アメリカやイギリスの支配層はロシアを締め上げるため、その周辺に軍隊を配備してきた。1904年にハルフォード・マッキンダーが発表した「ハートランド理論」(注1)が元になった戦略だとされている。後にヨシフ・スターリンはソ連の周辺を制圧するが、その理由のひとつは米英の戦略に対抗することにあった。
1990年に東西ドイツが統一される際、ジェームズ・ベーカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シュワルナゼに対し、NATOを東へ拡大させることはないと約束したことが記録に残っているのだが、1991年12月にソ連が消滅すると、アメリカ支配層は約束を破り、東へ勢力を拡大しはじめる。
そして2014年2月22日、アメリカの支配層はウクライナの再制圧に乗り出す。選挙で合法的に選ばれたビクトル・ヤヌコビッチ大統領をネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)によるクーデターで排除したのだ。反クーデター派の抵抗に遭って思惑通りには進まなかったが、それでもアメリカはロシアの喉元にナイフを突きつけている状態である。米英の支配層はこうした戦略を112年にわたって続けてきたのだが、ソ連がキューバにミサイルを持ち込んだときには激しく反発、核戦争を始める姿勢を見せていた。
ソ連がキューバにミサイルを持ち込んだ理由のひとつはアメリカ内部で計画されていた先制核攻撃にある。例えば、1949年には、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容の研究報告が統合参謀本部(JCS)から出され、1954年になると戦略空軍総司令部(SAC)はソ連に600から750発の核爆弾を投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。
1956年にSACが作成した核攻撃計画に関する報告書によると、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が攻撃目標に含まれていた。
1957年初頭に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊することになっている。(注2)この作戦が作成された当時、JCS議長はライマン・レムニッツァー、またSACの司令官はカーティス・ルメイ。レムニッツァーは大戦中の1944年、アレン・ダレスとナチス高官に接触し、降服について話し合っている。また、1955年から57年にかけて琉球民政長官を務め、沖縄の軍事基地化を進めている。
1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかったが、レムニッツァーやルメイといった好戦派は1964年になればソ連もICBMを配備できると見通し、
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の終わりに奇襲攻撃を実行しようとしていた。