賭人がゆく

港澳(香港、マカオ)往来25年、人生如賭博。

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先月のエントリー、「帝国陸軍快進撃!香港攻略戦」に関連して、英領香港・九龍要塞陥落の原動力となった若林東一中尉の名言をご紹介したい。
 
●昭和16128日、大東亜戦争開戦に当たり、日本陸軍第23軍は香港攻略のため九龍半島中央部の九龍要塞(ジン・ドリンカーズ・ライン)攻略に着手した。第23軍司令部は、砲兵部隊による1週間の制圧射撃で英軍拠点を潰してから前進する、慎重で組織的な要塞攻略の作戦を計画していた。要塞攻撃は日露戦争の旅順攻略戦以来という事で、この作戦のためだけに強力な「第一砲兵隊」(司令官:北島中将、陸軍砲兵の最高権威)が編成された程である。
 
ところが9日夜、38師団歩兵第228聯隊(聯隊長・土井定七大佐)第3大隊第10中隊の中隊長・若林東一中尉が敵陣地を偵察中、敵軍の配備の隙に乗じて英軍砲撃指揮所を奇襲奪取。あわてた英軍は21名の若林隊を勝手に数百名と誤認し、パニックに陥った末潰走してしまった。若林中隊の報告を受けた土井聯隊長は困惑したものの直ちに聯隊主力をもって若林中隊を援護、付近の英軍陣地を占領したのである。
 
この独断専行とも云える攻撃に、酒井司令官と佐野師団長は「若林中尉を軍法会議にかけろ!」と激怒した。なにしろ旅順攻略戦以来の華々しい大砲撃戦による要塞攻略を企図し、大本営もそれを期待していたのだから当然ではある。しかし英軍に穴が開いたのは事実なので栗林忠道参謀長らが宥め、作戦計画を変更して総攻撃を開始。その結果、英軍は総崩れとなり香港島に敗走し、第23軍は1213日までに九龍半島先端の尖沙咀を制圧した。
 
若林中隊の独断専行事件は若林東一中尉の独断攻撃が発端とする説と、連隊長土井大佐または第3大隊長西山少佐の指示によるものという説の二つがある。しかし第23軍は穏便な事態収拾のためか、大本営および支那派遣軍への報告に「若林中尉の臨機応変の対応」と述べたので中尉の名は全軍に轟き、後に感状が授与されたのである。
 
●この若林東一中尉は山梨県出身。徴兵で入隊して陸軍軍曹の時に、改めて陸軍士官学校を受験して合格したという変り種で(陸士52期)、同期生とは6〜8歳も年の開きがあったが、勉学に励み歩兵科を首席で卒業した。実戦経験もあり、陸軍中央からも将来を嘱望されていた逸材であった。
 
彼の所属する38師団がガダルカナル戦に赴く際、母に宛てて書いた手紙の一節が、冒頭の
「咲いて牡丹といわれるよりは、散って桜といわれたい」
である。自らの生死を都々逸風に表現できるとは、感嘆すべき胆力であろう。
 
昭和1711月、第38師団はガダルカナル島に上陸したが、飢餓とマラリアで戦況は悪化し「餓島」の様相を呈していた。しかし若林中隊は極限状態にあって米軍相手に凄まじい奮戦を続けた。
 
翌昭和18114日、若林中尉は守備陣地で負傷したものの、戦況報告のため大隊本部に出頭、彼の身を案じた大隊長の後退命令を聞かずに部下の待つ陣地に戻り、再び帰らなかった。享年31歳。
 
彼は上司のみならず部下からも絶大な信頼を寄せられており、中隊の某准尉は彼の死を聞くと、「生きていてもしょうがない」と手榴弾を持ちジャングルに消えていったという。
 
その後、若林の功績に対して二度目の個人感状が授与された。日本陸軍で個人感状を二度授与されたのは、この若林中尉ただ一人である。
 
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