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千利休(せんのりきゅう)
幼名・与四郎
大永(だいえい)2年、和泉国(いずみのくに)堺で魚屋(ととや)の子として生まれ
天正(てんしょう)2年2月28日(1591年4月21日 豊臣秀吉の怒りに触れに切腹 70歳
父は 田中与兵衛
母は 宝心妙樹
祖父は足利義正の同朋衆
与四郎は17才の時に武野紹鴎に弟子入りしたのです、
そうして、織田信長は武田信玄亡きあと息子の勝瀬(かつより)の強力な騎馬隊と戦うために、
和泉国の堺に鉄砲を買い付けに行った際に。
与四郎が信長を迎えた接待で茶頭を務めそうして後に信長に仕えるようになつたのですが、
1年後、信長は京の本能寺で明明智光秀に攻撃されて自害した後。
今度は名前を宗易(そうえき)と改め豊臣秀吉の茶頭を務めるようになったのです、
1585年、関白に就いた秀吉の後見役として正親町(おおぎまち)天皇に献茶をする際に宗易(そうえき)は正親町天皇から千利休の名を賜ったのです。
天正9年(1591年)秀吉の怒にふれて切腹を命じられたのです、
原因が不明なのですが。
利休(りきゅう)が朝鮮出兵の反対したこと、
女好きの秀吉が利休の娘を側目にしょうとして断られた為とか?
古田重然(ふるたしげてる)または、茶人 古田織部(おりべ)
幼名・佐介(さすけ)
天文(てんぶん)13年(1544年)美濃国本巣群(岐阜県本巣群本巣町山口)で生まれ、
慶長(けいちょう)(20年6月11日(1615年7月6日 京の一条河原で家康の命で切腹 72歳
父は 山口城主の弟で茶人であくた古田重定。
永禄(えいろく)9年1567年織田信長が美濃の斎藤道三の城を訪れた際に家臣として仕え、
信長の計らいで永禄11年、摂津茨木城主の中川清秀の妹のせんと結婚。
天正(てんしょう)4年(1567年)山城国乙訓群上久世荘(京都市南区)代官となり、
天正10年(1582年)織田信長は明智光秀に自害させられた時。
重然(しげてる)は羽柴秀吉とともに、
備中、毛利輝元の高松城を攻撃していたのです。
信長の死後は、羽柴秀吉に仕え秀吉が関白に就くと重然も3万5千石を与えられたのです、
このころには、重然も千利休の弟子になっていて、
そうして名は織部と言われていたのです。
その後、織部は九州の薩摩(島津氏)や小田原(北条氏)を攻撃して、
そうして、加藤清正、福島正則等とともに。
朝鮮に出兵したのですが、
結果は莫大な損失をしながら負け戦さでした。
秀吉に千利休が切腹を申し渡された際に利休を見送った人物は、
織部(おりべ)と細川忠興(ただおき)の二人だけだったそうです。
朝鮮から帰還した、加藤清正、福島正則等と同じように織部の石田三成に不満があったのか、
豊臣秀吉が亡くなると。
慶長9年の、関ヶ原の戦いでは、加藤清正、福島正則、古田織部は東軍側の味方をしたのです、
慶長20年(1615年)大阪夏の陣で。
織部の家来である、木村宗喜が豊臣に内通して京の町に火を放ち(混乱を熾して家康を殺害を図ったとして)木村宗喜は捕まり。
織部も主君として秀吉の孫、国松を匿った疑いで京の一条河原で切腹、
織部の父親も息子の重尚もそうして、木村宗喜も切腹させられたのです。
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はじめまして。
突然のカキコで失礼します。
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2008/5/18(日) 午後 4:54 [ 良 ]
切腹というのは、どうも野蛮なことに思えて仕方ありません。前回の石川五右衛門の釜茹での刑も然りです。
昨今は死刑廃止論者も出てくる程ですし、普段の暮らしから殺害場面や血生臭いものはさっぱり拭い去られています。
でも、つい最近迄、切腹は行われていました。野木将軍などは殉死しています。
日本人も、結構残虐な人種なのだと思うことがあります。
2008/5/20(火) 午後 4:15
訪問有難う御座いました。
そう云えば、随分昔に「千利休」と映画を見ました。
新しい記事になりましたので、またお越し下さい。
2008/5/22(木) 午後 3:42 [ - ]
こうゆう経緯があったのですね。
戦国の世は人はある意味での道具だったのでしょうね。
2008/5/29(木) 午後 9:12