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こんにちは、ゲストさん
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安冨歩(東京大学 東洋文化研究所 教授)
投票率が五割を切った参院選は、日本という国民国家の構造的劣化のひとつの表現であった。そのなかでその構造的危機からの離脱の方向性を示したのが、「れいわ新選組」という現象であった。
この現象は、いったいなんなのか、これからどうなるか、に多くの人が関心を示しており、メディアにも、さまざまな論評が出始めている。私にはそれは概ね、的外れと思えるので、この現象に参加した私の見解を提示しておきたい。
もちろん、これは私自身の見解であり、山本太郎氏の見解とも異なっているはずであり、ましてや、れいわ新選組を代表するものでは決してない。そもそも、この文書は、れいわ新選組関係者の誰にも見せずに、公開している。
まず、私がなぜ今回の参院選の候補者となったのか、を記しておきたい。もともと私は、原発危機以降の山本太郎氏の行動に深い関心を示し、その政治行動に注目していたが、とはいえ、彼の支持者というわけでもなかった。三年前、2016年の参院選で、三宅洋平氏の「選挙フェス」が行われ、どういう経緯でそうなったのか覚えていないのだが、応援演説をすることになった。そのときに、山本太郎氏も来られて、ご挨拶して握手した覚えがあるが、会ったのはこれっきりだし、それ以外でコンタクトしたこともなかった。
東松山市長選挙のときに、阿部ともこ議員に応援していただくことになり、ご挨拶がてら衆議院議員会館で行われた会合に参加したところ、山本太郎事務所の方とお会いして、選挙の応援に来てくださるかも、という話になり、「芸能活動みたいな選挙をやるので、芸能人として来てくださったら嬉しいなぁ」と申し上げたのだが、それはさすがに意味不明だったらしく、お越しにならなかった。どうせこういうことになるなら、政治家としてでいいから、来てもらえばよかった、と後悔している。
さて、2019年の6月14日になって、突然、山本氏からメールが来て、「政策について意見を聞きたい」というお話であった。私は、東松山の家を引き払って、長野県の山奥に引っ越すことにしていて、その作業の最中であったが、氏が新しい政治集団を立ち上げることは知っていたので、それはぜひお会いしましょう、とお返事して、可能な日程をお送りした。
そうしたら、16日になって、どうしても日程調整がつかない、というお返事があり、その電子メールに「実は」ということで、夏の選挙、候補者として擁立させてもらえないか、という趣旨のことが書かれていた。
その段階では私は、そもそも参院選がいつあるか、さえ知らなかったので、それが7月4日になりそうだと聞いてびっくりするとともに、とりあえず話を聞かないとどうしようもないので、18日に時間を作って、山本氏とお会いした。
そこで、私の基本的な考えをお話した。私は、現代という時代を、明治維新によって成立した日本の「国民国家」システムの緩慢な解体期として理解している。このシステムは、イギリスで生まれた資本制生産システムと、フランスで生まれた国民軍が中心となっており、その両者を統合しつつ機能させるために、学校教育、市民的自由、議会制民主主義などが成立した、と考えている。この国民国家の政治的指導原理はそれゆえ、「富国強兵」ということになる。この原理は「経済成長」というように言い換えられて今も生きており、安倍政権は「富国強兵」を露骨に再生しようとしている。
しかしこのシステムは色々な意味で機能しなくなっており、現代の諸問題、たとえば累積する国債、中央銀行の膨張、年金・医療制度の破綻、学校の機能不全、政治不信と投票率の低下、経済の不振、少子化などなど、というものは、この国民国家システムそのものの衰退の表現として統一的に理解せねばならない。
とはいえ、それらを人間の理性によって、合理的計画的に運営する、という方策は、二十世紀の社会主義という悲惨な実験によって、機能しないことが証明されてしまった。それゆえ、いったいどうしたらいいかわからない、というのが現在の状況だ、と見ている。
これに対する私の回答は、「子どもを守る」である。アリの社会でも、ハチの社会でも、その目標というか、その運営の原理は、子どもを守る、ということであって、そうでなければ彼らはとっくに滅んでいたはずである。それは人類も同じであり、人類社会の目標にして原理は、子どもを守る、であったはずなのだ。そのことを忘れ、大人が、大人による、大人のための、大人の政治を行い、大人の間の利益配分を争っていることが、そもそもの間違いなのだ、と私は考えている。
それゆえ、「富国強兵から、子どもを守る、へ」ということが、その回答となる。具体的な政策や制度の問題は、この原理の転換を行わない限り、さほど意味はない、と私は考えている。すべての子どもにお腹いっぱいご飯を食べさせ、安心して寝るところを用意し、親からも教師からも誰からも脅かされない状態を何としても作らねばならない。すべての話はその後にすべきである。
それゆえ、私は、れいわ新選組が考えている政策にも、特に反対はしない。まぁ、政策なんかどっちでもいい、と思うからだ。とはいえ、全体の方向性として、安倍政権・自民党の目指す富国強兵路線には完全に反対であり、既存の政党よりも、れいわ新選組が、「子どもを守る」という方向性に近いと考える。
だいたい、このようなことをお話しした。そのうえで、こんな考えの者を候補者として擁立していいのか、と山本氏に聞いたのである。氏はこの政治原理の転換の必要性に共鳴してくださった。少なくともそのように私には思えた。そして氏は、もし私が個々の政策に反対であれば、反対だと言ってくれて構わない、とまで仰った。
また、なぜ一度しか会ったことのない私を擁立したい、と思ったのかを伺った。氏は、この選挙の候補者には、さまざまな問題の当事者に出てほしい、と考えており、私は異性装の当事者であるからだ、ということが第一の理由であった。そして更に、私の著作やインターネットの記事を見ていて、大いに参考にしている、というのが第二の理由であった。また、私の「子どもを守る」という理念を聞いて、ますます出てほしい、と考えている、とのことであった。
それを聞いて私は、真剣に立候補を考えることにした。そして、更に、東松山市長選挙で行った、馬と音楽とを中心とした選挙運動の話をして、そういう選挙らしくない選挙をやるけど、それでもいいのか、と申し上げた。これについてはその後、具体的に、何がいくらくらい掛かって、何が公職選挙法に触れないでできるか、ということを事務方を含めて折衝した。更に、世界的ドキュメンタリー映画監督である原一男氏が、安冨がもう一度、選挙に出るなら、映画を撮りたい、とおっしゃっていたので、その件も確認した。
また、私は会議が非常に苦手で、教授会ですら辛いのに、「国会」などという会議だけでできているところで働けるか、疑問であったので、そのことも聞いてみた。すると、24時間看護を必要とする方を擁立するつもりで(それは後に木村英子氏のことだとわかった)で、そういう方が働ける環境をれいわ新選組は用意するので、会議アレルギーも何とかする、とのことであった。
こうしてすべての折衝が済んで、私が出馬することになったのは、6月25日であった。そして27日に記者会見することになった。選挙はもう目の前である。
以上のやり取りから私は、山本太郎のれいわ新選組は、いわゆる「政党」ではない、と結論した。ここで言う「政党」というのは、その目的を「綱領」という形で明文化し、何らかの「政策」を掲げて選挙を戦い、議席を獲得して綱領の実現を目指す、という共通の目的を持った集団のことである。
実のところ、この定義にきちんと当てはまる政党は、日本共産党、しかないであろう。ほかの政党は、「選挙に当選して議員になりたい」と思う人が集まって、票を得られる方法をいろいろ考え、それを綱領や政策として出し、「政党」のフリをしている集団に過ぎない。それでも、フリをしないといけないので、候補者が党の掲げる政策に反対だと公言するわけにはいかないし、綱領と関係のない政治理念を掲げることにも大きな問題が生じる。その上、往々にして選挙のやり方も、支持母体となる組織が主導権を握り、候補者はそれに従って運動することになりがちである。
しかし、れいわ新選組は、「子どもを守る」という政治理念を勝手に私が掲げても構わないし、政策に反対だと言ってもいい、というわけである。しかも、選挙そのものも、私がどういう選挙をするか、勝手にしていい、ということであった。
これは、もはや、政党の態を成していない。なぜそうなるのかというと、一つの理由は、4月1日から、山本太郎事務所の少人数のスタッフが、突貫工事で政党を作ってみせるという、そもそも無理なことをやってのけている、という事情がある。確認団体としての資格を獲得するために十人の候補者を揃えねばならず、そのための膨大な書類手続と資金集めとに忙殺されており、綱領とか政策とか選挙のやり方とかに、構っていらないのである。
しかし私は、それ以上に、山本太郎氏の独自の組織運営理念が反映されている、と感じた。ものごとを、カチカチと固めていく、手続き重視の姿勢そのものが、暴力性を帯びる。なぜなら、たとえ実質的に意味があるものでも、この手続の都合に合わないものであれば、排除してしまうからだ。そうして、意味のあるものが排除され、無意味な書類だけが蓄積されていくのが、現代社会の病理であると、私は認識している。山本太郎氏もまた、その病理を心底嫌っているのだと、感じた。
選挙が始まる前日くらいに、山本太郎氏から呼び出しがあった。それは、私が大学院生のときに、学生にハラスメントをした、というタレコミがどこかの雑誌にあって、誰かが動いている、という情報があり、その確認であった。私は、腹を抱えて笑った。というのも、そもそも大学院生は学生に対してなんの権限もないし、しかも私が院生をやっていた二年間は、必死に本と論文と資料とを読み、論文を書き、その上、厄介な恋愛遍歴にのたうち回っていたので、到底、学生にハラスメントしているような余裕がなかったからである。しかも30年以上も前のことだ。
その話のあとに、公示日の第一声は、新宿ですか、と聴いたら、山本太郎氏は「まだ決まってないんです。話そこまで行ってないんですわ。ウチ、いっつもこんな感じで。」と言って笑った。私は「それは素晴らしいですね。『孫子』の兵法に、「無形」という概念があるんです。それは「何も決めていない」という状態のことで、何をどうするか決めていなければ、敵は、どんな優れた司令官でも、どんな手練のスパイでも、こちらの意図を読み取ることはできない、と孫子は言っています。無形が一番強いんです。」と言った。氏は「それはすごいなぁ。無形で行きますわ。」と言って、更に笑った。
日本中世史の大家であった網野善彦は、日本社会における自由の根源を探し求め、「無縁」という概念に到達し、「無縁の原理」が人間社会には作動しているのだと主張した。私の考えでは「無縁の原理」とは、人間同士の関係、すなわち「縁」が腐れ縁になってしまったとき、その縁を断ち切って離れるのは当然だ、という人類普遍の感覚のことである。この無縁の原理が作動することにより、人間の自由が確保され、人々の関係の質的劣化を防ぐことができる。
この無縁の原理は、「縁」が流動的であるなら見えにくくなり、それが固定化されるに従ってその作動も可視化され、「無縁所」といった具体的な空間を占めるようになる。その一例を網野は、そこに女性が駆け込むと婚姻関係が消滅する「縁切寺」などに求めている。
そして更に、この無縁の原理を身に帯びた人間を「無縁者」と呼ぶ。無縁者とは、普通の人間には適用される規則が、適用されない者である。網野が挙げるのは、たとえば、天皇や上皇といった、極めて身分の高い人物に直接に交遊する白拍子、僧侶、歌人といった人々である。彼らは、無縁者であるがゆえに、高い身分の人と直接に口をきくという、有縁の人であれば決して許されないはずのことが許される。
この無縁の原理は、近代国家では認められない。法律は如何なる場所であっても、誰であっても、等しく適用される建前である。無縁の原理はもはや、息を止められたかのように見える。しかし、それは無縁の原理が、「原理」である以上、ありえない。均一に加えられる抑圧に息苦しくなった人々は、無縁者の存在を求める。たとえば、「フーテンの寅さん」や「釣りバカ日誌」が多くのサラリーマンの心を捉えたのは、こういう映画の主人公が現代の「無縁者」だからである。あるいは、長期に渡って日本のテレビ業界のトップを占める女装家マツコ・デラックス氏は、その異形と相まって、無縁のパワーを発揮している。
私は、この無縁の原理の信奉者である。その厳密な理論的背景については私の著作を見てほしい。この無縁の原理こそが、現代社会の抑圧を打ち破る力を我々に与える、と私は考える。山本太郎氏は、自らを「野良犬」「永田町のはぐれ者」といったように表現することがあるが、これは自らの無縁性を自覚しているからだと考える。
さて、私が擁立を受諾した段階で候補者は、山本太郎氏と蓮池透氏だけであった。あと七人、どうするんだろうと思っていたが、なかなか埋まらず、ハラハラしたが、公示日の直前にバタバタと決まっていった。その一人ひとりが、まったく異なった色彩をもっており、そのラインナップに、私は舌を巻いた。これは明らかに「無縁者」の集まりであった。
山本太郎氏は、その演説でいつも「生きづらさ」に触れ、「誰でも生きていればそれでいいんだ」と言い続けてきた。この現代の閉塞感を打ち破るには、無縁の原理が必要なのだ。そして、「れいわ新選組」は、この無縁の原理を体現しており、山本太郎氏や私を含めた候補者は、無縁者の集まりであった。私は、これが、れいわ新選組の躍進の基本的な原動力であった、と考えている。
れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも「政党」ではなく、「左派」でもなく、「ポピュリスト」でもない。れいわ新選組は、無縁者の集まりであり、その無縁のエネルギーが、ガチガチに固まって人間を閉塞させている有縁の世界に、風穴を開けつつある。人々の支持を集めているのは、その風穴から、空気が吹き込んでおり、息ができるようになったからだ、と私は考えている。
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記者座談会 れいわ新選組がこじあけた扉 反撃の狼煙(のろし)は上がった(長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/605.html 投稿者 肝話窮題 日時 2019 年 7 月 25 日 01:11:39: PfxDcIHABfKGo isyYYouHkeg 長周新聞 2019年7月24日
■次の衆院選に向け動き出す 参院選が終わり「自公過半数」として政治構造には何ら変化がなかったかのような澄ました空気のなかで、またぞろ安倍政府が「次は改憲」などといい始めている。今回の選挙はれいわ新選組の台頭が物語っているように、旧態依然とした政治構造に風穴があき、潮目が変わる瞬間となったことを強く印象付けるものとなった。選挙結果は何をあらわしているのか、議席数だけでは推し量ることのできない変化について、記者座談会で分析してみた。
A まず結果をどう評価するかだが、大手メディアを見ていると「自公改選過半数」「与党勝利改選過半数」「首相 改憲議論を加速 “審判下った”」等等、まるで自民党が勝ったかのようなとりあげ方に終始している。自民党としては改選議席67から当選者は57と10議席減らしている。参議院の245議席のうち113議席へと減り、単独過半数割れに逆戻りした。比例票は前回16年の参院選から240万票減。全有権者に占める絶対得票率は16・7%。第二次安倍政権発足後の最低だ。これらは明らかに自民敗北といえる数字だ。さらに公明党の瓦解状況も顕著で、比例票は16年の前回参院選では757万票あったのが653万票と100万票も減っている。それで自公に維新を足しても改憲勢力として必要な3分の2(164議席)にも達しなかったのに、なにが「改憲議論を加速」かだ。安倍晋三の精神勝利法(阿Q正伝)的思考に引きずりこまれているかのようだ。
にわかに「国民民主が改憲に前向きで安倍自民党と手を握る」という話もとり沙汰されているが、それはそれで欺瞞的な姿を自己暴露し、次の衆院選で審判が下されるだけだ。選挙が終われば、あとは永田町の合従連衡(がっしょうれんこう)の論理だけで物事を動かせるというなら、これほど有権者や国民を愚弄した話はない。
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2019年参議院選挙の結果 B 立憲民主が8議席増やして改選前の24議席から32議席に増やしたのも特徴だ。そして、無所属とはいうものの野党共闘などによって自民現職を撃破した候補者たちも複数が当選を果たした。滋賀県の嘉田元知事であったり、秋田県の寺田静、山形県の芳賀道也、岩手県の横沢高徳、新潟県の打越さく良、大分県の安達澄、沖縄県の高良鉄美などがそうで、いわゆる野党系は議席を増やした。沖縄はさすがというか、オール沖縄の盤石な力を見せつけた。立憲所属ながら消費税廃止を訴えた宮城県の石垣のりこ、格闘家からの転身となった立憲の須藤元気など、新鮮な政治家も幾人かが選挙を勝ち抜いて登場した。今後の政治活動が注目されるのではないか。「自公過半数」は確かに事実ではあるが、大手紙はこの選挙で起こった変化や特徴を覆い隠すような表現として、主見出しやそで見出しまで含めて紙面を構成している印象だ。極めて巧妙な形で。
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自民党の絶対得票率の推移 C 何といってもこの選挙で台風の目になったのは、山本太郎が立ち上げたれいわ新選組だ。街頭から地べたを這うようにして旋風を起こした。選挙戦略としても相当にキレている印象で、街頭演説で引きつけていく力は洗練されていた。よく政治家は選挙を通じて街頭で鍛えられるというが、一つ一つの言葉への反応や空気を捉え、聴衆と向き合っていくなかであのスタイルが確立されたのだろう。他の候補者にしても不条理な政治によって苦しんできた各分野の当事者たちの演説は、気持ちも含めて伝わってくるものがあった。見事なたたかいぶりだった。街頭演説はどこでも大群衆が集まって、他の政党には真似できないほどの動員力を誇っていた。現場の空気からして自民党が組織動員で集めるのとはまるで異なっていた。熱気が違うし、「太郎頑張れ!」の思いを持った一般の人人が、老若男女を問わずに演説に聴き入っていた。みんなが本気なのだ。
四谷本部事務所には期間中、名前を記帳してビルの中で作業をしたボランティアスタッフだけでも3700人にのぼったという。会社帰りにサラリーマンが手伝いに来たり、無数の人人が彼らを押し上げようと自分にできることを通じて支えていた。政治に期待できるものがなにもないなかで、一つの光明のように捉えられていた。困っている国民を幸せにするために政治がある−−。これは本来なら当たり前の話なのに、現実には権力者や金持ちのためだけに政治が機能し、国権の最高機関である立法府が一部の者の飼い犬に成り下がっている。そんなのおかしいじゃないか! と野良犬上等で声を上げ始めた。
D ネット上では注目されていたものの、それだけでは上滑りする恐さもある。だからリアルに人と人がつながっていくことを意識していた。公選はがきを送ったり、実際の得票につないでいく努力を重ねた結果、立ち上げから3カ月にして国政政党としての要件を軽軽とクリアし、次期衆院選への有利な基盤をつくった。1議席でも2議席でもいい。今回の選挙はとにかく分厚い壁に穴を開けたことに意味がある。そして次の衆院選には100人規模を擁立し、さらにその次の参院選など含めて本気で政権をとりに行こうと動き出している。寄付は4億円を突破し、その後も増え続けている。政党交付金もないゼロからの旅立ちに対して3万人以上がおカネを出して支え、みんなで国政政党を立ち上げるところまでいった。すごい力だ。山本太郎の求心力もすごいが、本気でやろう! という要求が鬱積していたからこその爆発力だと思う。
何らかの旗やスローガンを振り回して「オレがすごい! みんなついてこい!」みたいなのをいくつも見てきたが、独りよがりで誰もついていかないケースがままある。笑えないが右にも左にも実に多い。自惚れと幻想の世界を彷徨って自己の承認欲求を満たし、他者にマウントをかけて大喜びするのを生きがいにしていたが、気付いたら年老いて、社会の片隅で少数派として身を寄せ合っていた−−とか。そうではなくて、小難しいカバチ(屁理屈)を垂れるわけでなく、みんなに届く言葉でもって、みんなのためにたたかうんだという嘘偽りのない姿勢に共感があった。誰のために政治をするのか、誰のために自分たちは行動を開始したのか−−。みんなのためなのだ。これは理屈ではなく性根の話だ。
このれいわ新選組旋風を黙殺して何が報道かと思う。彼らは明らかに地殻変動を起こしていた。その目撃者として読者や視聴者にあるがままを伝えられないというのは、ジャーナリズム失格でもあるが、同時に可哀想だなという思いしかない。開票を見守っているれいわ新選組の会場にもたくさんのメディアが来て取材していたが、「あなたたちはなぜ報道しなかったのか」と逆質問を浴びて困っていた。現場の記者たちに罪はないが、大手メディアは統一司令部の指示でもあるのかと思うほど黙殺に徹していた。
選挙期間中は地上波、あるいは大手紙にとりあげることで旋風に風を送ってはならないという明確な意志を持っていたようだ。そして開票後になって恥ずかし気もなく「台風の目でしたね!」などと声をかける。ずるい黙殺や問題のすり替えはお家芸なのだ。
C 山本太郎及びれいわ新選組の面面はなにを発信しているのか、本紙でも丁寧に演説内容を紹介してきたので重複は避けるが、読者のなかでも「山本太郎、いいこといってるじゃないか」「これまであまり良い印象がなかったが、実際の演説内容を読んで見方が変わった」という意見も多かった。あるいは大西つねき氏の演説も随分注目されていた。経済問題への関心は高いが、動画を見るだけだと右から左に流れてしまいがち。文字だと何度も頭を整理しながら考えられるという側面もあったようだ。
A 困難な状況に置かれた国民のために本気でたたかう政党になるんだという気迫が世論を動かしていった。その本気度が既存政党との明確な違いであったし、他の野党の存在感が霞むほど目立っていた。野党側からは自分たちの基盤を食われると文句が出ていたが、れいわ新選組としてはそのような小さな枠のなかで支持者を奪い合うというちんけな話ではなく、「われわれは最も可能性のある選挙に行かない5割に支持を広げに行く」という戦略だった。そして実際に、これまで選挙に行ったことがない層も含めて初めの一歩を動かした。
れいわ事務所に詰めていた電話対応スタッフ曰く、「比例票はどう書いたらいいのか?」「投票所の前まで来たのですが、どうしたらいいのですか?」「山本太郎と書けばいいのですか? れいわ新選組と書けばいいのですか?」など投票の仕方を尋ねる問い合わせが相当数あったという。つまり、選挙に行ったことがないが行ってみようと思った人たちの反応だ。
全体としては異様なる低投票率だったなかで、どれだけの人人を動かせたのかは未知数だが、比例で228万票、うち山本太郎の個人得票だけでも99万票という驚異的な数字を叩き出した。99万票を得て落選というのもすごい話というか、選挙制度の歪(いびつ)さを映し出してもいるが、そのような選挙制度をあざ笑っているようにも見える。むしろ山本太郎が自分の議席にこだわっていないところが潔い。結果的に、本命であろう次の衆院選で再び本人自身が暴れられる。その他の仲間とともに。そして必然的に「太郎を国会へ!」の力がより強く動くことになる。おおいに大暴れして欲しいと思う。
■国民のための政治へ 選挙行かぬ5割が鍵
D 異様な低投票率が物語っているように、5割が選挙に行かず「無関心層」などといわれている。政治不信がすごいことになっている。無関心というより、政治や選挙と切り離れた分断された層のようにも見える。この国の選挙は5割が棄権するなかで17%の自民党(今回の選挙では16%台に突入)、公明党をあわせても支持率24〜25%の勢力が国会の大半の議席を独占し、好き勝手する状況が続いている。選挙に行かない5割にアクセスした政治勢力こそがもっとも伸びしろがあり、1割でも2割でも動かしたときには巨大な山が動く。3割の支持を得たときには、自公政権など吹っ飛ぶ。そして新しい政治勢力が台頭していくことができる。この巨大な山登り? 山崩し? の端緒を切り開いて、一歩を踏み出したところに価値がある。参院選で示された支持基盤を2倍にも3倍にも、いやもっとスケール大きく捉えながら拡大していけば流れは変わる。潮目が変わると、それまでとは真反対に激流となって動き出す。一つの突破口をつくった意義は大きい。
C 低投票率のおかげで国会の圧倒的議席を総なめにでき、寝た子を起こさない選挙によって政権与党の座が確保される。情けない話ではあるが、一強などといいながら低投票率に味をしめている。これは自民党の足腰がかつてなく弱まっているなかで一つの戦法になっている。劇場型で世論を目くらましして票をかっさらっていくか、あるいは無風状態にして、しれっと選挙を済ませてしまうかの二刀流をくり返している。なぜか? それほどまでに自民党が弱体化してしまっているからだ。しかし、そうはいっても大企業や組織の動員票で17%(今回の選挙では16%台に突入)はかつかつ組織しており、これをこえるものがいない限り一強は続く。従って、今の政治構造を土台からひっくり返したいという場合、政治勢力としては万年野党で飯を食って行ければいいというような怠慢では話にならず、選挙に行かない5割とつながっていくことにしか未来はない。そこに遠慮や忖度なしで思い切り挑戦し始めている。つまり、まだまだ伸びしろがあるということだ。
A 自公に対抗して結集軸として存在する政治勢力がいないなかで、現状では野党が細細と分散して自民党が楽勝を決め込んでいる。政権交代が起き得るような状況の選挙ではなく、おおよその結果はこんなものだろうというのが余計にでも幻滅させ、有権者を投票所から遠ざけている。5割の有権者から見て、政治に期待が持てないという意識は現実にあるわけで、それを「無関心なのがけしからん」と敵視したところで始まらない。期待を抱かせ、心の底から応援したいと思える政治勢力が選択肢として存在していないのだ。
よく「野党がだらしない」と書くと怒って文句をつけてくる人もいるが、与党がむちゃくちゃであると同時に、野党も馴れ合いと予定調和で出来上がっているではないか。法案が通過する際の「私たち反対してます」アピールの茶番でも、申し訳ないが嘘くささしか感じないし、学芸会みたいなものだ。そのように本気でないことが見透かされている。投げ与えられた議会制民主主義は既に壊死している。れいわ新選組の台頭は、そこを乗りこえて「本気でたたかう」ことへの共感が大きいことを示しているのではないか。
B 民主党が大裏切りをして下野し、野田が自爆解散によって大政奉還して第二次安倍政府が6年続いた。民主党になろうが自民党になろうが、どの政党が与党になっても財界とアメリカの犬みたいな政治が実行され、原発政策、TPP、米軍基地問題、消費税増税などどれをとっても国民が苦しむ方向で事が動いていく。売国政治が止まらない。誰のために政治が実行されているのか? 現状では誰が見ても財界や米国のためであり、国民のためではない。
その結果、例えば21世紀のこの時代に、子ども食堂が全国で爆発的に広まるほど、ご飯が食えない子どもたちが増え続けている。貧困だからだ。「北朝鮮は核開発にお金を注ぎ込んで国民を飢えさせている」などというが、北の3代目ならぬこちらの3代目・安倍晋三も大差ないではないか。トランプから武器ばかり買わされて、この国の子どもたちは飢えている。下関のある子ども食堂に行くと、2〜3日なにも食べられずに辛抱していて、カレーライスを3杯もおかわりする子どもがいた。子どもたちがお腹をすかせているような状況は、その社会を形づくってきた大人たちは恥じないといけない話だ。世が世であるだけに、地域で皆の力によって支え合って生きていこうとしているが、国民を飢えさせないのは政治の責任だ。貧困社会というが、みんながカネがなくて貧しいのと同時に、カネのある者の精神世界も貧しい。
A 誰のために政治が機能しているか? 問題は単純だ。国民生活に思いが至らない者が国民のことなどお構いなしに政治を司っているのだ。同じように大手メディアはなぜれいわ新選組を黙殺したか? スポンサーである大企業を擁護して広告収入を得るためであり、国民に真実を伝えるという本来の任務を放棄して、食うために黙殺する。その取捨選択の基準はビジネスだ。れいわ新選組のような勢力が拡大して政権奪取でもすれば、スポンサーである大企業は困るので、飼い主である大企業や財界の安寧が損なわれないように、現状の政治構造が犯されないように機能する。誰のためにメディアが機能しているか? これも単純だ。恐らく次の衆院選でも黙殺に徹することは間違いない。しかし、そんなことは百も承知のうえで、岩盤にドリルで穴を開けていくほかない。小さな穴はあいたわけで、あとはみんなでゴリゴリこじ開けていく感じだろうか。いずれにしても今回の選挙では政党要件を満たした時点で勝利といえるわけで、次の衆院選は俄然面白みを帯びてきた。みんなして薪をくべて炎上させていけば、巨大な松明になって暗闇を照らし出せるかもしれない。
B 今回のれいわ新選組のたたかいを支えるために、実は本紙からも複数名の記者が東京に出向き、20日間近く四谷事務所でボランティアスタッフとして参加してきた。これは応援するとかの話ではなく、みんなにとって自分自身のたたかいだという思いで参戦してきた。小倉や広島での山本太郎本人の演説で本気さと気概を感じ、これは同じ時代を生きる20〜40代として本気でいっしょにたたかわないといけない、日本社会にとっての分水嶺だと思ったからだ。くたびれた政治状況に渇を入れ、泥まみれで立ち上がっていく彼らに全力で援護射撃しなければと思ったのが動機だ。
金銭的には無理できないなか、可能な限り負担を少なくするべく東京滞在中の住まいを世話して頂いたり、読者の皆様からの物心両面の支援に支えられて実現できた。この場をかりて感謝申し上げたい。そしてより発信力を強めるよう努力もして、煽り続けていきたいと思う。大手メディアのように大企業や権力に迎合せず、飼い慣らされずに野良犬上等で自由に書き続けていくし、なにより志を同じくする者としておおいに連帯して、次の衆院選で爆発力が生み出せるよう頑張っていきたい。あの2議席は反撃の狼煙(のろし)みたいなもので、誰もなにも満足していない。もっと大きい事を見据えて、挑戦は始まったばかりなのだ。
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ほとんどのテレビ、大手新聞が無視する山本太郎とれいわ新選組。それを2週連続で「週刊プレイボーイ」誌が特集。今回はなんと、見開き4Pだ!やってくれぜ、集英社さん。快挙だ。現在発売中。買って応援。多くの人に見せて「れいわ」を拡散しよう!
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http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/412.html
書ける理由と書けない理由(長周新聞 コラム狙撃兵)
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/412.html 投稿者 肝話窮題 日時 2019 年 7 月 19 日 23:15:23: PfxDcIHABfKGo isyYYouHkeg 書ける理由と書けない理由
コラム狙撃兵 長周新聞 2019年7月19日 「大手メディアがれいわ新選組の活躍を黙殺しているなかで、どうして山口県に拠点を置いている長周新聞は1面トップで自由に報道できるのか知りたい」との問い合わせがメールや電話等で相次いでいるので、丁寧にお答えしたいと思います。
長周新聞はいかなる権威に対しても書けない記事は一行もない言論機関であると宣言し、今日までその立場を貫いてきました。社会全体にとってよくないこと、社会悪であると判断した物事については誰にも遠慮せずに批判を加え、称揚すべきはおおいに称揚し、書くべきことは書く。それが長周新聞の生命線であると考えています。不自由さに縛られ、口にてつをかまされた馬のように語るべき何らの機関もない、いいたいこともいえないがんじがらめにされた世の中にあって、人間が自由にのびのびと精神を解放し、戦争も貧困も搾取も抑圧もない豊かに暮らしていける社会を実現するために、言論機関として役割を果たさなければならない−−。そのために人と人をつなぎ、協力し、団結できるすべての力とのつながりを求め、発信し続けることが使命であると考えます。
なぜ権力者や巨大な資本に遠慮しないで好きなことが書けるのか? それは、彼らから金銭的に何ら世話になっておらず、遠慮する必要がないというのが一番の理由です。創刊以来、困難な経営状態には変わりありませんが、一人一人の読者の皆様から頂く1カ月1500円の購読料、そして夏と冬に山口県中を走り回って読者や支持者の皆様にお願いして頂くカンパ、「もっとがんばれ!」といって全国から支持者の皆様が寄せて下さるカンパ、さらに中小零細企業や商店、病院をはじめとした方々に協力して頂く年賀・暑中見舞い等の広告料のみに依存し、巨大な組織や団体などのスポンサーに依存することなく運営しています。それは金銭的な困難さこそあれ、スポンサーの顔色を伺って書くべきことが書けない、あるいは銀行を通じて圧力が加えられるというような状態を排除し、紙面への介入を許さないためには避けられない選択です。自由に書くべきことを書く言論活動の最大の保証でもあります。嘘偽りなく読者・支持者の皆様に支えられ、守られ、存在しているのが長周新聞社の現実です。
世の中、なにをするにもおカネは必要となり、カネが人を支配し、企業を支配し、かつては無冠の帝王などといわれたジャーナリズムといえども支配されます。背に腹は変えられない状態で安易に身を委ねてしまうと、次の瞬間から忖度をはじめ、いいたいことの一つもいえなくなり、書けなくなってしまいます。そうして武器であるペンを折って軍門に降ってしまい、いまや足腰が立たなくなるほどジャーナリズムが堕落してしまっています。喜んで権力者から寿司を奢ってもらうような者までがジャーナリストを名乗っている始末です。口に鉄をかまされた馬ならぬ、口に寿司をかまされたジャーナリストとでもいうのでしょうか。
どうして報道できるのか? と聞かれて思うことは、巨大メディアはどうして報道できないのか? という裏返した問題です。それはスポンサーや電通に頭が上がらないからであり、擁護している対象が権力者や資本だからにほかなりません。私たちはそのように金銭的に支配しようとする力や誘惑を断り、逆を行くかわりに、この目で見たれいわ新選組の台頭や日本社会の変化についてあるがままを自由に報道したいと考えています。「誰にも何も伝えない」ジャーナリズムもどきに成り下がるのではなく、「みんなにすべてを伝えたい」を選択します。その違いは、私たちが守るべきは困難な状況に置かれた民衆であり、弱者であり、それが創刊以来脈々と引き継がれてきた信念だからです。 武蔵坊五郎
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