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黒澤明について
1:「生きものの記録」(1958年)
私がリアルタイムに映画館で黒澤作品を観たのは、「生きものの記録」が最初であった。高校二年生であった。四日市の「弥生館」という東宝の封切館である。新聞などで凄い監督だというのは読んでいたので、小遣いをはたいて封切館へ一人で行った。館内は混んでいなかった。
三船敏郎の主人公の老人が、夏で暑いため、やたら扇子をパタパタ扇ぐシーンが印象に残っている。原水爆をテーマにしているから、当時、新藤兼人監督が「第五福竜丸」という太平洋で原爆実験に被爆した漁船を描いた映画と似ているかなと思ったが、全然違った。
東京・大崎あたりの町工場のオヤジが主人公。どういう訳かいきなり、海外へ移住しようと家族に打ち明ける。アメリカが太平洋で原爆実験をしている時代のこと。日本が原爆の被害を受けるから、逃げ出したい、むざむざ殺されたくないと言う。
当然家族は、何を言い出すのかと面食らう。「オヤジは気がふれた」と思う。
「そんなことは政治家に任せるしか方法はない」「地球上逃げる場所なんてない」
「第一、 家族は別に一緒に逃げたくない」
このオヤジの言うことは、観客の私にも唐突な言い分で理解ができなかった。
世評もそうで、観客動員数は少なかった。
黒澤監督はなぜ、このような切り口で原水爆の恐怖をえがいたのか?
「生きものの記録」は黒澤が音楽の早坂文雄と、ある日話してる時、早坂が体が弱いせいもあり「僕、心配でしょうがない」と原爆のことを言ったらしい。
黒澤は早坂が心の友であり、そう言う早坂の言葉に、次回作を原爆がテーマと決めたという。
映画が完成する前に、早坂は持病の結核で死んだ。「生きものの記録」はラストシーンしか音楽が流れない。早坂の書いたスコアを弟子の佐藤勝が映画に付けた。黒澤は「早坂が居なくなった。僕はこれからどうしょうというのです」と記者に語った。
「生きものの記録」について、黒澤は「原水爆の脅威を鳥や動物が知ったら、そこから逃げ出すでしょう」と語った。この映画は、原水爆への個人から見た意見として描いたもので、決して「一方的な唐突な作品」と黒澤は思っていない。
評論家の誰かが言ったが、黒澤は映画を個人の作品にした人であったのだろう。「七人の侍」などヒット作の作者だからこそ出来た作品といえる。
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