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転載:山崎淑子氏ブログ「生き抜く」ジャーナル
 
 
【代表Column】 秘密保全法批判 まとめ
処罰範囲を不明確かつ広範にする、曖昧かつ広範な「特別秘密」の概念が、ジャーナリズムを縛る。
福島原発事故直後、放射性物質の飛散情報を隠し、多くくの人が被ばくしたが 「公共の安全と秩序の維持」が秘密の対象になれば、あらたな大なり小なりの原発事故情報の取材が違法行為となりかねない。
また、共謀行為の処罰、他人のなりすましなどによる誤認逮捕など、『911以後の愛国者法』で冤罪が多発した人権侵害『自由の国』アメリカの二の舞になる。
2012/2/1   【川崎泰彦 記】
 
 
 
 
 
 
「坂の上の雲」への脚本家野沢尚氏の思い
 
3年をかけて年末にNHKで放送されてきた「坂の上の雲」は、いよいよ25日に最終回を迎えます。
その脚本を書かれていた野沢尚さんは、7年前の2004年6月28日に自死されました。
作品も最後の部分は未完成でしたが、氏の尊敬する先輩である池端俊作氏に後を託すメッセージを遺していたようです。
「坂の上の雲」自体には余り興味はなかったのですが、今年が完結編となるので、視聴させて頂いていますが、野沢氏はどのような思いで作品を書かれていたのかを最近知りました。
以下、野沢尚公式ブログ様より。
 
 
 
 脚本家のことば             野沢 尚

 戦地に赴く心境だ。
 秋山好古にとってコサック騎兵隊と相まみえる満州(現・中国東北地方)の大地がそうであったように、秋山真之にとってバルチック艦隊と激突する日本海がそうであったように
 100年前の日本を描くこれからの大仕事は、男女の情念や、血なまぐさい犯罪といった現代劇ばかりを書いてきた私にとって「未知なる戦場」である。
 私はこれまで60本以上の脚本や小説を書いてきたが、どんなジャンルであっても「日本の今」と「そんな国にいる自分」を分析し、未来を祈ってきたつもりである。
 現在は過去によって導かれる。ならば近代日本を辿ることは、今を検証し、未来への祈りにつながるはずだ

 明治維新によって日本は劇的に解体し、情熱を抱いた「書生たち」の手作りによって国家は再構築された。
 司馬さんの言葉を借りれば、「この長い物語は日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語」である。
 わずか35年の人生を駆け抜けた正岡子規でさえ、病床にあっても精神のフットワークは軽く、陽気な生き方を貫いた。
 それは、社会のどういう階層の子供であっても、ある資格を得るための必要な記憶力と根気があれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなり得た時代だった。そして資格を取れば、いきなり国家の重要な部分をまかされる。素姓の定かでない庶民であっても、神話に登場する神々のような力を持たされ、国家のエンジンとなった。
 政府も小世帯、陸海軍も小さい。まるで町工場のような小さな国家の中で、彼らは部分部分の義務と権利を与えられ、「よし、頑張ってやろう」と意気に感じて働き、この弱小チームを強くするというただひとつの目的に向かって突き進んだ。
 明治の明るさはこの楽天主義からきていると、司馬さんは分析する。
 坂の上にかかる雲とは、ひたすら険しい坂道を登る彼らが、ようやく彼方に見た「希望」を象徴している。
 が、同時に、それは日本の未来にたちこめる暗雲でもあった。
 太平洋戦争に敗北したのは、日露戦争からわずか40年後である。
 勝利が国民を狂気に駆り立て、敗戦が国民に理性を与える。戦争の勝敗とは本当に不思議なものだと、司馬さんと同様に、私も思う。

 この物語には、研ぎ澄まされた豪傑な軍人たちと、想像力に溢れた政治家たちが登場する。
 現代日本が最も欲しているリーダーの姿である。「坂の上の雲」が日本の経営者たちの愛読書であることは、なるほどと頷ける。
 が、どんな優れた政治家や戦略家がトップにいても、戦争の最前線は苛烈を極める。凍てついた戦場にはおびただしい流血。山を埋めつくす死屍累々は腐臭を放つ。
 司馬さんの原作に私が付加できるものがあるとすれば、前述した楽天主義とは無縁の、困窮を極めた農村から徴兵された者たち――「名もなき兵士たち」が体感する、戦場での恐怖だ。
 私の視点はその時、当時の満州(現・中国東北地方)の大地すれすれにあるだろう。
 つまりスピルバーグの「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザース」でも描かれた戦場のリアリズムである。
 その片鱗を探るため、この2月、厳寒の203高地に立ち、想像力を傾けてこようと思う。

 私はこの物語を、私の子供たちに伝えたい。
 過去から託された日本という国を、子供たちの未来に橋渡しする役目を、「坂の上の雲」の脚色という形でまかされたのだと思う
 司馬さんにとって40代の10年間を費やした小説だったように、私も40代の代表作にするべく、全精力を傾けるつもりだ。
 
 
 
 
 
私が、野沢氏の存在を初めて知ったのは、1988年に日本テレビで放送された「喝采」(桃井かおりさん・小林桂樹さん主演、阿久悠さん原作)でした。今は売れなくなった演歌歌手の桃井さんとマネージャーの小林さんが、再起を果たすまでを描く2時間の単発ドラマでしたが、セリフに無駄がなく、話の展開も見事で、また、ドラマのために作られた歌も素晴らしく、録画して何十回観てもその度に感動してしまいました。
 
当時、カミサンはシナリオ教室に通っていたのですが、野沢氏の才能に驚いて思わずファンレターを送ってしまいました。すると、思いがけず、何日か後に氏から返事を頂いてビックリしていましたが、その後も氏の作品を観る度に感想を送り、また、氏から、お子さんに、と仕事の為使ったと思われるマンガをプレゼントして頂いたこともありました。
 
その後、スティーブン・キングが大好きな氏は、本来書きたかったミステリー物の分野へ進み、次々とヒット作を発表して有名になって行かれました。私たち夫婦は、余りミステリー物は好きでなかったので、氏の作品から次第に遠ざかっていってしまいました。しかし、すっかり大家となってからも氏は、年賀状を毎年下さり、本当にファンを大切にする、真面目な方だったと思います。
 
自死されたというニュースを聞いた時は驚きましたが、当時、氏は、「坂の上の雲」と並行して、小説を含め、いくつかの作品を書かれていたようです。いまだに自死された理由ははっきりとわかりませんが、仕事が予定通り進まなくなったことが原因では、という方もいます。やはり、「坂の上の雲」が重圧だったのかも知れません。かつて、倉本聡さんが、NHKの大河の仕事をされた時、局側が勝手に内容を変えてしまうのに抗議して、途中で降りてしまったことがありましたが、野沢氏の場合はどうだったのか・・・。
 
 
>司馬さんの原作に私が付加できるものがあるとすれば、前述した楽天主義とは無縁の、困窮を極めた農村から徴兵された者たち――「名もなき兵士たち」が体感する、戦場での恐怖だ。
 
私は「坂の上の雲」を観ながらも、その筋書きやセリフには殆ど興味がありませんでした。ただ、画面に延々と展開される凄惨な戦闘シーンで次々血を流し、死んでいく兵士たちを見続けました。野沢氏の文章を拝見して、やはり、氏の思いもそこにあったのだと知り、嬉しいです。
 
203高地」の回の最後で、日本軍が何とか勝利し、旅順港へ向けて大々的に砲撃を始めますが、その中を幼児を背負った現地のおかあさんが逃げ惑う場面がありました。
決して、単にナショナリズムを煽るドラマではないことを象徴するシーンのように私には見えました。今のような困難な時代にこそ、野沢氏の作品を是非観たいと思いますが、やはり、すべて覚悟の上の行動だったのでしょう。
 
 
 
改めて、野沢氏のご冥福をお祈りいたします。


イメージ 2
野沢尚さん
 
イメージ 1

転載元転載元: 無心

阿修羅:
 
 
日本人しか買わないタミフル… 山崎淑子の生き抜くジャーナルより (武山祐三の日記)
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/501.html
投稿者 明るい憂国の士 日時 2012 年 1 月 29 日 18:01:05: qr553ZDJ.dzsc

http://www.asyura.us/peterimg/1018.gif

http://takeyama-y.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-62ef.html
2012年1月29日 (日)

日本人しか買わないタミフル…山崎淑子の生き抜くジャーナルより


http://enzai.9-11.jp/?p=10196


 私はこの事をこのブログで何度書いたことでしょうか。それほどたびたび警告してきましたし、情報も広めてきた積りです。しかし、マスゴミにはかないません。


 ───────────────────

(転載開始)

http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/7120.jpg

山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル!
http://enzai.9-11.jp/?p=10196

【日本しか買わない「タミフル」という薬】これまでにタミフルを服用した計3200万人のうち、日本人は2400万人。日本が世界の8割以上を占めている。薬の備蓄をはくためにインフルエンザが流行ることを期待している?:治療薬『タミフル』の利権・・・税金→タミフル備蓄費用→製造元スイス製薬大手ロシュ社は特許料をギリアド社へ支払い→1997〜2001年、ラムズフェルド国防長官はギリアド社の会長だった。2012/1/14 LEGACY OF ASHESなどより
【首相の権力〜この国はどう決断してきたのか】:民主党政権の迷走、伊藤博文の滑走 
 
 ★明治国家の確立と時限爆弾(前編)
 
 1月24日、第180回通常国会が召集された。首相の野田佳彦は施政方針演説を「決断する政治」で切り出し、そして締めくくった。東日本大震災からの復興、税・社会保障の一体改革、TPP交渉と、目の前には日本の将来を左右する喫緊の難題が横たわっている。にもかかわらず、この国では決められない政治が続いている。
 問題の所在は政策以前にある。国家の基本的な意思決定すら果たせない現状だ。1990年代の冷戦終結・バブル崩壊から、戦後国家を長く支えてきた自民党政権は動揺し、2009年に歴史的な政権交代が実現した。だが、漠然と期待を集めた民主党政権は迷走を続け、日本政治の閉塞感は高まっている。民主党の政権担当能力、そして指導者の資質欠如といった要因もたしかにあろう。しかしそれだけなのだろうか。
 イギリスの哲学者トマス・ホッブズは、幻獣「リヴァイアサン」たる国家を人体になぞらえた。諸々の機関と国民との運命共同体である国家は、さながら生き物のようだ。常に激しい時代の変化に晒される国家は、その巨大な体躯の生存を図るべく多岐にわたる意思を決定する。であるならば、時代の変化に対応し続ける「意思決定システム」こそ生き物と呼ぶにふさわしい。
 そして、時代に応じてシステムに生命を吹き込んでいく責任を負っているのが、国家意思の最高決定権者である首相にほかならない。このシステムの機能不全を考えず、近年の首相の資質や政策を議論するだけでは閉塞感は打破できない。
 突破する鍵は日本政治における意思決定システムの歴史の中にある。世界でも異例だった自民党の長期政権は、強力かつ固定的な意思決定のルーティン化をもたらした。そこに過去を振り返る必要はなかった。システムが破綻したのであれば、それ以前の歴史から現在まで鳥瞰して様々な示唆を得ていくことが、将来の有効な鍵となるのではないか。
 この連載は、初代伊藤博文から現在まで、日本の首相が激しい時代の変化に晒されながら熾烈な権力闘争をくぐり抜け、自らが指導力を発揮できる意思決定システムを築かんともがいてきた様を描くものである。
 明治国家を築いた元老たちや戦後国家を復興した吉田茂を英雄視し、悲劇的な戦争を招いた東條英機や迷走を続ける近年の首相を断罪するだけでは、日本政治は前に進めないのではないか。彼らと意思決定システムとの葛藤の歴史に、ただ示唆を請うのみである。
 ■明治国家を滑走させた伊藤博文
 民主党政権が最初に迷走した一因は、国家の意思決定システムを躍動する生き物として捉えられなかったことにある。首相や政権与党という機関を身にまとう前から、ロクな診察もせずに手術内容を決定していた。国家戦略局や閣僚委員会の設置、事務次官会議や党政調会の廃止、政務三役の超過労働などだ。案の定、人工的な切除や移植で人体に拒否反応が続出した。
 他方、帝国主義の時代にあって、欧米列強の植民地とされず明治国家を滑走させたのは伊藤博文だった。そこに生命を吹き込んだのである。伊藤と言えば、1889年の明治憲法の制定における功績が良く知られる。だが、それ以前の1885年に内閣制度を創設して初代首相に就任し、明治憲法の制定に向け意思決定システムに道筋をつけたことは重要だ。
 それを理解する前に、まず明治国家が生存する条件を知らねばならない。その必要条件は、軍事力と財政基盤である。「富国強兵」という国家目標は、それを端的に表す。だが、両者を確立するには、安定した意思決定システムという十分条件が不可欠だ。
 では、安定した意思決定システムの問題となったものは何か。江戸幕府を軍事力で凌駕し「権力」を手中に収めても、それが「権威」に裏付けられなければ正統性は得られない。そこで明治国家が持ち出したのが、江戸幕府(将軍)の権力が蔑にしたと批判してきた、朝廷(天皇)の権威だった。
 しかし、「錦の御旗」で誕生した明治国家は、これで攪乱要因を抱えてしまう。天皇の権威が強すぎるあまり、権力の形成に制約が付けられたのだ。指導力を発揮すべく強い権力を形成しようとすれば、必ず「幕府的存在」の再来と糾弾される。
 このことは、明治国家を滑走させる際にも、明治国家を破綻させた太平洋戦争の際にも、最大の障害となった。伊藤はこのことを、的確に理解していた。というより、理解せざるを得なかったといった方が正確かもしれない。
 ■西南戦争と「維新の三傑」後
 もう1つ、具体的に問題となったものがある。明治国家内部の「権力の配置」だ。藩閥グループは、軍事力によって最初に権力を掌握した。薩摩では大久保利通、黒田清隆、長州では木戸孝允、山県有朋、伊藤など。だが、たかだか西南日本の2藩による権力の独占には、様々な勢力から正統性に疑問が投げかけられた。
 まず、明治天皇と側近たちの宮中グループである。時に岩倉具視も加わった。権威だけ与えて権力を掌握されたのでは江戸幕府と変わらない。若き明治天皇は自分が操り人形なのかと訝り、これに乗じた佐々木高行、元田永孚ら側近は「天皇親政運動」を展開した。一方、板垣退助、後藤象二郎らの民権派グループは、「有司専制批判」を掲げ国会開設を主張した。
 要は、2つのグループとも、「幕府的存在」批判を持ち出して権力の分け前を求めているのだ。今でも、権力の分け前や保持を求め「独裁」批判を持ち出す政治家は後を絶たない。
 権力の配置をさらに複雑にしたのが、1877年の西南戦争である。戦争終結で西郷隆盛ら士族層グループを鎮圧すると、国内軍事力の絶対的優位が確立した。だが、開戦直前、士族層グループが農民一揆と連動することを阻止するため、地租負担を3%から2.5%へと大幅に軽減していた。
 この17%の地租減税と莫大な戦費とが相まって、財政基盤に暗い影を落とした。明治国家は、天皇の「権威」の扱いと具体的な「権力の配置」をめぐり、深刻な混乱に直面していた訳である。
 以上の混乱は、初期の明治国家を支えてきた木戸、西郷、大久保の「維新の三傑」が、それぞれ病死、自決、暗殺と、西南戦争から僅か1年ほどで相次ぎ他界したことが背景にあった。この「維新の三傑」後の時代に、突如として矢面に立たされたのが伊藤だった。
 「斯くの如き威望の大臣(注:内務卿であった大久保)を失ひ候以上は・・・万一国家の禍乱是より生じ候・・・容易ならず」。
 伊藤が記した書簡からは、言いようもない不安が伝わってくる。深刻な混乱を重ね、生存すらままならぬ明治国家に、新しいリーダーとして安定した意思決定システムを築かねばならない。弱冠37才の伊藤にとって、不安に苛まれるのは無理もない。
 ■財政論争を巡る混乱
 西南戦争は、ただでさえ窮乏する明治国家の財政基盤を揺るがした。戦争翌年の国家予算6094万円の2/3に相当する戦費4157万円分が不換紙幣の発行と岩倉の借入で賄われ、基幹税収たる地租は開戦直前の減税で1000万円の減収となった。経済統計の未整備で酒税・タバコ税など間接税は脆弱であり、江戸幕府が締結した不平等条約で自主権がない関税の収入割合は3%だった。
 単純計算で3年後の財政赤字は7200万円に上ると予想され、国際収支の赤字、悪性インフレ、米価高騰で悪循環に陥った。そして、これらの戦後処理として激しい財政論争が巻き起こった。
 黒田や大隈重信は、5000万円の外債募集案を提起して積極財政による殖産興業路線の継続を主張した。だが、明治天皇ら宮中グループは、外債募集が欧米列強による植民地化につながるとして強硬に反対する。
 そこで、黒田は岩倉と地租1/4分の米納案を提起した。米価高騰のなかでは1050万円の増収だ。だが、地方豪農層を利益集団に持つ民権派グループは、実質的な地租増税案に強く反発する。
 結局、伊藤や井上馨の提起により、歳出削減で400万円、間接税の増収400万円などの健全財政路線が採用された。積極財政による殖産興業路線は転換され、世にも過酷な「松方デフレ」政策が始まった。
 3年間で2775万円の不換紙幣が整理され、土木費はゼロシーリングが続いた。この結果、デフレ恐慌で企業倒産や出稼ぎが相次ぎ、米価は下落し地方豪農層には激しい不満が鬱積した。一方で、インフレの安定と財政基盤の確立がもたらされ、円安と輸出促進による外貨獲得という好循環を迎えた。
 しかし、財政論争で浮き彫りとなったのは、「維新の三傑」後における意思決定の深刻な混乱だ。なかでも宮中グループは、たびたび政治介入して意思決定を覆した。自分たちの意思反映や情報が不十分と見るや、明治天皇は「御不快ノ御気色」であり、「議事サヘモ御決定ハムツカシク」と藩閥グループを威嚇した。
 この混乱は、宮中グループの「天皇親政運動」だけに帰するものではない。当時の意思決定システム自体に、構造的な問題が根差していたのだ。
 ■太政官制というシステムの機能不全
 意思決定の機能不全は、明治国家が採用していた律令制以来の太政官制にあった。朝廷の「権威」を前面に出したシステムである(図1)。
 繰り返し変遷していったが、大体、天皇の下に太政大臣(三条実美)、次いで左大臣(有栖川宮)・右大臣(岩倉)が存在し、その下に藩閥グループからなる参議、そして省卿が位置した。大体、参議は国務大臣、省卿は行政長官といったところだ。
 三条や有栖川宮に政権担当能力はない。宮中グループが多かった省卿は、最高意思決定機関たる「内閣」に参議と同列で参加し藩閥グループに攻勢をかけた。加えて、維新時に15才だった明治天皇は青年となって政治的に覚醒した。「操り人形」となることを警戒し、「内閣」臨御は1880年で120回を数えていた。
 貴族出身では例外的な政治能力を備えた岩倉は、ここに目をつけた。宮中グループが多数派の省卿に「内閣」の議事を紛糾させ、最後は示し合わせている明治天皇の「勅諭」で意思決定する。外債募集案の却下はこの策で実現した。
 たまらず伊藤は参議・省卿の分離案や兼任案を打ち出すが、佐々木から「二藩にいよいよ権力を与へるの政略と、天下の人心益々疑惑を来せり」との批判を浴び、元に戻された。宮中制度に手を付けようとすれば、岩倉から猛反発された。
 意思決定は暗礁に乗り上げていた。安定したシステムを築くには、宮中制度も射程に入れた太政官制の改革が不可避だった。要は、「権威」と「権力」の棲み分けである。だが、「権力」を奪われる側の明治天皇と宮中グループ、手強い右大臣たる岩倉を説得できなければ、伊藤の展望は開けない。
 苦境に立つ伊藤は、太政官制から合理的な内閣制度への改革に乗り出した。突破口は、藩閥グループの結束である。岩倉の米納案の阻止は、この結束の賜物だ。だが最大の突破口は、「権威」の頂点たる明治天皇である。
 結論を先取りすれば、明治天皇の「内閣」臨御は、内閣制度が発足した1885年で20回ほど、憲法制定後は年1回あるかないかに激減した。伊藤は、明治天皇の信頼を勝ち取ったのだ。その事態打開の契機こそ、「明治14年政変」の発生だった。
(敬称略、次回に続く)
■変更履歴
3ページ本文中「若干」は「弱冠」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。[2012/1/30 9:40]
 日経ビジネス 主要ニュース 経営・マネジメント   【担当:村井 哲也】  2012年01月30日 03:37:00 これは参考資料です。 転載等各自で判断下さい。

転載元転載元: 甘露寺喜八郎の時事探求! 『漂流日本、羅針盤はどこに・・・・?

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