日台さん・亀さん

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8/27(月) 7:06配信
FRIDAY

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「私が進めているがんワクチンやT細胞療法は、患者さん自身の免疫細胞を使う治療法。その人のリンパ球が元気なうちにやらないと、本来の効果を発揮できません。ところが、今の医療現場ではあらゆる標準治療をやり尽くして、患者さんの免疫が弱り切った最後の最後にしか『免疫療法』は行えない。それでは体内に残っているがんに対抗できる武器を使い尽くしてから戦えといわれるのと同じです。これでは医療費ばかりがかかり、患者さんや国にとっていいことは一つもない。現在、がん治療の常識を覆(くつがえ)すようなエビデンス(証拠)が次々と明らかになっています。今こそ、“標準治療は絶対に優先されるべきだ“という意識を変えていくべきです」

 そう語るのは、「がん研究会がんプレシジョン医療研究センター」所長の中村祐輔医師(65)だ。

 ここで中村医師が指摘する標準治療とは、「抗がん剤治療」、「手術」、「放射線治療」という3本柱の総称。抗がん剤治療は、これまでがん治療の常識であり、切り札とされてきた。ところが、その抗がん剤治療は、実際は一部のがん患者にしか効かないというのだ。

「標準治療といっても、がんが治る治療という意味ではありません。抗がん剤で治癒が見込めるのは白血病や睾丸のがんなど一部に限られていて、7割の患者さんには効かない現実がある。そもそも、そういう治療を『標準治療』と称してすべての患者に行っていること自体がおかしいわけです」(中村医師=以下、「 」内はすべて本人)

 たとえば、一口に「肺がん」といっても、誰一人として他人と同じがん細胞があるわけではない。各患者のがん細胞で異常を起こしている遺伝子の種類が違うので、一人ひとり性質が異なるのだ。そのため、これまで抗がん剤治療を始める際には、患者は主治医から「クスリの効き方には個人差があり、やってみないと効果は分かりません」と説明を受けてきた。つまり、がん患者は効くかどうか分からない、イチかバチかの治療に賭けるしかなかったのだ。結果的に、がんには効かず、強い副作用だけに苦しむことになっても、それが当たり前だとされてきたところがある。

 だが、中村医師が現在進めている「ゲノム医療」によって、その状況が一変しようとしているのだ。

「一部の患者さんでは、血液検査で遺伝子解析をしておけば、『この人にはこのクスリが効くけど、これは効かない』などの薬効がより精度高く治療前に見極められるようになります。患者さんは、効かないクスリを使う必要がなくなる。その体制が整えば、高額なクスリを無駄に使うことがなくなり、医療費の削減にもつながります」

 すでにその検査技術があっても、治療現場までうまく伝わっていないこともある。乳がんのホルモン治療薬である『タモキシフェン』の対応もそのひとつだ。

「タモキシフェンを飲むと、肝臓の酵素の働きによって、がん細胞に効果を発揮する成分に作りかえられます。ところが日本人の2割はこの肝臓の酵素の働きが弱いので、がんを攻撃するクスリを体内で十分に作れないのです。そのような結果が臨床の現場に届いていないのです。タモキシフェンがそれぞれの患者さんにとって有効であるかどうかは、遺伝子診断で分かる。それにもかかわらず、必要な検査がなされずに5年、10年と効きもしないタモキシフェンを飲み続けている患者さんがいるわけです。このタイプの遺伝子検査は、一生に一回受ければ済む。子供のうちに遺伝子検査を受けておけば、そのデータは死ぬまで一生使える。がん以外の病気が見つかった場合でも活用できるし、最適な治療を受けることができます」

 本来は、遺伝子検査などの体制整備は、遺伝子による差別を禁止する法案作成を含め、国が進めていかなければならないはず。しかし、技術の進歩によってすべての遺伝子を解析できる環境になったにもかかわらず、厚労省は時代錯誤の体制を改めようとしないのだ。

「今なら、まだ大きく舵(かじ)を切り返せます。この状況を変えるには一般の人たちに本当の情報を伝え、遺伝子解析の必要性を理解してもらうことが大事なんです」

 延命ではなく、がんを治癒させることを目指して――。がん治療新時代の幕が上がろうとしている。

取材・構成/青木直美(医療ジャーナリスト)





麻央さんの死を悼む声、医療関係者や患者代表から(読売の記事) 「がんより怖いがん治療」の近藤誠氏

転載元転載元: フルタマンタロウ 京都から発信中

私が台湾に興味を持ったきっかけは日本語世代である。
外国人で日常的に日本語を使う人がいるのかということが不思議だった。


縁あって日本李登輝友の会に入り、2006年2月の天燈祭りツアーの時に南天斉下宮を訪問する機会があったが、その時のツアーバスの隣の席にいたのが、のちに台湾人生という映画にも登場する宋定國さんだった。


宋さんは1925年生まれ、バスの中で恩師の小松原先生のお話をしていただいた。


実は李登輝元総統の講演よりも個人的には宋定國さんのお話のほうが感動が大きかった。


台湾に行って一番感銘をうけ、印象に強く残っているのはどういう事か、と聞かれたらまずこれを挙げる。


外国出張をしたビジネスマンの多くは、夜のクラブでどんちゃん騒ぎをしたり、或いは日本ではとても味わえないような珍品をグルメ三昧をしたり、更にはパーティーで著名人と話をしてツーショットしただの、金儲け勉強会に参加したとか、VIP待遇でゴルフをしたとかという事を言う人が多いが、たとえ台湾でそうした事に出くわしたとしても宋定國さんのお話を一番に挙げる。私は変わり者だろうか・・・


事実宋定國さんは話を終えた後に「あなたみたいな若い方はこんなよぼよぼ爺さんの面白くない話なんて聞きたくないでしょう、ごめんなさいね」と私に言った。多分そういう事を直接か間接かは別として日本人の若い世代に言われたことがあるのかもしれないと思った。それが事実としたら日本人も本当に心が貧しくなったものだと残念に思ったが、私が職場で台湾の思い出話として宋定國さんの話をしたら「つまんねぇな、ネエちゃんを口説いた話なんかないのかよ」と先輩たちから言われそうなのでさもありなん。


帰国後に素晴らしいお話のお礼の手紙を書いたら、小松原先生との思い出をつづったかなりの長文のお手紙をいただいた。靖国会のブログの内容とほぼ同一だった。


そのお手紙は私が千葉県支部を辞める時に千葉県支部事務局に託けた。本当は持っておきたかったし、さらには宋さんとはもう数年音信不通です。亡くなったという知らせはないのでまだご健在であると思われるが、数年前にある人から聞いたお話ではかなり弱ってきているとのことだった。


確かに今年91歳、日本語世代が高齢化していくのは自然の理。
戦後の国民党教育を受けた世代と日本語世代とは価値観が違い、同じ民族でも言語が違うとこんなに違うのかと思うぐらい。


多くの戦後台湾人の親日は日本食や日本のテレビドラマやタレントが好きというところからきていて日本は故郷だと言っている日本語世代とは根本的に違う。だから台湾人は寿司や日本のアイドルやドラマが大好きと言いながら尖閣諸島は台湾のものというデタラメを言ったりするのもいる。


やがて台湾から日本語や日本への思いが消えていくのは本当に忍びないですが、私ができることはこうした話を下の世代に語り継いでいくことではいでしょうか。


かなり長文ですが、お読みいただけば幸いと存じます。

これは涙無しでは読めないですよ。


靖国会ブログ(2006.5.13)より一部転載
↓↓↓↓
http://yasukuni.jugem.jp/?day=20060513


「台湾で今も敬愛されている日本人教師」

成田空港から墓苑へ直行

平成16年11月11日、秋の深まる成田の東京国際空港に、台湾から一人の老人が降り立った。宋定国さん八十歳、台湾高座会台北区会の会長である。宋さんはすぐ、電車を乗り継ぎ、鎌ヶ谷市初富にある初富霊園に向かった。そこには、敬愛してやまない社子公学校(日本の小学校)時代の恩師、小松原雄二郎先生が眠っている。墓前に額ずくと宋さんは、いつもながら先生への感謝の言葉と、自分の近況を報告した。

 宋定国さんは遠い台湾から、毎年この墓参りのために、わざわざ日本へやってくる。台湾で戒厳令が解除された十数年前から、宋さんはこの墓参りを欠かしたことがない。そして自分の子や孫には、「私の人生にとって、小松原先生は神や仏以上の存在だ」と常に話している。

 私が初めて台湾を訪れたとき、宋さんは、「日台間で行われるスポーツなどを観戦していて、いつの間にか日本を応援している自分に気づき、びっくりすることがあります。私はときどき、自分が台湾人なのか、日本人なのか分からなくなるのです」と語ってくれた。「ずいぶん正直な人だ」という印象を持ったが、日本の敗戦で突然国籍が変わった20歳までは日本人だったのだから、ある意味では当然かも知れない。


 司馬遼太郎はその著「台湾紀行」で、「老台北」という人をたいへん人間性豊かに描いている。まだ「老台北」こと蔡焜燦さんを存じあげなかった私は、「老台北」はおそらく宋定国さんのような人だと勝手に想像して、宋さんのことを「老台北」と呼んでいた。


 李登輝さんが台湾総統選挙に立候補したとき、中国政府はその当選を阻止しようと、台湾の北部と南部の沖合へミサイルを撃ち込んだ。いわゆる武嚇である。その夜私たち二人は、台北の小さなクラブにいたが、宋定国さんは、「奴らが攻めて来たら、私も老骨ながらライフルを持って戦います」と、決意を語ってくれた。そして、すっくと立ち上がり、直立不動で歌い出したのが、甲斐の民謡「武田節」だった。特に二番を力強く歌った。


祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵 仇は敵  


この宋定国さんが、手を震わせながら、時には涙しながら語るその人生は、波乱万丈で、とつとつとした調子ではあるが実に面白い。
「先生、授業料が払えません」


 「私は、大正十四年六月二十八日、台湾の台北州七星郡志林街社子の貧しい農家に生まれました。ようやく歩けるようになった頃、母菊が亡くなりました。唯一頼れるのは祖母でしたが、その祖母も多くの孫を抱えていました。公学校四年の終るころ、今度は父聡明が盲腸手術の失敗で、他界してしまったのです。

兄がいましたが、その兄が私に学校を中退して家の手助けをしろと言うのです。私はまだまだ勉強したかったので、退学しろと言われたときは、目の前が真っ暗になりました。私はこの事情を赴任してきたばかりの受持ちの先生に訴えました。先生は千葉県から来られたばかりの、小松原雄二郎という方でした。家庭には奥さんと三人の子供がいました。

事情を聞いて小松原先生は、「せめて公学校だけは、どんなに苦しくても卒業しなさい」と諭してくれました。「でも先生、授業料が払えないのです」。当時の台湾は、まだ義務教育でなかったので、授業料が必要でした。
すると先生は、「心配するな、先生が出してあげるから」と言ってくれました。

そして私の家庭を訪問し、なんとか兄を説得してくれたのです。兄は、二度と家業を手伝えと言い出しませんでした。それからは、授業料だけでなく学用品や配給される衣類の代金、その他、諸々の配慮をしていただきました。

私は発奮し、懸命に勉強して、公学校をトップで卒業しました。更に進学したかったのですが、とてもそんなことは言い出せません。進学など夢のまた夢でした。何しろ野良仕事をしないと、ご飯も食べさせてもらえないのです。」

 
働きながら通った夜間中学


 「せめて工業方面で働いてみたいと考えた私は、叔父に頼んでテント屋の丁稚小僧になりました。そして、朝早くから夜遅くまで、掃除、荷造り、車引き、ズックの裁断など、寝る間も惜しんで働きました。

テント屋で働いているとき、初めて夜間中学のあるのを知りました。それは官庁街で働く進学希望の少年や、貧困でも向学心のある青少年のために、第四代総督の民生長官であった後藤新平の創立した台湾で唯一の夜間中学で、成淵校と呼ばれていました。

その成淵校(現在の成淵高等中学)は、厳しい環境下で勉学する生徒ばかりなので、卒業生は入学時の三分の一になってしまうと言われていました。公学校を卒業していれば、誰でも希望通り予科一年へ入学できたのですが、私はあえて予科二年に挑戦し、幸いにも入学することができました。
それからは、仕事の疲れや空腹と闘いながら、寸暇を惜しんで勉学に励みましたが、本科一年の終わるころ、とうとう身体を壊してしまい、蓄えも底をついて、途方に暮れていました。

すると級友が、「宋君、小松原先生のところへ遊びに行きなさい」と盛んに勧めてくれたのです。「ルンペンをしているので、面目ない」と答えると、「先生は何もかもご存知だから、訪ねていって相談した方がいい」と言うのです。

 友人があまりにも熱心に勧めるので、思い切って志林にある先生のお宅を訪ねますと、たしかに先生は何もかもご存知の様子でした。そして、「宋君よ、挫けちゃだめだよ、いま挫けたらお仕舞いだ。台湾食品工業の増田四郎専務とは昵懇だから、勉強と両立できる適当な仕事をお願いしてやる」とのことです。

 社子公学校を卒業してから四年も経つのに、まだ教え子のことを心配してくれる先生に、私はただ感謝するのみでした。お宅から退出するとき、先生は私を垣根の外まで追いかけてきて、おそらく奥様には内緒だったでしょう。当時としては大金の、五円札をポケットにねじ込んでくれました。

そして、「宋君、近い中に会社から便りがあると思うが、勉強だけはどんなことがあっても続けなさい」と言われました。お礼の言葉も満足に言えませんでしたが、この温情には必ず応えなければならないと、固く誓ったものです。

程なくして会社から通知がありました。周囲はみな心温かい人たちばかりで、会社に住込みも許され、学校へ通うのは非常に楽になりました。私は先生へ感謝しながら、小松原雄二郎の名を汚さぬよう懸命に働きました。

ある晩のこと、台湾を猛烈な暴風が襲いました。そのとき、基隆河の川岸に近い二千坪もある工場に居たのは私だけでした。目を覚ますと、風雨は容赦なく襲いかかり、水はすでに会社の玄関近くまで押し寄せています。本土から到着したばかりの新しい樽材の流出は、一応食い止めましたが、岸辺に並べてあった大小の樽は流され、工場内の何百もの真新しい樽も流される寸前でした。

何とかそれを食い止めなければならないと、私は危険を顧みず、風雨ばかりでなく、毒蛇とも戦いながら、あちらこちら必死に泳ぎ回り、損害を最低限度に止めることが出来ました。

 天候が回復してから、社長や増田専務からお褒めの言葉をいただきましたが、特にうれしかったのは、小松原先生まで工場へ駆けつけ、共に喜んでくださったことです。」


向学心に燃え日本本土へ



太平洋戦争の緒戦を勝利で飾った日本も、昭和18年に入ると各地で敗退を重ねるようになった。とくに航空戦力の消耗は激しく、その増強が急を要するものとなり、それを担う優秀な労働力の確保が課題となったが、本土には、それを供給する余裕はなかった。

 一方、当時の台湾には、向学心に燃える優秀な青少年がたくさんいた。海軍はそれに目をつけ、飛行機を製造する職場で働きながら勉強すれば、旧制中学校の卒業資格を与え、将来は技手や技師になる道も約束すると誘った。

  台湾の少年たちが多数これに応募し、選抜試験を突破した8400名が、勇躍日本内地へ向かった。台湾少年工と呼ばれた人たちである。その中には、少年たちのリーダー役として数百名の中学校卒業者も含まれていた。彼らには、旧制工業専門学校の卒業資格を与えるという条件が約束されていた。夜間中学を卒業した宋さんも、昭和19年3月18日、その中の一人として海を渡った。

 向かった高座海軍工廠は、ゼロ戦の後継機「雷電」の製造を使命としていた。雷電は、高高度迎撃用に研究開発された戦闘機で、高度一万メートルへ6分で到達できる性能を誇っていたが、はるばる台湾から多くの少年を迎えながら、その生産体制はまだ全く整っていなかった。


 「昭和19年4月2日、高座海軍工廠へ着くと、台湾食品工業で事務関係に従事していたためか、事務職に配属され、多くの同僚から羨ましがられました。辛いタガネとハンマーの実習をやらないですんだからです。でも配属された工場はまだ出来ておらず、仕事もなくて、時間を持て余していました。

ある日、整備工場の責任者である西野信次少尉が事務所へ来て、何事か組長と話し合ってから、「三浦定国君(当時の私の改姓名)、整備に来ないか」と誘ってくれました。日本へ来る前に、航空機整備員の宣伝映画を見ていた私は、真っ白い作業服に白い帽子をかぶった整備員の、キビキビした作業態度を思い出し、喜んで承諾しました。

それから四ヶ月、相模航空隊第百十期生として、徹底的な航空機の整備訓練を受けました。ようやく一機また一機と第四機まで整備を進めていた頃、隣の職場で整備した雷電が、テスト飛行中に空中分解し、肝をつぶしたこともあります。」


 昭和19年、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕すると、そこはB29の発進基地となり、日本本土全体が爆撃可能になった。防空第一線部隊からは、上昇性能に優れた戦闘機「雷電」への期待がますます高まっていた。
しかし、雷電の主力生産工場であった三菱航空機名古屋工場は、すでに空襲で大損害を受け、高座海軍工廠の整備も、資材不足など種々の悪条件が重なって思うにまかせず、雷電生産の主力は三重県にあった三菱の鈴鹿工場へ移っていた。宋さんは実地訓練のため、その近くの鈴鹿航空隊へ派遣された。


期待されて「紫電改」整備員に


昭和20年2月、宋さんは鈴鹿航空隊から高座海軍工廠へ帰任したが、帰任早々今度は横須賀にあった海軍航空技術廠発動機部へ配属され、新鋭戦闘機「紫電改」のエンジン整備に専念するよう命じられた。僅か一年の間に宋定国さんに下された命令は、目まぐるしく変った。戦局の激変も理由の一つだが、宋さんの並外れた技術と責任感が注目されていたようである。

すでに日本本土の制空権は完全にアメリカ軍に奪われ、B29に加え空母艦載機グラマンF6Fによる本土攻撃が増加していたので、防空戦の主体は、上昇能力一本槍の雷電から、空戦性能に優れた紫電改へと必然的に移っていた。派遣された「空技廠」の重点も、紫電改の製造と特攻兵器「桜花」の研究開発へとシフトしていた。宋さんは、関係者を集めて行われた工廠長の演説を、今も鮮烈に憶えている。

 「海軍少将だった多田力三工廠長は、沖縄で苦戦している陸海軍など切迫している戦局を説明されたあと、我々が造る「紫電改」に、日本の興廃がかかっていると訴えられました。多田少将は、ドイツ軍の猛攻から英国を救ったのは、スピットファイヤーという名機だが、いま苦闘している日本を救うのは、この「紫電改」以外にない。全力を振るって紫電改の製造に当たってくれと、涙ながらに訴えられたのです。この時ほど身の引き締まる思いをしたことがありません。」

  しかし、武者震いをして紫電改の整備に取組もうとしていた宋定国さんへ、今度は予想もしなかった命令が下った。「昭和二十年七月一日、甲府第六十三連隊へ入営せよ」との召集令状であった。

 高座海軍工廠志願の人間は、航空機製造に従事する軍属だから兵役は免除されると聞いていたし、国運を賭けた紫電改の話も聞いたばかりである。普通なら、とても納得いくものではないが、日本本土へ赴くときの、小松原先生の言葉が脳裏をよぎった。「辛いことがあるかも知れないが、お国の為だ。がんばって来い」との言葉だった。宋定国さんは、いつもその言葉を胸に刻んで行動していた。当時の宋さんに、不満や愚痴、サボりなどは、全く無縁だった。
 

  B29による甲府大空襲


  昭和20年7月1日、甲府第63連隊に入隊した宋定国さんを待っていたのは、とてつもない試練であった。入営早々、甲府の大空襲に遭遇したのである。それは昭和20年7月6日未明のことで、入営から一週間目であった

 「7月6日深夜、駿河湾を北上してきたB29の大編隊は、三つに分れ、その一つが甲府方面へ向かったとの情報でした。当時甲府は富士山を目がけてサイパンからやって来る敵の飛行ルートに近く、敵機の通過はよく経験していましたが、その夜は甲府そのものが目標でした。いつかは来ると覚悟はしていましたが、実際に狙われた緊張感はまったく別ものです。

その夜、私は甲府市内の海工社という軍需工場へ、衛兵として派遣されていました。一発の照明弾が、灯火管制で真っ暗な甲府市の北部へ落とされると、一瞬にして街は真昼のようになりました。敵機は西南方からぞくぞくと侵入し、甲府を一周しながら次から次へ焼夷弾を落としていくのです。 
それは主に親子焼夷弾でした。まず一本が尾を引きながら落下し、それがバーンと空中で破裂すると、数十本の焼夷弾がザーとオレンジ色の尾を引きながら直径50メートル範囲にドスンドスンと落ち、パッと発火するのです。次から次へと飛来するB29が、文字通り雨あられとそれを落とすのです。

 焼夷弾攻撃の圏内にいると、シュシュと今にも脳天に焼夷弾が突き刺さるような恐怖を感じます。巻き起こる旋風、生きた心地はしません。着ている服も、熱で一分も経つと焦げ出すので、絶えず水をかけなければならないのです。

B29は、逃げ惑う人々の上を、爆音を響かせ、銀色の胴体に火焔が映るほど低空を飛び回っていました。敵機の爆音、炸裂する焼夷弾、家が焼ける激しい音、乱れ飛ぶ焼けたトタン板、絶叫する人の声、その中に母を呼ぶ幼子の声もありました。地獄絵さながらで、回想するたびに戦慄します。」


 猛火から守った甲府市役所のトラック 


 火を食い止めたり、傷ついた市民や戦友を救助したりしていた宋定国さんは、そのとき、トラックなど6台の市役所の車両に猛火が迫っているのを知った。トラックは当時貴重な戦力であった。無事に安全な場所へ避難させなければならないが、周囲に運転できる者はだれもいない。自分も自動車免許は無かったが、飛行機の整備をしていた関係で移動することぐらいはできる。

しかし、無数の焼夷弾が不気味な音を出しながら降ってくる最中、炎へ向かって突進して行くのは、ひどく勇気のいることであった。それでも決死の覚悟でその渦中へ飛び込み、何とか4台は類焼から救うことができた。

 地獄絵のような空襲が終わり、朝がやってくると、甲府の街はすっかり焦土と化していた。これだけの被害を受けながら、味方はただ一機の迎撃機も飛ばすことは出来なかったし、一発の高射砲すら撃った様子がなかった。一方的に叩きのめされたようで、軍人としてなんとも情けなかった。

ただ、甲府周囲の主要道路にトラックが配置され、罹災者の輸送や食糧の配給、死体搬送などに活躍しているのを見て、少しほっとしたという。小松原雄二郎先生の言う「お国に少しご恩返しができた」思いだった。

宋定国さんの決死の活躍を、だれかが見ていたのだろう。敗戦の日の翌日、甲府第六三部隊の中村中隊長は、数ある兵士の前で宋さんの活躍を高く評価してくれた。皆の前へ一人だけ呼び出された時は、何事かと不安だったが、中村中隊長は宋さんの活躍の様子を皆に発表した後、「宋定国君、ほんとうに有難う。よく戦ってくれました。心から感謝します。とうとう日本もこういう破目になってしまい、君に報いることは何ひとつできないが、この絆をこれからも末永く保っていきましょう」と言ってくれた。


まもなく甲府第六三連隊は解散し、将兵は全員それぞれの郷里へと帰って行った。わずか二ヶ月だったが、宋さんには、全く命懸けの軍隊生活であった。

 最後に宋定国さんは忘れられない光景を見た。それは、敗残の兵舎を去るときの日本人の姿であった。多くの将兵に悔しさがあったはずである。鬱憤ばらしにガラスの一枚も割って行くのが人情というものかもしれない。しかし、兵舎はきちんと整理整頓され、掃き清められてチリ一つ落ちていなかった。

それを見て、宋定国さんは、「この国は必ず再興する」と思った。台湾の戒厳令が解除されてから、何十年ぶりに訪日した宋さんは、命懸けで戦った思い出の地甲府を訪れた。予感は的中し、見事に復興した甲府市が眼前に開けていた。熱いものが、止めど無く流れ落ちた。


 変わり果てた故郷台湾


 連隊の解散によって、宋さんは高座海軍工廠の寄宿舎に帰った。敗戦を機に全国に派遣されていた台湾少年工の仲間も、すべて帰ってきた。頼みの海軍は解体され、今は異郷と化した地に面倒を見てくれる者はいない。前途は不安に満ちていた。一部の少年は自暴自棄になり、すでに新聞種になってもいた。

しかし、そのことに問題意識を持った宋さんなど中学校卒業者は、台湾省民自治会という自治組織を結成し、自らの力で神奈川県や外務省と食糧の調達から帰還船の準備まで交渉することにした。宋さんも甲府63連隊の実例をあげ、「飛ぶ鳥は跡を濁さず」と規律の回復を説いて回った。虚脱と不安を抱えた8000余名の少年を、混乱の淵から見事に結束させた、20歳を最年長とする当時のリーダーの奮闘ぶりは、いまも語り草である。
宋さんの属する台湾省民自治会台北州大隊を乗せた病院船氷川丸は、昭和21年1月29日、浦賀港から出航した。不幸にも船中で天然痘が発生したため、九州の唐津港で一週間停泊して状況を見、2月10日に基隆に着いたが、検疫のため更に9日間港内へ入ることが許されなかった。その船内には、後に台湾建国の父と仰がれる李登輝さんも乗船していた。司馬遼太郎の台湾紀行には、このとき台湾少年工が船内で暴れたように書かれているが、事実は全く異なるという。

ようやく上陸許可が下りたのは、2月19日であった。船が基隆港に入り、岸壁に近づいた瞬間、だれもが呆然となった。基隆港で見た三年ぶりの故郷は、想像もできない姿に変わっていたのである。銃の両端に破れ傘と鍋を吊るした、みすぼらしい身なりの中国兵がいた。規律は最低だった。 

 敗戦と同時に、祖国と信じていた日本に放り出された少年たちは、今まで敵としてきた「中華民国」に、将来への夢を託していた。しかし基隆港の警備をしているだらしない身なりの中国兵は、その夢を一瞬のうちに打ち砕いた。

 宋さんは、戦後中国人になったと得意になっていた仲間の一人をつかまえ、「おいX,これがお前たちの何時も威張っている中華民国の兵隊だ、よく見ておけよ」と言ってやった。彼らは立ち竦んでいたが、しばらくして、「あれは兵隊ではない、きっと何かの雑役だ」と絞り出すように答えた。

 当時の中華民国の軍隊は、自給自足が建て前なので、各人が鍋釜を担いでいた。かっぱらいが始まったのは、その日の糧秣を調達するためであった。商店から代金を払わずに品物を持ち去るなど、当たり前だった。
当時の中国軍の事情については、朝日新聞の論説委員だった神田正雄氏が、戦前に出版された「謎の隣邦」(昭和16年、○○書店刊)に詳しく書かれている。それを読むと、台湾人が戦後に直面した驚きと困惑の謎が解ける。


 「支那の軍隊は、鉄砲を担いでいるから兵隊であるが、実は無職の無頼漢である。勝てば略奪して進むし、負けるとまた略奪して逃げる。彼らにとって勝敗はものの数ではない。広東の軍官学校で養成された士官、下士官は近代支那においては、精鋭無比と称せられている。事実、長江沿岸に進出するまでの勇敢な行動は、日本軍に舌を巻かせたが、それら将兵は多く戦死してしまった。

これを指揮する司令官も、てこずっている。旧式な軍隊慰撫の方式で彼らを激励する以外に方法はない。すなわち「諸君はいま艱難と戦い困苦を忍ばねばならない。しかし南京、上海を占領する暁には、必ずその労苦は報いられるだろう」と暗に略奪を仄めかし、物欲の満足を示して不平を和らげるのである。よい鉄は釘にしない。良い人は兵にならない。

しからば兵はどのように募るのか。「招兵」と書いた紙の旗を立てて、盛り場を一巡する。続々と後ろからついてくる無職者、無頼漢、乞食、数だけは間に合わせる。間に合わせの服を着せれば、わら人形も兵隊になる。
これらの無職者、宿無しは、平素から野宿、寒暑飢餓に耐える訓練が出来ている。射撃はその場で現金を渡して上達をはかる。文明国流の軍隊の精神的な訓練など不要である。

 乞食をしようか、それとも兵隊になろうか。ままよと、銃を取った弱いのと、土匪で居ようか兵隊になろうかといって、間一髪のところで軍隊に入った強か者との集まりである。支那の兵隊ほどおそろしく危険なものはない。」 

                     
教師として再出発


 帰郷すると宋さんは、まず小松原先生を訪ねた。日本への帰還船を待っていた先生は、宋さんの訪問をたいへん喜んでくれたが、いつか別れの挨拶も十分に出来ぬ間に、あわただしく帰国されてしまった。困窮していた先生に、何もしてあげられなかったことと、228事件が起きたり、白色テロの嵐が吹き荒れたりして、音信が途絶えてしまったことを、宋さんは長い間悔いていた。

 宋さんは、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかず、仕事探しをはじめた。しかし戦後の台湾は何もかもが変わってしまい、なかなか適当な仕事はなかった。縁あって、学校の教師をすることになった。しかし状況が大きく変わった点では、学校も例外でなかった。

 戦前は台北高校の教師で、戦後はアメリカ大使館員だったジョージ、カーの著した「裏切られた台湾」によると、大陸からやってきた中国人は、先を争って、日本人が占めていた職につき、目先の利く連中が、うまみのある仕事を独占したという。給与の額より賄賂のチャンスがどのくらいあるかが、彼らの物差しであった。教員などは彼らの価値観からすると、最低の仕事だった。そのため、教員には最も能力的にふさわしくない、他の仕事にあぶれた連中が就いた。まともに字が書けない者、計算さえ出来ない者もいた。

 教師になった宋さんにも、いろいろ悩みが生まれた。まず北京語の勉強から始めなければならなかった。日本の統治時代を、肯定的に評価するのもご法度であった。大陸から逃げてきた国民党政府にとって、台湾人の日本への回帰は、最も警戒すべきことであった。中国人の教師仲間から、「宋定国は親日的だ」と何度も批判された。つい本音が出てしまうからであった。



 日本の近現代史を正しく理解する教材として



台湾の戦後教育は、中国一辺倒の教育であった。そこに台湾や台湾人の立場はなかった。日本が登場するのは、反日教育の材料としてだけであった。これは今日の中国大陸における教育にも共通している。

 宋さんは矛盾を感じながら、自分を今日あらしめてくれた小松原先生の教えを忘れず、常に生徒の目線に立って、人間を大切にする教育を心がけた。

 教え子からは、多くの人材が輩出している。立法委員(国会議員)として活躍している陳建銘氏もその一人で、「全くすばらしい先生だった。人間のあるべき姿を、常におだやかに、身をもって実践されていた」という。

 人の良さが裏目に出て、宋さんは教職を最後まで貫くことは出来なかった。他人の保証人となって多額の負債を背負い込み、教員を辞めなければならなかったからである。教職を離れた宋さんは、退職金で負債を返済すると、縁あってあるホテルのマネージャーになった。

だが人生は、何かの縁でつながっているのだろう。ある日、そのホテルに千葉県鎌ヶ谷市の人が来た。宋さんは、小松原先生の実家が鎌ヶ谷だったことを思い出した。そしてその客の親切で、小松原先生と翌日には連絡がついたのである。

 小躍りする気持ちだった。昭和51年のことで、台湾の社会もすでに安定していた。宋さんは、同級生と相談し小松原先生を台湾へ呼ぶことにした。台北郊外の北投温泉「華南大飯店」に、社子公学校の同期生75名が集まり、小松原雄二郎先生歓迎謝恩会が盛大に開催された。だれもが笑顔で先生を迎え、眼を潤ませて「仰げば尊とし」を斉唱した。同期生は金を出し合い、先生に洋服から靴、時計まで、全てを新調して贈った。先生は非常に喜ばれ、「教師冥利に尽きる。私はもう死んでも思い残すことはない」と言って帰国された。

 翌年宋さんは、お家族から「先生が重病」との連絡を受けた。直ちに先生を飯田橋の病院に見舞い、六日間必死に看病したが、祈りは通じなかった。「宋君、ありがとう、もういいよ」という言葉が最後だった。悲しみがこみ上げてきた。


 敗戦の年、台湾の就学率は92,5%とだったが、イギリスとオランダの支配していたインドとインドネシアでは、わずか数%に過ぎなかった。台湾のこの高い就学率こそ、半世紀にわたる多くの日本人教師の献身的努力の偉大な金字塔である。(そこには、多くの台湾人教師の努力も当然含まれている。むしろ日本統治の後半期には、優秀な教師は圧倒的に台湾人だったという。)

 宋定国さんのケースは、それを具体的に裏づけるものである。日本統治時代の一日本人教師の指導を徳とし、今も師と慕う台湾人の美しい報恩の物語である。台湾には、この種の話が実に多い。

そうした意味で台湾は、私たちの父祖の時代の日本を、曇りない眼で見ることのできる、最高の教室であると私は考えている。宋定国さんの海を越えた墓参りが、日台をつなぐ懸け橋として、また日本人が自国の近現代史を正しく理解する教材として、これからも可能な限り続けられることを、心から祈りたい。

転載元転載元: 千葉発日台共栄

http://harikyusiatuharii.eshizuoka.jp/e1876217.html

鍼灸指圧は一酸化窒素とATPの分泌を促進することで、ミトコンドリアを増強できると推定される。


ヒトの細胞内には平均で300個ほどの

ミトコンドリアがある。

このミトコンドリアは20億年前頃の

αプロテオバクテリアという細菌が起源だ。

例えば細胞核というものも、

現在ではウイルスが起源かもしれないと

囁かれている。

細胞内にはミトコンドリアの他に、

プロテアソームという解毒器官があるが、

これも独自に分裂できるので、

かつてはウイルスや細菌のようなものだったと

推定されている。

リソソームという液胞も同じような起源だろうか。

ウイルスやバクテリアなどの様々なタイプの原始生命体が

共生的に融合したなかで、

奇跡的にうまくいったのが真核生物だった。

ミトコンドリアは宿主が獲得した栄養素を

タダでもらう見返りに、

酸素を解毒しATPを大量に産生した。

そうして、長い年月が経過して、

完全に細胞内小器官になった。

近年、ミトコンドリア論がブームとなり、

ミトコンドリアを活性化すれば健康になる、と

いう論調が幅を利かせている。

だが、ミトコンドリアは今や単独では決して

行動できない。

細胞核DNAの管理下で働くのがミトコンドリアだ。

だから細胞とミトコンドリアをわけて、

あたかもミトコンドリアを主体に語る論議は、

的を射ていないのだ。

ミトコンドリアは細胞核を酸素の酸化毒から守るために、

ネットワーク状につながってガードしている。

この天然の脱酸素剤、エイジレスを抱え込んだから、

真核生物は地球の覇者になれた。

昆虫も軟体動物も植物もみなミトコンドリアを抱えた真核生物だ。

皮膚を押すと一酸化窒素とATPが分泌される。

一酸化窒素にはミトコンドリアを増強する作用が確認されている。

ATPはミトコンドリアがおもに産生するホルモンだから、

ATPの分泌が高まればミトコンドリアがさらにATPを

産生する正のフィードバックが起動すると見込める。

つまり鍼灸指圧は一酸化窒素とATPの分泌を促進することで、

ミトコンドリアを増強できると推定される。

ミトコンドリアは胃から出るホルモンのグレリンでも増強される。

グレリンは空腹時の胃の蠕動運動に伴い分泌されるホルモンだ。

私が患者の足の三里というツボを押すと、

患者の胃が蠕動運動を起こしグーグーと患者の胃が鳴るのは

日常茶飯事だ。

足の三里というツボは古来から生命力を高めるツボとして

よく知られている。

まさに足の三里はグレリン分泌を通じてミトコンドリアを増強し、

生命力の源であるATPの産生量を引き上げるのだ。

足の三里とグレリンとミトコンドリアをつなげたのは、

私が初めてだろう。

文献データを臨床レベルと融合する。

それが私の持ち味だ。

http://www.geocities.co.jp/MotorCity/2790/honda2.html#itiman

小さな事ほど大きく怒られた


●Z360のLPL(開発総責任者)の時の夏の事です、試作車が出来ていよいよ
おやじさんに乗って貰う事となり、当時荒川のテストコースに夜、特別に招待し
「社長、お願いします!」と乗って貰いました。

おやじさんは全開で上流の方に走り去って行った 、我々は期待して待っていたしかし
なかなか帰って来ないので「おかしいぞ!」と思っていた矢先、バイクだけが戻ってきた
コース管理のYさんだった。

駆け寄った我々に「向こうの端で車のタイヤが飛んで、、、」我々は一瞬血が
凍りついた、そして何か口々にわめきながら直ぐ近くの車に飛び乗り駆けつけた。

事故の地点に着く、闇の中に傾いて止まっている車の横の草むらにヘッドライトに
照らされにおやじが立っているのを見た時、やっと我を取り戻した、
「社長大丈夫だったですか?」との問いに
「おう!、、、タイヤはあっちの方へ行ったぞ!、、」との威勢の良い声に我々は一斉に
草むらへ飛び込んだ。タイヤを見つけて帰って来た時、もうおやじさんは帰った後だった。

その夜はまったく眠れなかった、社長に怪我のなかった安堵感と、明日なんて謝ろうか
という考えで一杯だった。

次の日の朝、Z360のテストPLのkさんと気もそぞろで社長室の前でどんなに
怒られるか?と首を覚悟で待っていた、そこへ元気に顔を出したおやじさんに、
どうもすみませんでした、、、」と言うと肯いて直ぐ「おう!あれ出来たか?」と
全く関係のない部品の状況を聞かれた、一瞬何がなんだかわからなくなった、
完全に拍子抜けだった。

後で上司に報告をしたら「そうなんだよ、おやじは本人が気が付ついていない事は
やたら怒るけど、本人が良く判って反省している失敗は決して怒らないんだよ!」と。

私はおやじさんの偉大な面を一つ体得した。


本当に社員の事を考えていた社長だった


●ある日曜日の昼過ぎの事だった。 突然守衛所へおやじさんから電話がかかって
来た。
「おい、今、テレビを見ていたら志木市(研究所のとなりの町)で火事だと
言ってたが、うちの従業員は大丈夫だろうな!直ぐ調べなさい!もし居たら
出来るだけの事をしてやれ!」
守衛所は大急ぎで電話をかけまくって場所を突き止めたところ、本当に丁度
海外出張中の人のアパートが全焼して仕舞っていた。

勿論、十分な対応をされた事になったが、その事より普通「会社は大丈夫か?」
はよくある話だけど「うちの従業員は大丈夫か?」と休みの日にわざわざ電話してくる
おやじさんに、本当に人間としての温かさを感じて胸が一杯になった。


絶対悪いものは出すな!

●図面を書いている所に突然所付から連絡が入った「おい!今、狭山工場の応接室でおやじが
怒っている、直ぐ行って呉れ!」、私は管理から車を借り飛ばして行った。
いくら関越高速道路を飛ばして行っても、狭山工場迄1時間は掛かる、私は何が怒られて
いるのか判らないまま色々思い巡らしながら走っていった。

心の中では、いくら何でも1時間も経てば怒りも収まっているだろうと密かな
期待を持ちながら、待っている部屋に飛び込んだ。

しかし期待は空しく外れて、おやじを囲んで工場長や所長等5〜6人首をたれていた
私が入って行くと、「バカヤロー、ここへ来い!」と又火の手が上がった、怒っている
内容は、S600のリヤーサスペンションの騒音がうるさいのは、ある部品の作り方が悪い
というもので有った、決して欠陥につながるような問題ではなかった。

そこで散々やられている最中に、窓の外をS600を満載したトラックが工場を出て
行こうとしているのが見えた。そのとたん「あれは何だ!こんな問題が有るのに
なぜ出荷するのだ!!直ぐ止めなさい!!誰が許可したんだ!!」と。

皆は一斉に飛び出してトラックの前に行き大手を振って止めて連れ戻した。
工場長は潔く「私が指示しました」と申し出て、罵声の嵐を一身で受け留めていた。

私は、工場長も格好良かったが、それよりそれまでして悪い品物は絶対外へ出さない」
というおやじの執念ともいえる姿勢に頭が下がった、何処かの血清会社とは大違いである。

其の後で聞いた話だが、私が到着する前におやじは怒りのあまり机の上の灰皿を机に
叩き付けた、との事、確かに応接間の立派な机に鋭い傷痕があった、あの傷痕のある
机は今もあるだろうか?
S600室内

一万回に一回でも百パーセント

●これはあるテスト室での話
おやじは部屋にいて机に向かっている事など殆どない、暇さえあれば現場に行って
色々な部品を手に取ったり、眺めたりして、研究者と意見を交わすのが日課であった。

ある日、構成部品が故障するという問題が発生した、早速おやじが手にとって、ああしたら
どうだ、こうしたらどうだと意見を出していた、アイデアマンのおやじは相変わらず
とんでもない様な珍案奇案をポンポンと出していた。

その各案があまりにもコストの高くなりそうな様子にたまりかね、担当者が「社長この故障は僅か
一万回に一回位ですから僅か0.01%の故障率です、対策しなくても大丈夫ですよ!」と言った。

とたんおやじの顔がサッと変わり、いきなりカミナリが落ちた、「バカヤロウー、、
その一個を買ったお客さんにとっては100%の確率じゃないか、何を考えているのだ、、
そんな事が判らんのか!、、」
それから暫くカミナリが鳴り響いたのは言うまでもない。

私は常にお客さんの立場に立って物をみるおやじの考え方に、完全に心が洗われる思いだった。

明日の朝まで作っておけ!

●おやじさんは本当に時間に厳しい人であった、ある日の午後トラブルを起こした部品で
散々怒られた後「今日中に図面を書いて俺のとこへ持って来い」と言われた。

私は必死になって対策図面を書いていた、無情にも時間は刻々と夕方へと刻んでいった。
やっとの思いで図面を書き上げた私は原紙のままおやじを探したが見つからなかった、
いつもはもう会社から出る時間なので、私は一人で玄関でおやじが出てくるのを待っ事にした。

やっと出てきたおやじに図面を見せようとしたが広げる所がなかった、仕方なしに
おやじの車の横のアスファルトの上に図面を広げ必死に説明をした。
「そうだよ!これでいいんだよ、判ったか!いいか、明日の朝までに作っておけ!」
言い残すとおやじは愛車に乗り走り去って行った。

一難去って又、一難、何しろ明朝迄に部品を完成しなければならない、私は必死に
なって開発管理室に飛び込んだ、ところが幸いな事に開発管理室はこのような事態に
慣れていた、早速試作等の関係者を呼び「分」単位の試作日程を立てその日の夜中迄と
明朝からの予定を作って関係者に配って作業に入って呉れた、私は心配で、遅くまで
加工している現場に何回と無く足を運び状況を確認せざるを得なかった。

普通、日程という物は字の様に、日にち単位であるがホンダは違っていた「分」単位で
複雑な試作工程の計画を組み、一刻でも早く物ができるように知恵を集結していた。

翌日の朝一番でおやじさんが来た「どうだ出来たか?」しかし残念な事にその部品
はまだ完成していなかったが、「分」単位の加工予定を説明してやっと納得してもらった。
勿論其の日のうちにおやじさんに物を見せる事が出来た事は言うまでもない。

兎も角、「1分1秒でも早く良いものを作りたい」というおやじさんの心意気に共感
した皆が結束した毎日であった。

http://kujirabiyori.jp/hpgen/HPB/entries/13.html

驚異の鯨のパワー!”バレニン”をご存知でしょうか?

鯨の赤肉は、高たんぱく質で、低カロリー、低脂肪で、

現代人の私たちの食材としてとても体に良いことはわかっていたのですが、

加えて”バレニン”という成分が、疲れている私たちの体内に対して

抗疲労成分として、私たちを元気にする!ということが研究の結果わかりました。


■疲労大国日本 日本人の6割が慢性的にお疲れ中

1998年に厚生労働省が行った疫学調査によると、日本人の3人に一人(37%)が半年以上も
慢性的に疲れを感じており、半年未満の疲労を感じている人(22%)を加えると、日常的に疲労を
感じる日本人は6割(59%)にものぼっています。日本は立派な”疲労大国”です。
大げさに言えば、日本の作業能力の実に6割が低下している、ということができます。


■肉体疲労も精神疲労も、活性酸素が疲労の原因!
注目の抗酸化成分「イミダゾールジペプチド」

私達が感じる疲労には、肩こりや眠気などの肉体的疲労と、イライラややる気のなさなどの
精神的な疲労とがあります。疲労のメカニズムは十分には解明されていませんが、ストレスや
過度の身体活動により活性酸素が大量発生すると、体内のバランスが崩れ細胞機能が低下し、
作業効率が低下することがわかっています。このことから、肉体的な疲労も精神的な疲労も、
どちらも活性酸素により傷つけられた細胞が、その働きの低下をシグナルとして脳につたえている状態
であり、この状態が疲労ではないかと考えられています。つまり、疲労の原因のひとつである活性酸素を
除去し、酸化ストレス状態を抑えることができれば疲労は軽減される、というわけです。
活性酸素は体内を酸化(=サビつかせる)させますが、抗酸化物質は、細胞を活性酸素から守り、
生活習慣病の予防や老化を制御し、疲労を軽減する働きがあります。
この抗酸化作用を持つ抗酸化成分にはいろいろありますが、最近注目されている成分がアミノ酸の
一種の「イミダゾールジペプチド」です。

■イミダゾールジペプチド 疲労回復+疲労予防=抗疲労力の高さにも注目!!

イミダゾールジペプチドは、抗酸化および活性酸素の消去機能のほかに、筋肉持久力アップや
疲労防止、疲労回復機能を持つことがわかっています。イミダゾールジペプチドは高い抗酸化力に加え
抗疲労効果がずば抜けて高いことから、今、注目されているのです。
「抗疲労」とは、疲労からの復帰を早める”疲労回復”と、疲労しにくい状態を作る”疲労予防”の双方向から
疲労に打ちかつという考え方で、この概念に基づき、現在、さまざまな食品や製品が開発されています。
イミダゾールジペプチドは、マグロなどの回遊魚や渡り鳥など長時間連続した運動をする動物に多く
含まれていますが、抗疲労効果があるといわれる食品成分の中でも、特にその効果が高いことが
実証されています。

■イミダゾール ジペプチドの種類 渡り鳥の「カルノシン」回遊魚の「アンセリン」

ペプチドとはアミノ酸の結合体のことで、「イミダゾールジペプチド」とはヒスチジンとアラニンとい二つの
アミノ酸が結合したもので「カルノシン」「アンセリン」の2種類がよく知られています。
カルノシンはB-アラニンとヒスチジンからなるジペプチドで、鳥類に多く含まれています。
カルノシンが豊富なことから、渡り鳥は数千kmを飛び続けることができると考えられており、常に翼を
うごかし続ける胸肉部分に豊富に存在しています。
一方アンセリンは、主にマグロやカツオなどの高度回遊性魚類の筋肉組織内に多く含まれて居ます。
これらの魚は、回遊を止めると酸素を含んだ新鮮な海水がエラに入らず、死亡してしまうため、終生泳ぎ
続けますが、長時間・長距離を泳ぎ続ける運動持久力の秘密が、筋肉中に存在するアンセリンです。


■第3の抗疲労成分「バレニン」発見!! 絶食・不眠のくじらパワーの源!

カルノシンもアンセリンのほかに、最新の研究結果から第3のイミダゾールジペプチドとして注目を
浴びているのが「バレニン」という抗疲労成分です。

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