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2003年12月。
それまで僕は、フルタイムで働きながら、朝夕は彼女の施設までの送り迎え、そし
て、帰宅してからは二人分の家事をしていた。
それらをこなすのは、「当り前」と思っていた。だが、自分でも段々ちいさな変化を
感じていた。いろんな事に対する「やる気」が無くなっていったのだ。
気分転換と思っていたクルマいじりも、億劫になっていた。
いつもは、彼女の付き添いで通っていた精神科で、僕も診察を受けることにした。
彼女の主治医は、そこの院長先生で、通院で何年も僕が付き添いをしていたので、
二人の事情は、全部理解してくれていた。
やはり僕は、「うつ」になっていた。院長先生が言ったのは、
「これだけ手間のかかる人を、面倒みるのは、すごくエネルギーを使うんです。
今まで、本当に大変だったでしょう」
僕は、やっぱりなぁ、と思った。
そして、抗うつ剤「トレドミン」と2種類の漢方薬を処方され、服用することになった。
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病気の記録
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今朝、少し眠くてウトウトしていたら、
何か焦げ臭いニオイがしてきて… 台所を見たら、 アルミの鍋に入った鍋焼きうどん(スーパーで売ってるヤツ)が、 空焚き状態で、「まっくろくろすけ」。 彼女は、何か食べようと思い ガスコンロの火をつけたらしく、 でも、その事を忘れ 本人は、マンガの本を読んでおりました。 …(疲) |
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1996年。彼女が障害者更生施設に通うようになり、あい変らず僕は、朝夕施設
への送り迎えをしていた。
その施設では、送迎用のマイクロバスもあったのだが、朝は9時過ぎに自宅近く
を通るため、僕が出社したあと彼女が一人で停留所まで歩いていく必要があった。
見当識障害のある彼女には、そんな高度なことはできないので、僕が自分のク
ルマで送って通所させていた。
僕は自分の職場までは片道3kmだったが、施設への送り迎えをすると、一日で
35kmも走っていた。
真夏の暑い日、彼女が猛烈にお腹を痛がった。痛がり方が尋常ではない。特に
みぞおちの辺りが痛いようだ。
その日は、お盆休みの初日で、病院も休みに入っていた。普段、脳外科の診察 を受けているM病院の、救急受付で診てもらった。
あいにく、当直の先生が内科ではなかった。一応診察は受けたが、「胃炎ではな いか?」と、炎症をおさえる薬をもらっただけで帰宅。それで、この年のお盆の予定
は全部キャンセルで、本当の自宅療養。
空腹時はなんともないのだが、ご飯を食べた後の痛みがひどい。 お盆明けに、さっそく消化器科で診てもらったら、エコーの検査で、胆石があるこ とが判明。でも、すぐに手術はできず、胆石を溶かす薬「ウルソ」と鎮痛剤「コスパノ
ン」をもらい、様子をみることになった。
胆石は、脂っこい物を食べたさい、「胆のう」から胆汁が排出されるときに痛みを 伴う。
普段の生活では脂っこい物や、高コレステロールの物は避けるよう食事療法が
必要。 自宅ではもちろんだが、通っている施設の栄養士さんに相談したら、
「低脂肪で低コレステロールの昼食メニューを、特別に作ってくれる」ことになった。 しばらく飲み薬で様子をみていたが、症状が改善されないので、1997年12月、 胆のう摘出の手術をすることになった。入院期間は、約3週間。
手術は、カメラを使った「腹腔鏡下摘出術」。彼女は、脳動脈瘤破裂と水頭症で、 脳室から頭部の皮膚下を通って、消化器官までシャント管が入っているので、消化
器科と脳外科の先生が綿密に打ち合わせを行っていた。
手術当日…というより、本人は自分がなんで入院しているのかもわかっていない。 彼女は、自分の判断で自分の身体を守ることができない。
当日は、全身麻酔で手術を受け、胆のうは摘出された。手術後の説明で、医師か ら石の入った胆のうを見せられた。
手術が終わって夜になり、麻酔が覚めてきたころ、 「今晩一晩は、寝返りをしてはいけませんよ」と看護師に注意された、が彼女はすぐ忘 れてしまう。
その夜僕は、ICUのベッドの横で、クルマのチューニング雑誌を読みながら、彼女が 寝返りしそうになると、身体を押さえて動かないように、ずっと看ていた。
手術後は車椅子を使っていたが、すぐ歩けるようになり、入院から20日後、退院する ことになった。
その日は、昼食を食べたら退院の予定だったが、食事が終わると、彼女が行方不明。 同じ病棟の人たちに訊いたら、
「みんなと一緒に、エレベーターで上に行ったよ〜」 と言われた。
その日は、ここのM病院でクリスマス・パーティーがあったのだ。僕は急いで建物の 7階にある会場に向かった。
大きな会議室に患者さんたちを集め、看護師さんや病院のスタッフの人たちが、患者 や家族の人たちの前で合唱を披露してくれた。
僕は、予定外にクリスマスソングを聴くことになった。 |
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1992年6月。
彼女が一般の病室に移ってからも、僕は毎日仕事が終わると、夕方病院に足 を運んでいた。
このときの彼女の症状は、著しい記憶障害、見当識障害、右半身の麻痺、右目 がぼんやり見える、などだった。
ついさっきまでのことや、その日の日づけ、季節、自分の年齢さえも全然わから ない。
医師からは、危険な状態は脱したので、リハビリ専門の病院に転院するよう、す すめられていた。
ここN病院は、自宅から5km。転院先は3倍の16kmある。 僕は、小さいころからクルマが好きだったので、遠くなっても車の運転は全然苦 にならない。
転院の日が近づいていたある日、N病院のすぐそばの川原で花火大会があった。 患者さんたちは、窓から見たり、病院の庭に出たりして、花火を楽しんでいた。 でも僕は、なぜか花火を見る気がしなくて、病院の建物の壁に反射している花火 の閃光と、カラダに響く大きな音だけを聞いていた。
6月18日、転院。 |
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1992年5月。
意識の無い状態で、大きな手術を乗り越えた彼女の意識が、2ヶ月ぶりに戻っ た。
両親や姉妹や僕の顔を見るとわかるらしいが、右手に力が入らず震えていて、 右ひざも立てることができなかった。 数日して、容体が落ち着いたところで、ICUから一般の病室に移った。ベッドの 上に起きられるようになったら、すぐにリハビリを開始すると言われた。
だんだんに車椅子に座れるようになり、6月に入ると歩行器につかまって、ゆっく りと歩けるようになってきた。
だけど、重大なことがあった。 家族や僕や友達に会って話しをしても、30秒〜1分経つと、誰となにを話していた のか全然覚えていない。
昔からの知り合いの顔はわかるが、新しく起こった出来事が記憶できない。 医師からは、〈前向健忘〉になっていると言われた。 |




