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トランプの台頭
佐藤則男氏ブログ
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ウオールストリートの大手投資銀行の重役に一冊の本を勧められた。その本は、Eric Hoffer(エリック・ホッファー)というアメリカの哲学者、社会学者の書いた本がある、英語では、The True Believer-Thoughts on the Nature of Mass Movementsとういう本であるが、日本語では、「大衆運動」と訳されている。この本の指摘が大統領選挙共和党予備選のトップを走っているトランプの悪夢のような動きのケースに見事に当はまるのである。 この本は、1951年に発売されている。一口に言えば、ホッファーは、ファシズムや共産主義の発展時に起こりがちな「大衆運動」の本質を明らかにするものである。この本でホッファーは、人間の心の中に潜む“madhousese(狂信行動)"へと向かう原因を突き止めようとしたのである。
ホッファーの基本的な見方は、「近代社会は、大衆が欲求不満にさいなまれ、自己の存在の意味に対して自信を喪失し、自分が役に立たないと感じ始めたときに取り返しのつかない崩壊を起こす」という。まさに、トランプの扇動に侵されたアメリカの大衆は、そうなのである。
アメリカのブルーカラーは、既に、強い欲求不満に陥り、自分の存在に自信を無くし、自分が社会で役に立たないことを感じ、トランプの走るという取り返しのつかない動きに出てしまったのである。
このような欲求に苛まれた大衆は、ほぼ「共同行動」と「自己犠牲」の傾向が生じるとホッパーは説く。大衆の主要な要求は、「無力な自己から逃避」と「急進的な改善」である。大衆の唯一の希望となるのは、急進的な現実変革の要求であり、その実現のために、最も効果的であろうとする理由から大衆運動に参加するとホッパーは言う。また大衆運動に参加することで、自らの個性を結束の固い集合的全体のなかで失うことによって欲求を満たされるという。
これは、極めて鋭い見方であると筆者は思う。
またホッファーによれば、大衆運動の指導者たちの多くは、元々、知的落第者であり知的コンプレッスクを持っているという。アカデミー試験に何度も失敗していたアドルフ・ヒトラーをはじめ、科挙試験の失敗に執着していた太平天国の乱の指導者洪秀全はなどが代表的な人物で、そうした心理的背景から反知性主義的な大衆運動を率いるようになるという。
これは正井にトランプに当てはまるのではないか。
大衆運動はさまざまな運動において交換可能である。1920年代や30年代におけるドイツの共産主義者とナチスのメンバーは表向きは敵対しているわけではなく、共産主義とナチスを日常的に掛け持ちしていた。大衆はふつう効果的な運動なら何にでも参加したがっているのであり、なにも特別な主義と計画とをもった1つの運動に対してだけ参加したいと思っているのではない。大衆運動は、その敵対者を自分たちの潜在的な味方と見なす傾向があり、たとえばヒトラーはドイツの共産主義者を、潜在的な国家主義者とみなしていた。
これは、トランプの支持者たちの考え方と、サンダースの社会主義の考え方が、同居している ことを見事に説明することにつながっている。
エリック・ホッファーの『大衆運動』という本を見ると、この熱狂的な感情による活動こそが「大衆運動」の本質だと語っているような見方ができるのではないかと思う。
それは、大衆の動きというもののメカニズムを解明しようとする醒めた視点である。活動の正しさを論理的に考察するというのは、客観的な思考をしているように見えるが、その背後には、正しい論理が世の中で実現して欲しいという、論理に対する信頼と願いという自分の気持ちが込められているように思う。ある意味では主観を投影しているという、理想の実現を願うところがある。
しかし、現実には、個人の願いにもかかわらず、多くの人は論理的な正しさよりも、感情のロジックで雪崩のように一つの流れを作るということがある。それを外から眺めて、自分はその感情に流されず、人々が感情に流される事象の法則性を、見出そうとしているのであろう。
ホッファーは、大衆運動の例として、宗教運動・社会革命・民族運動などを挙げている。そして、それらが全く同じだとは言わないが、類似点があるという指摘をしている。ホッファーは、「運動は全て、それらに家族的類似を与える一定の本質的な特徴を共有していると主張するのである。」と言っている。
「家族的類似」というのはどういうことだろう。家父長である父親が、もっとも知識や能力がある人間として家族を指導するような、パターナリズム的な面で類似していると言うことだろうか。
これは、宗教運動に著しい現れが見られるのではないかと思う。宗教は気の迷いであると思っている人は、市民運動的な、ある意味では科学的な基礎を持っていると思われる運動に携わっていると、そこに宗教的な狂信があると指摘されるのは嫌な感じがするかも知れない。しかし、活動の内容や方向を十分に理解したのではなく、指導者に対する信頼感から活動を押し進めているとしたら、それは宗教的な活動とあまり変わらないような気もする。
指導者に対する信頼からの活動が、「家族的類似」と呼ばれるものの内容になるだろうか。
これは、トランプ、サンダースに集まっている大衆を見るとよくわかる。
このあとにホッファーは、さらに衝撃的な内容の言明を語っている。
「あらゆる大衆運動は、その支持者の内部に死の覚悟と統一行動への傾向を生み出す。あらゆる運動は、どのような主義を説こうと、どのような綱領を打ち出そうと、狂信、熱狂、熱烈な希望、憎悪、そして不寛容を育てる。運動は全て生活の一定の分野における活動の力強い流れを放出することが可能である。そして運動は全て、盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求するのである。
運動から生じる連帯感は大きなインパクトを持ち、感動によって我々に働きかける。それは、最初は何らかの理解を基にしていても、そのうちに「狂信」に近いものに育つ可能性がある。そして、「狂信」に育った連帯感の方が、運動的には大きな力になるというのが皮肉である。この大きな力は運動の勝利につながるだけに、とてもいいもののように感じてしまうことがある。
しかしホッファーが指摘するように、大きく育った運動には、「憎悪」と「不寛容」というマイナスの要素も見つけることが出来る。これは、反対者に対する「憎悪」が大きくなるという指摘ではないかと思う。そして「不寛容」に関しては、反対者に対するものもあるが、むしろ内部の異端に対する「不寛容」の方が問題としては大きいと思われる。
内部の異端は、直接的な反対者ではないが、全面的な賛成者ではないという点で、指導者のカリスマ性を貶めることになるだろう。場合によっては、この不寛容は、反対者に対する「憎悪」よりも強い「憎悪」を、内部の異端者に感じるものだ。大衆運動の間違いが末期的な症状を呈してきたときに、内部の異端者に対して残酷で非人間的な扱いをしたことがしばしば暴露されている、とホッファーは説明する。
「運動は全て、盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求する」という。ホッファーによれば、運動はそれが発展すればするほど、そのような自主性を殺し、「盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求する」という。
どうであろうか?如何にホッファーの指摘が今起こっているトランプ騒ぎ、サンダース騒ぎを説明しているか、筆者は、感嘆せざるを得ない。
佐藤則男 |

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