賭人がゆく

港澳(香港、マカオ)往来25年、人生如賭博。

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最近、バレンタイン・ディのギフトにチョコレート+ブランド香水という組み合わせが流行っているらしい。なるほど、たしかに『ブルガリ』、『ゲラン』、『シャネル』等のブランド香水を愛用している日本人は多いから、アピール度も高いのかも知れない。
 
日本に於いて西洋の香水が普及したのは戦後からと思われている向きもあるようだが、実は歴史上の人物でも意外な人が使っていて驚くことがある。
 
その一人が薩摩の桐野利秋(中村半次郎)薩摩に伝わる「薬丸自顕流」の剣客であり、通称“人斬り半次郎”して知られている(但し実際に暗殺が確認されているのは一件だけ)。
 
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幕末維新時は薩摩藩士として西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀ら藩首脳の手足となって働き、明治政府では陸軍少将として明治初期の帝国陸軍の基礎を創る。その後、征韓論に端を発する明治六年の政変で西郷隆盛らが下野した際は、西郷と行を共にし鹿児島へ帰郷。同じく辞職した有志の指導による青少年教育施設「私学校」の指導者の一人として、主に開墾事業を主導した。
 
そして明治十年(1877)、鹿児島の「私学校」生徒らが新政府の挑発に乗るかたちで西郷を擁立して決起した「西南の役」に於いて、桐野が主将として活躍したのは皆様ご承知のとおりである。
 
「武骨者」のイメージが先行する桐野だが実は相当ハイカラな人物で、フランス製の香水を愛用し、軍服はオーダーメイドしたフランス製、金無垢の懐中時計など光り物が大好きだった。
 
そんな桐野にとって一世一代の大舞台が「西南の役」である。
 
● 「政府に尋問の筋、此れあり」出兵上京という手段で明治政府への詰問を決めた西郷隆盛と桐野利秋ら「私学校党」は、明治十年二月十五日より熊本方面へ出発。
 
指揮する桐野がかねてから「熊本城は青竹一本でひと叩きごわす」と豪語していたのは有名な話で、彼らは徴兵(一般平民)主体の政府軍を軽く見ていた。
 
そして熊本鎮台の政府軍(三千名)が開城勧告を拒否したため、熊本南方の川尻に集結した薩軍約一万三千名は二月二十二日、熊本城を一斉強襲したのである。
 
「絶叫して夕に渡る太郎山
 眼下に草爾たる熊本城
 手に唾して抜くべし立食の間」
 
ところが熊本城は戦国の名将・加藤清正が知力を傾けて築いた、天下の名城である。それに加えて“弱兵”であった筈の鎮台兵の意外な奮戦により、薩軍は城郭に取り付くことも出来ず攻めあぐんでしまった。
 
その夜の軍議では篠原国幹が損害かまわず熊本城強襲を主張、それに対して野村忍介、西郷小兵衛らが熊本を一隊で攻囲したまま長躯小倉、長崎へ進出する案を主張して紛糾。
 
桐野は当初、篠原と同様に熊本城強襲を考えていたが、結局は長囲策に転換して主力は福岡方面に北上することに決したのである(仮定の話だが、薩軍が全兵力で夜襲または払暁に吶喊斬り込み攻撃を敢行しておれば、兵力差から熊本城は陥落した可能性が高い)
 
この後の薩軍の戦略はちぐはぐなものとなり、田原坂の戦いに敗れた薩軍は九州南部を転々とした末、最後には九月二十四日に 鹿児島市 内・城山で西郷以下ほぼ全員が戦死・自刃。
 
故・江藤淳氏は『南洲残影』(文春文庫)で、西南の役が単純な不平士族の決起では無いことを考察している。現に薩軍将士の中には村田新八、永山弥一郎らの所謂「開明派」が数多く参加しているのである。
 
しかし桐野利秋の行動を見る限り、そこには深い思想性が感じられない。あるのは「薩摩隼人としての潔さ、底抜けの明るさ」である。額を撃ち抜かれて戦死した桐野の軍服からは、香水の匂いが漂っていたという。これも男の「ダンディズム」の一種と云うべきだろう。
 
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