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僕が会社を辞めてから2〜3ヵ月後、自転車のクラブの先輩の紹介で、近所の
鉄工所を紹介された。学校の機械科の実習でやったことのある仕事内容だったの
で、とりあえずバイトのつもりで働きはじめた。
そのころ僕は、ドリキン土屋圭市に憧れていて、ガンメタのR32・GT−Rが好き
だった。さすがにGT−Rには手が出なかったので、同じガンメタのR32・2リッター
ターボを買った。
ホイールもドリキンと同じヨコハマのAVSを注文した。それが1991年の11月。
人は、目の前のしあわせには気づかない。
夫婦や恋人同士が、一緒に出かけたり、ゴハンを食べたり、映画を観たり、
会話をしたり・・・
みんな、普通のことが普通にできるのは、すごくしあわせだ。だけど気づかない。
1992年、3月8日。
僕は、自転車の冬場のトレーニングとして、クロスカントリースキーをちょっとだけ
やっていた。この日は、東八幡平スキー場で開催される大会の10kmの部にエン
トリーしていた。
スタート地点とゴール地点が離れていたので、荷物やクルマの移動のサポートを
彼女に頼んでいた。スピードでは、国体クラスや自衛隊の選手に全く及ばなかった
ので、結果は散々だった。
寒いスキー場で、彼女を長時間待たせてしまっていた。
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病気をする前
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母のできごとがあってから時間が経ち、二人の生活は通常に戻っていた。
僕はもう、自転車には乗らなくなっていた。そのかわり、職場に居たチューニング
好きの先輩の影響で、クルマいじりに目覚めていく。
最初は、スピードリミッターの解除から始まり、足回り、マフラー、バケットシート、
4点式シートベルト、車体のカラーリングなどどんどんのめりこんだ。 雪がつもる
と4点式を締めてグローブをはめ、岩洞湖や網張に喜んで走りに行った。
彼女は姐御肌だったので、「男の趣味は、好きなんだったらしょうがない」という
スタンスで、大金を使うのでなければ、許してくれていた。もちろん、パーツを買う
ときは彼女に相談して、OKが出てから買っていた。
当然、彼女にも欲しいものがあって、一度冬のボーナスのとき「タンスが欲しい」
と言ったので、二人で家具屋を見て歩き、2点式の大きなタンスを買った。
人間の気持ちは、ちょっとずつ変わるものだ。二人のあいだも、最初のころの
ように一緒に居るだけで幸せ、というのはいつまでも続かない。
ふたりで暮らすようになって時間が経過し、彼女はなにかイライラしているようだ
った。
僕たちは籍が入ってるわけではなく、僕が、煮え切らない態度で、いつまでも
ぐずぐずしていたからだったかも知れない。
僕はそのころから、職場にいても「自分には、もっと他にできることがあるんじゃ
ないか?」と思うようになっていた。生産ラインにいても自分の手足を縛られてる
ようで、「こんな場所にいちゃいけない」と毎日考えていた。
生産工場は、人間も機械の部品の一部のように扱うんだな。と感じていた。
僕が小学6年のとき、卒業文集でクラスの副担任の先生(学年担任)の紹介記
事のページを書くことになっていた。クラスの誰もがまったくやる気がなく、僕は
自分から立候補して、1ページまるまるその先生の紹介文と、自分で描いたイラ
ストで埋め尽くし、記事を書き上げた。
そして、高校3年のとき、卒業制作(工業高校・機械科)で、機械設計をやった。
何十ページものレポートを提出したあと、担任からみんなの前で「いや〜、Sの
レポートの最後にあった感想文に感動しちゃってなぁ」とほめられ、うれしかったの
を覚えている。
工場に就職してからも、社内報に何度も原稿を投稿していたら、
「おまえ、社内報の編集委員になってみろ」と推薦された。
本当の仕事よりも、楽しくてしょうがなかった。
委員の他のメンバーは、イヤイヤやってる人たちばかりだったので、僕が委員に
入ってからは、毎回僕が担当ページ全部一人で書いていた。
そんなこともあり、僕は毎月6〜7冊の自動車雑誌を読んでいたので、チューニ
ング雑誌の編集の手伝いをしたい、と思うようになっていた。 一時は本気で上京
も考えた。でもそれは、彼女との生活をすてることを意味していた。
そのうち、職場にいても苦痛になってしまい、僕はその会社を辞めた。 でも彼女
は、「大丈夫、大丈夫、ゆっくり考えて決めればいいじゃん」と言ってくれた。
僕は、新しい世界に踏み出す勇気が無く、彼女との生活を選んだ。
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職場では、女性社員が8割を占めていたので、社内恋愛や社内結婚も多く、
僕たち二人がつきあいはじめていた事は、まわりも気づいていたはずだ。
一応、彼女は会社近くのアパートから。僕は実家から通勤している体を
装っていた。
ほとんど僕は、彼女の部屋から通勤していた。僕は彼女とは別の部署に
配属になっていたが、あい変わらず残業が多かった。
夕方、仕事がさきに終わった彼女が、こっそり僕のところにきて、
「今日のゴハン何にする?」と訊いていくこともあり、僕らはほとんど夫婦のよう
だった。
日曜にはふたりで買いものに行った。夏の暑いときは、僕が自転車で八幡平を
登って、彼女はうしろからクルマでついてきた。
僕はこのころ、それまでの自分の人生のなかで一番しあわせだった。
ある年末の仕事納めの日、僕は職場の忘年会で鶯宿温泉に泊まることになって
いて、彼女は部屋で留守番をしていた。僕はあまりアルコールをのめるわけでは
なかったが、仕事だと割り切っていた。
宴会の途中で電話が入った。 僕の実家の弟から彼女の部屋に電話があり、
「実家で母が騒いで手がつけられない」と、SOSを求めてきたのだ。それで、彼女
が僕に電話をかけてきたのだ。
宴会を途中で放りだし、温泉宿の前まで彼女にクルマできてもらい、僕は実家に
帰った。
なんとか母の騒ぎはおさまったが、そのあと母は父と離婚する決心をし、自分の
荷物を引きはらって、母は自分の実家に身をよせた。
しかし、しばらくして、母は首を吊って自殺してしまった。第一発見者は、母の実家
にいた、当時小学校低学年の女の子。僕からはいとこにあたる。
発見したとき、その子はどんな気持ちだったろう。今でも申しわけない気持ちになる
ことがある。
母はもっと早く離婚していれば、きっと、こんなことにはならなかった。
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ふたりはそれからも、土日になるといっしょに過ごすようになっていた。
僕はだんだん、自宅から着替えや身のまわりのものを、彼女の部屋に持ちこん
でいた。
平日でも残業で遅くなると、電話をかけて部屋に泊めてもらうことが多くなった。
僕は正直いって、自宅には帰りたくなかった。
そのころは、母はまだ生きていたが──。
僕の小学校の卒業式の日、普段から体調のよくなかった母は、自ら手首を切っ
てしまい、救急車で病院に運ばれた。岩手医大の精神科の病棟だった。
卒業式の最中に学校に電話がきて、出席していた父が呼びもどされた。
僕が中学・高校のとき、母は精神科の病院の入退院をくり返した。 弁当は父が
作ってくれていたが、僕は父を憎んでいた。
僕が小さいころから、母はいつも泣いていて、父の言動や態度に苦しめられて
いたからだ。
僕は、母が精神科に入院していることは、担任にも仲のよい友達にも一切しゃべ
らず、ずっと隠していた。このことを親友に打ちあけたのは、お互い社会人になって
正月休みに久しぶりに会ったときである。それでも、声がふるえた。
そんな複雑な少年期をすごした僕は、両親に愛情を注いでもらったという感覚が
なかった。でも、そんな僕を、彼女は全て受けいれてくれた。恋人でもあり母のよう
でもあった。
僕は、いつのまにか自宅には帰らなくなっていた。
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冷たい雨が降る初秋の日曜、僕は仕事が忙しく、直属の上司とふたりで休日出
勤をしていた。
でも僕は、仕事をしながらそわそわしていた。
この日は午後から、一関(いちのせき)にある自転車のフレームビルダーのとこ
ろへ行く予定だった。
フレームビルダーは、パイプの材料を切削・溶接・曲げ加工して自転車のカタチ
に作り上げる職人だ。
このとき僕は、クロモリのフルオーダーのロードレーサーに乗っていた。これは
通常のロードレース用のマシンである。
これとは別にタイムトライアル用のファニーバイクという、後輪27インチ・前輪26
インチのブルホーンハンドルを取り付けるタイプのフレームをオーダーしていた。
それでこの日が、そのファニーバイクフレームの完成する日だった。オーダーか
ら完成まで半年以上かかっていた。
なんとか午前中で仕事を切りあげ、
「いっしょに一関まで行こう」と約束していたOさんと、アパートの近くで合流して、国
道4号線を南に向かった。
そこは昔ながらの自転車屋の店がまえで、普通の自転車のパンク修理もするの
だが、店の奥には競技用のフレームの溶接や塗装をする機材が揃っていた。
おそらく、岩手県では初のフレームビルダーの工房だった。
前輪26インチという特殊なサイズのため、カラーリングを頼んだリムで組んだ
ホイールや、パーツも受け取り、納車(納品)が終わっても、店の主人と自転車の
話しは尽きることがなかった。
そのあいだOさんは、冷たい雨の降りしきる店先で、僕のことを待っていてくれた。
「ごめん、遅くなっちゃって、もう帰ろう。」
帰り道の途中で、僕は待たせて申しわけないと思い、コンビニでショートケーキを
ふたつ買った。Oさんをアパートまで送っていって、ふたりで食べた。
僕はクルマに新しいフレームを積んでいたため、どうしても一台の自転車に組み
あげたかった。自宅に戻ってからパーツの組み付けにかかった。
次の日は月曜で仕事だったが、徹夜でファニーバイクを乗れるカタチにした。
自転車乗りにとって、新しいフレームが組みあがることは、クルマの新車が
納車された時に匹敵するわくわく感がある。目の前にあるニューマシンを眺めなが
ら、それをおかずにしてゴハンが食べられるくらいだ。
自転車乗りなら、きっとわかってくれる。
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