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書庫剣歴50年の思いで

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剣暦50年間に影響や薫陶を受けた先生
 
最終段位で列挙(順不同)
 
教士七段
 
加藤信久(父)、光岡正人(大学剣道部監督)
伊藤富雄、幅田喜一郎、平島邦雄、相模憲正
佐藤寿幸、田中俊雄の各先生
 
教士八段
 
茂田敏夫、倉澤 正、照井寅雄、本屋敷 博
の各先生
 
範士八段
 
音喜多保憲、中澤芳雄(大学剣道部監督)
佐藤博信、岩立三郎、鈴木敏雄の各先生
 
範士九段
 
佐々木季邦(大学教授・剣道部名誉師範)
菅原恵三郎の各先生
 
 
剣道そのものの影響は無いが、剣道並びに自分の人生の最大の恩人
中学剣道部顧問ー安永隆二先生
50代〜七段合格
 
50歳になり、剣暦は40年代に入りました。
40歳代で、あれだけ欲しかった、七段に対する思いもだんだん覚め始めていたが、七段審査の午前の部の最後の年51歳の11月の東京審査では、なんとしても受かりたいと思って望んだが、審査の受審番号が決まり名前を呼ばれたので、受審票を持ってステッカーを垂に貼ってもらう時、私の前に呼ばれた方は白い剣道着と袴で片手に短い竹刀を持っており、何か違和感を感じながら自分の順番が来るのを待ち自分の順番が近付いたので、面を付け椅子に座ろうとした時に、審査会場の係りの方が最初の方は二刀流なので立会いは3回行ってもらいますとの事で、私もすっかり動揺してしまい、椅子に座りながら考えたのは、二刀流とは試合をやった経験があったが審査とはやり方が違うので、思い切って私の尊敬する北海道で只一人の九段だった菅原恵三郎先生が若い頃、二刀流の方と試合をやった時下段に構えて逆胴で勝ったと言う話を思い出し、私もそうしようと思い、自分の順番が来て初めの声で立ち上がり、思い切って下段に構えて、じりじり攻めたら相手の二刀の方は間合いを嫌って下がり、結局お互い一本も打たずに時間が来てしまい、その後中段の方2名と行ったのですが、二刀流の方とやった後はなぜか、お互い試合のようになり全く審査になりませんでした。
結局ラストチャンスと望んだ午前の部の最後の審査も神様のいたずらで終わりました。
二刀の方は武蔵会のSSK先生と言う方で、たまたま一緒に受けていた私と同じ年齢のOOMY先生の知り合いで、返りはSSK先生の車で東陽町の駅まで送ってもらい、駅の近くのレストランで3人で食事をして分かれました。
SSK先生は次の年の宇都宮の審査の午前の部で合格されました。私はその時既に52歳だったので午後の部の第一会場で不合格でした。
この頃から七段は諦めていました、ただ受けないと受からないので、審査は受け続けました。
お金だけが飛んで生きました。
只午前中より切迫感がない分、午後は受けやすくなりました。
また対戦相手の方々も、スピードが遅く、間合も近くなり、スピードでは負けない感じでした。
椎間板ヘルニアの手術から10年を超えた52,3歳の頃から少しずつ稽古後の次の日の朝の起床は楽になってきました。
只、肉離れや、膝の痛みなど加齢による症状がじわじわと出始めました。
ここで考え始めたのは、七段が取れなくても六段で死ぬまで剣道は止める事は出来ないので、振りかぶって一足一刀からガバッと打っていく面打ちは老いてから無理の様に感じ、近間からスナップを利かした、面打ちに変えていかなければ、生涯剣道は無理のように感じ、剣風を変える事を考えました。
只、どうしても大先生方に掛かり打ち込みをやると一足一刀から思い切って打ち込むことを強制されるので、上の先生には掛からない事にしました。
その代わり、子供との稽古では打ち込み・掛かり稽古、地稽古では打つにしても必ず足を使うようにしました。
また大人が多い時は、なるべく元に立たず、子供と一緒に切り返し、打ち込みを行い、右足は地べたを這うように軽く出し、左足で蹴る様にして打つようにしました。
特に効果的だったのは、20秒間で大きい面打ちと小さい面打ちを交互になるべく継ぎ足をしないで一足一刀から連続して打てるだけ打った事と、中学生相手に指し面の合面を何回も連続して行ったことです。
隙は一瞬なので、見えた瞬間に体は反応しないと打つことが出来ません。打つ瞬間に溜めがあると瞬時に反応しません。
それと手首のスナップを習得する為に、父の形見の摸擬刀をテレビを見ながら、腕を振る時は強く振らず、正面で止めるときにスナップで強く打つように心がけました。また右腕と左腕の力を同じにしないと空を切った音が出ないので、左右の腕の力が同じになるようにし、左腕も伸ばすようにしました。(ただ5年後位にやりすぎて小指がばね指になってしまい余りの痛さにやめました。しかし手首だけで竹刀で打つ打力は増しました。)
更に剣道形も、なるべく仕太刀の時は1本目、2本目の抜き技の時は打太刀の木刀が当たる寸前に抜くようにしました。また打った時は打太刀の方の髪の毛に触れる位の所でとめる様にしました。それと応じてから打つまでを間髪をいれずに早く打つようにしました。
いずれにしても工夫あるのみで、先生方には頼らず、「我以外皆師」の心境で子供だろうが、大人だろうが吸収できる事は何でもやりました。
そんなことで、50歳代は過ぎていきました。
審査は必ず受けましたが不合格、ただ市民大会は入賞(優勝2回、準優勝2回、三位2回)の常連になりました。
 
55・6歳頃から、あれだけ辛かったヘルニアの後遺症の腰痛が消え始め、朝もすんなり起きることが出来るようになって来ました。
そうすると不思議に、間合いが段々関係なくなり
「岩立先生の言葉、間合いなんて関係ないよ。」の様な、また「倉澤先生の言葉、加藤お前に地稽古はいらない打ち込みだけやれ」その後100本面打ちをやった効果がやっと出始め、相手が遠い間合いの時は遠くから、近い間合いの時は近くから何と無く簡単に面打ちが出来るようになって来ました。
その後、OKI先生から誘われ、東部支部の稽古に行き出し、TNK先生から「自分が楽に打てる間合いまで攻め込み、そして打ちなさい。」といわれ最初は中々出来ませんでしたが、何が足りないのかを考えていた所、急に「佐藤博信先生の無言の教え」を思い出しなるべく蝕刃から交刃、更に自分の一足一刀に入る時に剣先をなるべく動かさず相手の喉に付ける様にしたところ、誰とやっても、自分のイメージの剣道が出来る様になってきました。
審査に於いても、57歳の京都、東京でほぼ続けて「もう一歩」に入り(この時は、それまで使っていた父の形見の防具がぼろぼろになってきたので、思い切って安い道具を買い胴だけは以前から持っている高い胴にしました。ただ安い防具は「もう一歩」まで合格した時は父の形見の防具をリフォームしたのを着けました。)、やっと自分の審査のパターンなってきたのですが、どうしても一人目が旨くいかず、二人目は結構手応えが有る様な状況が58歳の時も続きました。
59歳の1月末で剣暦が50年になり、51年目に突入したのですが、いままでは偶に相手の起こりがはっきり判る時は有りましたが、不思議に誰とやっても相手の起こりが見えるようになって来ました。そうすると市川で只一人の八段照井先生が以前面打ちの動作と言って殆どスナップだけで打つ動作を見せて下さったのですが、相手の起こりを瞬間的に左手を伸ばしながら右手のスナップを利かせば、無理して飛ばなくても簡単に当たるようになり、そうすると相手が怖くなくなり四戒がなくなりました。
今年の名古屋審査の前に東部支部のOGW先生から、審査だから竹刀をなるべく動かさず張ったほうが良いんではないかとのアドバイスを頂き、名古屋審査に望んだ時順番を待っている時に、ふと思い立ち、蹲踞したときに剣先を相手の喉にしっかり着け、立ち上がりながら一歩前に出るときに、さも突きを出すようにしたところ、今まで相手が直ぐに自分の間合いに入ってきてあわてる事が多かったのですが、その様に立ち上がって一歩前に出たら、相手は一瞬躊躇する様な動作を取り、自分の剣道がやっと出来ました。更に二人目はもっと激しく動揺し間合いを嫌ったので、結局いいところが無しでしたが、自分として初めて審査から、何かを得ました。
その後8月の岩手の花巻の審査では、前日に中尊寺金色堂に高校時代からの念願が叶い、お参りすることが出来、パワーを貰い、これで地方審査は打ち止めと心に刻んで、審査に望みました。
(何回も落ちたお陰で、妻には申し訳ないが、色々な所に行くことが出来、日本の各地を知ることが出来ました。)
審査の相手は以前の私なら苦手としたのですが名古屋審査の教訓を生かし同じように立ち上がったところ、立会いした二人とも動揺したように見え審査で初めて二人にバクバク当たりました。
それで今回の東京審査に望んだのですが、運良く神様の計らいで第二審査場の最後から2番目の組で3人でした。
審査に望んで、平常心と自分の心に勝つことだけを考えて望みました。また相手が誰が来ようと絶対受かる気持ちで望みました。
今回初めての経験は今まで何十回も審査を受けましたが、ある程度は内容が覚えていたのですが今回の審査では、初めの号令で立ち上がった時相手の方が右に回り込んだので、私も合わせると何時ものパターンになるので、咄嗟に何時もの倍以上の声、倍以上の長さの気合を入れた所、相手の方がしっかりした構えに直されたので、よしっと心で叫んだのは覚えていますがその後のことは全く覚えていません。またなぜか今回は審査が終わった後、面を着けた場所に戻って正座し面を取って、しっかり礼をした瞬間に立会いが終わった様な気がしました。
立合いの間に向かう時に礼をし、最後は正座の礼で終わりました。
動画を取ってもらったのですが、見た感じでは、
50年間に習得した全ての技を出していましたし、相手としっかり合気になりながら相手を圧倒している様子が移っていました。
 50年掛かって七段になり、判ったのは
 これでやっと剣術の基本が終わり、これから剣道に移行していくのだと言うことです。
相手があっての剣道
正に「交剣知愛」そして「至誠」
 
本当の意味での生涯剣道の入り口に立ちました。
また50代最後に習得した立合いの極意は
しっかり15度の礼をして三歩で開始線で蹲踞し相手の喉に剣先を着け、初めの号令で立ち上がりながら相手の喉を突き刺すようにして蝕刃まで先に入り、その蝕刃の間で気合を入れて相手と合気になるまで張り合い、相手の気が充実した時に交刃から自分の一足一刀に攻め(この動作を起こす時にどうしても四戒が起きるが、自分の心に勝ち捨て身になることが肝心)ここで待つ、もし相手が居ついて剣先が外れたり、打ちかかる起こりが見えた時は先先の先で打ち、それが一瞬遅れ打ちかかられた場合は対の先で相打ち、完全に遅れた場合は後の先で返し業と言う、剣道の先のセオリーがやっと判りました。
 
最後に範士十段持田先生の様に、どんな相手が来ても相手と同じに使えるように修行することがこれから死ぬまでの目標です。
 
40代 地獄の始まり
 
39歳の時に市川市の国府台に移り市川市剣道連盟に加入し、主の稽古場を国府台道場、国分道場で稽古し30代の最後は良い年に終わりましたが、40歳になる少し前に国府台から田尻に移り、MTNG先生の道場、信篤道場に移りました。信篤に移って約一ヵ月後の5月3日朝目が覚めると体が起き上がらず、激しい腰の痛みが遅い、何とか這い上がって起き、市川東病院の整形外科にいきましたが、特に問題ありませんとのことで、帰りましたがどんどん腰痛がひどくなり、足はしびれ、風呂に入っても右足は熱さを感じることが出来ず、下の子が小さかったので抱っこするのも苦痛で、まして稽古は発症する前の様な、勢いが無くなり、全く自分の剣道が出来なくなり、右足も強制的に命令しないと動かない状態になり、おかしいと思いながら、整骨院に掛かりながら、会社、稽古を続けていましたが、余りにも様子がおかしい私に会社の専務が名倉病院と言う整形外科専門の病院があるので、一緒に行って見ようとの事で、その年の暮れの12月に行き検査の結果、椎間板ヘルニアとの事で、自宅から近いところが良いでしょうとの事で、順天堂大浦安病院を紹介され、直ぐに行ったのですが、担当の先生が問診で剣道をやれる状態なら、牽引とブロック注射で治るかもしれないが、取り合えず検査入院で2月に入院しました。入院後直ぐに造影剤を脊柱に入れて検査したところ、検査を担当した、二人の若い医師の話が聞こえ「造影剤がここでとまると言うことは、すごい重症で普通の人なら、歩けないのにこの人剣道やっているんだって」と驚きの声でした。
検査後、手術しか直す方法が無いとの事で、一週間後に手術を受けました。
ただ重症だったのですが、突発的な発症から手術までの期間が短かったので、手術後の回復は非常に早く医者も驚いていました。退院後半年くらいは稽古はやらず、仕事も軽くやっていましたが、七段審査を受けることが出来るのが来年からなので約1年前の11月から剣道を再開しました。
ここからが地獄の始まりで、それまでも術後は朝布団の中で軽く腰痛体操をすれば10分ほどで起き上がれたのが、稽古の次の日は30分以上も腰痛体操でもがかないと起き上がれなくなりまた術後、術前とは違う腰痛も出だし、稽古が苦痛で死にたい程でした。
しかし六段を取った時40代前半でなんとしても七段を取るんだと心に誓っていたので、取り合えず続けましたが、自分では以前と同じように感じていましたが、周りで見ている先生方からは、腰をかばって稽古をしているので、以前のような勢いが全く無くなったねと言われたが、とにかく受けてみなければわからないと心に誓って、42歳の11月の東京審査に望みましたが、全く自分の剣道が出来ず、敢え無く玉砕、次の年の5月の京都審査も、前日滋賀の友人の道場で七段の先生にお願いし、非常に良かったので、合格するよと先生に言ってもらい、明日はやるぞと思った審査日の朝腰痛が起きて、全く自分の剣道が出来ず、立ち尽くすだけでした。しかしその時立会いは友人の話では非常に良い感じで、一本当たれば合格のような立会いだと審査後言われたが、腰痛でその一本が出ませんでした。その時が現在の様な状態なら受かったかもしれません。
私が合格しないので、無くなった清永先生が倉澤先生八段を紹介して頂、倉澤稽古会にいきだしました。
3回目の宇都宮審査で不合格の後
倉澤先生から
「加藤、お前は地稽古はいいから打ち込みをやれ」
と言われ、腰の痛みをこらえながら打ち込みをやりましたが、効果が出ないので、地元の稽古でも稽古終了後馬嶋さんという方にお願いして、100本面打ちを50歳位まで行いましたが効果がありませんでした。
(効果が出たのはヘルニア手術後の腰痛の呪縛から解放された13,4年たってからです)
倉澤稽古会、地元の100面打ちを行った次の日は本当に地獄で布団から30分以上は起き上がることが出来ませんでした。
40代の審査の大半は5月、11月の季節の変わり目の為腰痛が起き全く自分の立会いが出来ませんでした。
ただ48歳の京都審査では、初めて「もう一歩」に入りました。
ちょうど剣道に嫌気が差し、人生にも嫌気が差し自殺したい様な気持ちが湧き上がっていた頃なので、神様がちょっとだけ、気持ちを変える為に、少しだけ良い目を見せてくれたのかもしれません。
試合では47歳の市民大会の3位を皮切りに、オープン大会3位
49歳の第50回市民大会では優勝しました。
(以後59歳までの10年間優勝2回、準優勝2回、3位2回)
また49歳の時に父が亡くなりましたが、その年の第100回京都大会では偶然神様のいたずらで欠場者の為、2試合行うことが出来、いずれも面で1勝1分けでしたが、神戸に移った父と母の前で私の剣道を見せることが出来たのが、父への最後の親孝行でした。
また、現市川市剣道連盟会長のTKHS先生に連れられて、全剣連主催の合同稽古会にも、十数回行きました。
特に元東京警視庁主席師範の範士八段佐藤博信先生に10度目の稽古をお願いした時
先生は、私の竹刀を掴んで、自分の喉から面に竹刀を移動させた無言の教えは、七段合格の原動力になっています。
また先生に礼をして立ち上がり際、先生が私に「また来いよ。」と言って下さった。言葉は今でも耳に焼き付いています。
いずれにしても私の40代は、地獄でしたが、今考えると、一足一刀、振りかぶってガバリ!!面を打っていくことにこだわっていた、私にスナップを使って打つ面と一足一刀だけが間合いではないことを体得させる為に、椎間板ヘルニアという重症を負わすことによって、剣道を変えさせるための神様のリセットだったのかも知れません。
最後に岩立三郎先生の言葉
「剣道で相手を打つのに間合いなんて関係ないよ。
また七段は格だよ。」
 
30代
 
私の30代は、正に北海道芦別市の時代で、人生で最高の時代です。
昭和60年30歳になる1ヶ月前の3月から、新しく開校した北日本自動車工学専門学校の第一期の教員として採用され赴任しました。
北日本自動車工学専門学校はほぼ全寮制だったので、地元以外の採用の教員は私一人だったので、取り合えず寮監をやらされて学生と一緒に過ごすことに成りました。
芦別市に移動して直ぐに、まず剣道の道場に顔を出しました。
二回目に行った時に防具を持って行き、稽古をお願いしました
私の稽古は直ぐに地元の剣道愛好家の方たちと馴染むことが出来快く芦別剣連に入っていくことが出来ました。
最初の1年間は、仕事を覚えることと学生とのコミニュケーションを取ることが忙しく稽古には中々行けず、剣連の行事に参加する程度でしたが、2年目からは仕事にも慣れ、ほぼ稽古を欠かさず行くことが出来るようになりました。また学生の中である程度学力があり、高校時代に剣道をやっていた者には、防具を持ってこさせ、ストレス発散の為稽古や大会に連れて行きました。
学生の中には在学中に三段、四段を取得したものや、全空知の大会で準優勝した者も居りました。
私も芦別に移った次の年(31歳)に五段の受審年数が来たので、取り合えず受けたところ一発で合格しました。
そのことで余計に剣道が面白くなり、仕事との両立が楽しくて仕方ありませんでした。またその年の11月23日に結婚し、次の年の11月24日に長男が生まれ、父親、教員、剣道と人生が充実始めました。
以後平成6年3月末まで、芦別で教員と剣道を両立させました。
この間平成3年11月25日東京審査で念願の六段に3回目で合格しました。
また翌年の平成4年11月26日に錬士の称号を頂きました。
この辺までは順風満帆でした。
六段受審に際しては、尊敬する地元で唯一人の七段尊敬する幅田喜一郎先生から尊い助言を頂、父の助言と合わせて六段審査二望み、正にその通りになりました。
頂いた助言は
埼玉県の楢崎九段を囲む会で、お風呂に一緒に入った時、楢崎先生に、攻め・打ちを聞いたところ、楢崎先生曰く
「お互いの気が充実したら、機を見て中心を取って攻める、そこで相手が崩れたら打つ、もし下がったらまた攻める。つまり相手が崩れるまで攻め続ける」
正に六段審査の二人目はその様な感じでした。
一人目は父の助言が功を奏しました。
父は、「始めの開始後ゆっくり立ち上がり、強い気を出して触刃でしっかり構えていれば、相手がいらいらして竹刀が触れだすからその時自分の間に攻めれ」正にその通りでした。
このときは立会いが終わり引き上げる時に、次に待っていた方や受審を見ている方々が「すごいね」と言ってくれました。
心の叫びが聞こえたあの経験は神がかり的でした。
また試合でも全空知の大会で5段の部3位、6段の部3位
市民大会では連続優勝等がありました。
またこの頃の稽古は、幅田先生にかかる時は切り返しの後5分位面打ちを行った後、地稽古をお願いするのが常でしたし、切り返しも40から50本連続で行うのが私の稽古でした。
それに中学生や高校生で強くなりたいから先生厳しい稽古をお願いします。と言ってきた子供には、虐めの様な稽古に見えるかもしれないがご子息が望んでいるので、多めに見てくださいと親に了解を取ってから、私も鍛えられた体当たりを中心にした掛かり稽古を行いました。
その甲斐あって、同じ地区に全国中学大会に出場していた、新十津川、砂川などと互角に渡り合えるようになりました。それまでは殆ど相手になっていませんでした。
私も剣道人生の中で最高の年代でした。
それと六段を取った頃か、五段の最後だったか忘れましたが
札幌で行われた二日間の中堅者指導者講習会で
全剣連派遣講師ー全剣連事務局長の武藤英雄範士八段
            (武道専門学校卒業)
地元北海道講師主任ー範士九段菅原恵三郎
               (高野佐三郎内弟子)
形の講習はそれまでの(以後も)講習と違い、形の理論的な話でそれまで、かたちだった形が形に変わりました。
特に講義の後の実技でなぜか、私に付きっ切りで直伝で指導してくださった菅原先生の教えは一生の宝です。
このときから私にとって形は、昇段審査や大会等の演舞のものではなく、防具剣道を向上させる手段になりました。
以後、地元の稽古の前には形を打つようになりました。
ひとつ間違えば怪我をするくらい迫真で行うように心がけています。
平成4年10月9日に長男依頼5年振りに次男が生まれたことで芦別に骨を埋める覚悟で居た、私の人生が動き始めました。
子供は一人と思っていた所に、次男が生まれたので37歳の私はこの子を一人前にするには、55歳の退職では一人前に出来ないので悩んでいたところ、38歳の時学校の先生を対象にした日産の技術講習を受けた際、久し振りに千葉県市川市の最初に勤務した会社(現在出戻り)を訪問した際、亡き会長からもう一度着てくれないかと強く誘われ、君が望むならいつまでも働いていいよと言われ、この時は意にも介しませんでしたが、学校に戻った後、校長と退職年齢の延長をお願いしたが、良い返事が貰えず、妻も最初は大反対だったが了解してくれ思い切って
平成6年3月末学校の年度終了を持って、退職し、全ての残務処理等が終わった5月に千葉県市川市に移りました。
約十年間芦別でお世話になりました。
また私の30代は正に芦別の時代でした。
移って、落ち着いた平成7年5月11日に市川市剣道連盟に加入し、国府台、国分を主の稽古場として市川市で剣道を開始しました。
この時一番お世話になった先生が亡き清永先生です。
30代最後の年の市川の1年間は実に楽しいものでした。
 
 
社会人20代
 
小さい頃から、自分の趣味に一所懸命で勉強しなかったツケが回り、社会人としてのスタートを切ったのは昭和55年4月満25歳からです。
20代の前半は学生剣道で自分にとっては、稽古中は命懸けの様な状態で楽しい思い出はありません。
(稽古以外では楽しい思い出が一杯ありました。)
大学卒業後、関東で就職し会社近くのアパートに住み、最初はアパート近くの剣友会に何度か顔を出したのですが、大学でやり過ぎたのか、余り剣道の意欲が沸かず、足が遠のき、仕事も忙しくなり、また飲み屋通いを覚え全く剣道の事は眼中に無くなり2年ほど竹刀は握りましたが、防具稽古はいっさいしませんでした。
(あの時しっかり剣道をやり昇段していれば、また違った剣道人生になっていたと思います。)
昭和57年の6月に訳有って会社を辞め、実家のある北海道江別市に帰りました。
特に仕事が有ったわけでは無かったので、職安通いが始まりましたが、父が取り敢えず気持ちを整えるのに剣道を再開してはどうだということになり、約10年振り位に昔通っていた道場に顔を出したところ、皆が温かく迎えてくれ、無理をしない程度に稽古を始めました。
一月位した昭和57年7月7日の稽古で稽古を始めてから1時間位した時、七段の故伊藤先生(手の握りを教えて頂いた、心に残る師匠です。)が来られ、私は疲れて丁度稽古を終わろうとしていたところでしたが、七段ということでこれは稽古を頂かなければいけないと思い、疲れた体に鞭打って掛かって行きました。
最初は軽い地稽古でしたが、学生剣道出身なので急に心と体が学生になってしまい、つい他の参加者はあまりしませんが、掛かり稽古お願いしますと言って、体がブランクによって衰えていることを忘れ、学生の時の様に猛烈に打ち込んで30秒位した所で、誰かに左足のアキレス腱を蹴られた様な感覚が襲い、激痛と共にひっくり返ってしまいました。
誰よ蹴ったのはと思って後ろを振り返りましたが、誰も居ませんでした。
この時偶然時計を見たら7時37分くらいでした。
アキレス腱断裂です。
不思議なことに
昭和57年7月7日7時37分27歳アキレス腱断裂
入院後この話をしたら、隣に入院していた者が、当時流行ったパチンコのフィーバーをやったら完璧だったのにねと言って
大笑いしました。
その年は、アキレス腱断裂の為剣道は出来ませんでしたが、就職は何とか出来10月から勤め始めました。
この時の就職に関しては、初めて父の意見に従いました。
就職は機械設計の仕事を探したのですが、希望に沿った会社が無く困っていた所、父が折角自動車の2級整備士の国家資格を持っているのだから、ペーパー整備士では無く実力をつけたらどうだと言う父の言葉で、仕方なく札幌で募集していた自動車整備会社に面接に行、社長が見習いの給料と仕事の内容も見習いから始めてもらう代わりに、折角大学を出ているのだから最短で自動車検査員を取らしてやると言ってくれたので思い切って勤めることになりました。
(後にこの仕事が自分の人生を切り開いてくれることになるとは思っても見ませんでした。)
27歳の後半は剣道をやる事は出来ませんでしたが、就職もして落ち着き、アキレス腱断裂も癒された昭和58年4月28歳から稽古を再開しました。
アキレス腱断裂は一時的に自分の得意な遠間からの面が打てなくなりましたが、伊藤先生の助言と父の助言で姿勢、構えをしっかり体得できることが出来ました。
逆にアキレス腱断裂が私の剣道の姿勢を作ってくれた様な気がします
仕事と剣道を両立させようと考えながらの毎日の中で、仕事の疲れを、剣道の稽古が癒してくれるのを感じた時、父が私が剣道を始めてから言っていた言葉が蘇ってきました。
父は私に剣道に強く成れとは一度も言いませんでしたし、優勝しても一度も褒めてくれたこともありません。
ただ一言 「剣道は続けていれば楽しくなる」
この意味が剣道を始めて20年後に漸く判りました。
昭和58年は、私が剣道を本気で再開しようとした年で、偶然にも再開した2ヶ月後の北海道青年剣道大会団体の部で優勝し北海道代表として全国青年剣道大会に出場しました。
北海道大会の決勝戦は私は中堅で、先鋒、次鋒が負け、私が負ければお仕舞いでしたが、準決勝までは余り調子が良くなく皆に助けて貰い何とか決勝に来たので、なんとかしなければならないと思い、始めの号令で立ち上がった瞬間、剣道の神様が降りたのか、相手を物凄い気合で圧倒したところ、小手二本殆ど二振りの様な感じで30秒位で勝ってしまいました。その勢いが後の二人にも乗り移ったのかトントン拍子に勝ち優勝しました。
終わった後の祝賀会ではヒーローでした。
全国大会は3回戦で徳島に負けました。
またこの年4段にも昇段しました。
昭和59年29歳の時は、市民大会四段の部で優勝しました。
どんどん剣道が面白くなってきました。
昭和59年の年末に、人生の転機が来ました。
北海道芦別市に昭和60年4月に開校される土岐学園北日本自動車工学専門学校の教員の募集がありました。
正規教員の要件は
短大・専門学校卒、2級整備士取得後実務経験4年以上
大学卒、2級整備士取得後実務経験2年以上
とのことで私は大卒なので丁度実務経験も2年を超えた所ですし、丁度自動車検査員も取得し、また職業訓練指導員自動車整備科の資格も取得したので、条件に叶い教員に採用されました。
父も母もまた家を離れるのは寂しいが大いに喜んでくれました。
また教員になったことで30代の剣道にも弾みが着きました。
昭和60年の2月に芦別市に移りました。
 
 

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