第16代 仁徳(にんとく)天皇
諡号 古事記では、
大鷦鷯尊(おさざきのみこと)
日本書記では、
難波天皇(なにわすめらみのみこと)
父は 応神(おうじん)天皇
母は 仲姫命(いわのひめのみこと)
皇后 武内宿禰(たけのうちのすくね)孫で葛城襲津彦(かつらぎのそつひ こ)の娘で磐之姫(いわのひめ)
皇后 天皇の異母妹の八田皇女(やたのひめみこ)
兄の菟道稚郎子(うじのわきいらつめ)は皇位を譲る為に自害したので す、
皇居 難波高津宮(なにわたかつのみや)
大阪市中央区
257年・神功皇后摂政年(じんこうこうごうせっしょうねん)57年 誕生
399年・仁徳(にんとく)87年 143歳 没
御陵 百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
大山古墳(前方後円墳)
仁徳(にんとく)天皇陵は、
クフ王のピラミット・秦の始皇帝の墓の世界三大陵墓といわれていますが、
仁徳天皇陵は全長475メ−トルと世界最大の前方後円墳といわれています。
都を難波高津宮(なにわたかつのみや)に遷した天皇は、
民家から炊煙(すいえん)がたたないのを見て民(たみ)の貧しさを知り、
三年間、租税(そぜい)を免じたのです。
天皇は武内宿禰(たけのうちのすくね)の五男の紀角宿禰(きのつののすくね)を朝鮮の百済(くだら)に遣わし、
多くの技術者を倭(やまと)に連れ帰り、
鉄、穀物、織物の技術を全国に広げたのです。
そうして天皇は中国、宋都(そうのみやこ)の順帝(しゅうんてい)に貢物(みつぎもの)を届け、
中国文化を学んだのです。
中国では天皇を倭(わ)国王として讃大王(さんのおおぎみ)と呼び認められていたのうです?
雨が降ると水害の多い河内平野の被害を防ぐ為に大工事をするように命じ、
また、全国に水害防止も工事も命じたといわれています。
342年(仁徳・にんとく)30年、磐之姫(いわのひめ)皇后は熊野へ遊びにいった留守中に天皇は八田皇女(やたのひめみこ)を宮中に入れたのを知った、
磐之姫(いわのひめ)は激怒して。
難波高津(なにわたかつ)の宮には帰らず、
山城の国に筒城宮(つつきのみや)を建て移り住んだのです、
天皇、自ら皇后を連れ戻しに行ったのですが、
皇后は拒否したのです。
その後にも、天皇は迎いに使者を行かせたのですが皇后が受け付けず、
磐之姫皇后(いわのひめ)皇后は遠い葛城の郷と残した皇子たちを偲びながら筒城宮(つつきのみや){京都府田辺市}で亡くなり。
仁徳(にんとく)天皇は八田皇女(やたのひめみこ)を皇后に迎えたのです。
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仁徳天皇についての記事を私も更新しましたので、トラックバックをさせて頂きました。
仁徳天皇陵出土とされていて、現在、アメリカのボストン美術館の所蔵となっている、太刀などの遺品の年代についての新しい見解が出された というニュースを、一ヶ月程前の新聞で見ました。
定かには憶えていませんが、古墳の推定築造年代よりも1,2世紀後 (いえ、もっと後?) であるとされていたかと思います。
倭の五王の謎も、なかなか明らかになりません。
2011/9/10(土) 午前 10:39