り上げていた。安定したシステムを築くには、宮中制度も射程に入れた太政官制の改革が不可避だった。要は、「権威」と「権力」の棲み分けである。だが、「権力」を奪われる側の明治天皇と宮中グループ、手強い右大臣たる岩倉を説得できなければ、伊藤の展望は開けない。
苦境に立つ伊藤は、太政官制から合理的な内閣制度への改革に乗り出した。突破口は、藩閥グループの結束である。岩倉の米納案の阻止は、この結束の賜物だ。だが最大の突破口は、「権威」の頂点たる明治天皇である。
結論を先取りすれば、明治天皇の「内閣」臨御は、内閣制度が発足した1885年で20回ほど、憲法制定後は年1回あるかないかに激減した。伊藤は、明治天皇の信頼を勝ち取ったのだ。その事態打開の契機こそ、「明治14年政変」の発生だった。
■変更履歴
3ページ本文中「若干」は「弱冠」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。[2012/1/30 9:40]