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第八代 執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね
幼名・太郎
建長(けんちょう)3年5月15日(1251年6月5日 生まれ、
弘安(こうあん)7年7月4日(1284年4月20日 没
父は 北条時頼(ほうじょうときより)
母は 毛利氏の祖 毛利季光(もうりすえみつ)娘の葛西殿(かさいどの)
妻は 安達義景(あだちよしかげ)の娘 堀内殿
初代執権(しっけん)は源頼朝の長男の頼家(よりいえ)が頼朝亡き後二代将軍を継いだのですが、
頼家(よりいえ)幼なかったので将軍を補佐する役として、
北条政子の父、時政が初代執権に就いたのです。
時宗(ときむね)は父の時頼(ときより)37歳の若さで病死したので、
時宗は1264年、14歳で家督を継ぎ第八代執権(しっけん)に就いたのです。
それから4年後の1268年、
時宗は18歳の時にヨ−ロッパ、アジアを征服して支配下に治めているモンゴル帝国の、
チンギス=ハンの孫のフビライ=ハンの使者が朝鮮の高麗(こうらい)から九州大宰府に国書を持って訪れたのです。
国書には、日本国との貿易を意味する内容ですが、
狙いは日本を征服しょうとしていたのです。
時宗は一度返書を送れば、次々と難問を押し付けて来る感じ返書を届けずいたのです、
この頃、幕府を批判していた日蓮上人が佐渡に流罪されたのです。
時宗はフビライ=ハンに無視を続けていたので、
1271年9月、モンゴルの使者、趙良弼(しょうりょうひつ)が多数の兵とともに九州の今津に上陸したのです。
この頃、フビライは国名を元(げん)にして日本えの攻撃準備をしていて、
1274年10月、元(げん)・高麗(こうらい)の2万6千の軍勢が九州に向かって攻めて来て、
元軍(げんぐん)は対馬(つしま)壱岐(いき)を攻撃して博多湾に攻め込んできたのです。
海岸には土塁(どるい)堀を築き敵の攻撃を防いでいたのですが、
蒙古軍(もうこぐん)が船上から毒の塗った矢を雨が降るように陸の幕府軍に矢を放ち続け、
毒の矢に当たった兵士の多くは戦死して苦戦をしたのですが。
その夜、大嵐(おおあらし)となり大波に負けた元軍(げんぐん)は壊滅して引き上げていったのです、
文永(ぶんえい)11年の戦いなので{文永の役・ぶんえいのえき}と云います。
1275年、元(げん)の使者が日本国に降伏せよとの国書を持ってきたので、
時宗は使者を斬り殺すように命じたのです。
1281年6月、元(げん)は、
高麗(こうらい)東路軍(とうろぐん)4万人、元(げん)江南軍(こうなんぐん)10万人、
合われて14万人の大軍が九州へと攻め進んで来たのです。
そうして、昼間は海岸で海と陸で弓矢の戦いが激しく続き、
夜になると幕府軍は東路軍の船に夜襲をかけて東路軍を追い返したのですが。
やがて江南軍と合流して四千艘(せんそう)の船で7月再び攻撃してきたのですが、
またも、大嵐(おおあらし)で元軍は壊滅したのです。
この戦いを{弘安の役・こうあううのえき}と云います、
二つの戦いをあわせて元寇(げんこう)と云います。
1282年、時宗は戦死者を弔う為に円覚寺を建てたのですがその2年後、
時宗は病で34歳の若さで亡くなったのです。
1294年、フバライ=ハンも亡くなったのです。
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明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
文永と弘安の役詳しくてよく分かりました。自作の年表に追加させて頂きます。ありがとうございました。
2008/1/2(水) 午後 11:14
明けましておめでとうございます。
北条=蒙古のイメージがあります、執権ていまひとつ分らないです。
2008/1/4(金) 午前 9:32
神風の話しは日本人が大好きな話しだと思います。
もう一つ、判官贔屓、義経も歴史上の人気者、頼朝の追っ手から逃げた義経が大陸に渡り、チンギスハンになって鎌倉幕府を攻めてきた、という話しを、私の母は本当かもしれないと考えている様です。
2008/1/8(火) 午前 11:50
テレビの大河ドラマでも有りましたが、上手い時に
風が吹いたもんですね。
『逆転の人物日本史』を読んだのですが
義経のジンギスカン説、小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』
等、↑の方と意見が一緒です。
2008/1/11(金) 午後 7:28
蒙古襲来、
あの嵐は2度とも日蓮上人がお経を唱えて起したと聞いたことがありましたよ。
日蓮上人が鎌倉で布教活動をおこなっていた頃で、
乱れていた鎌倉時代に。
浄土(じょうどうしゅう)浄土真宗(じょうどしんしゅう)臨済宗(りんざいしゅう)曹洞宗(そうとうしゅう)日蓮宗(にちれんしゅう)が開祖されたと教えられました。
また、奈良仏教と平安仏教とも争っていたとも聞きました。
2008/1/12(土) 午前 0:28 [ さぶろう ]