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第77代 後白河(ごしらかわ)天皇
諱(いなみ)雅仁親王(まさひとしんのう)
大冶(だいじ)2年9月11日{1127年10月18日} 誕生
父は 鳥羽(とば)天皇 第4皇子
母は 藤原公実(ふじわらのきんざね)の娘 璋子(しょうし)
皇后 徳大寺公能(とくだいじきんよし)の娘 藤原忻子(ふじわらのきんし)
右大臣(うだいじん)平時信(たいらのときのぶ)の娘 滋子(しげこ)
天皇は異母弟の第4皇子の近衛(このえ)天皇が亡くなったので父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の意向により29歳で即位したのです、
その翌年{保元元年}鳥羽上皇(とばじょうこう)が亡くなると、保元の乱(ほうげんのらん)が起き、
天皇方についた源義朝(みなもとよしとも)、平清盛(たいらのきよもり)の勝利により危機を逃れ、
在位3年で守人親王(もりひとしんのう)に譲位して、
二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇と5代、35年間{平家の盛衰から源頼朝の鎌倉幕府成立まで}院政に就いたのです。
保元の乱(ほうげんのらん)では、
平清盛(たいらのきよもり)よりも功績をあげた源義朝(みなもとのよしとも)には恩賞が低く、
清盛(きよもり)には播磨守(はりまのかみ)を賜り、
義朝(よしとも)は左馬頭(さまのかみ)を賜ったのですが。
訳は、上皇(じょうこう)の側近で院政(いんせい)を任されていた、
藤原信西(ふじわらのしんぜい)が己(おのれ)を護ってくれている清盛(きよもり)に多くの恩賞を授けたので、
怒った義朝(よしとも)は。
信西(しんぜい)と同じ上皇(じょうこう)の側近で信西(しんぜい)を憎んでいた、
藤原信頼(ふじわらのぶより)と結託して、
清盛(きよもり)が熊野詣で{本宮、新宮、那智}熊野三山に向かった留守中に、
平治元年(へいじがんねん){1159年12月9日、信西(しんぜい)の屋敷、三条殿(さんじょうでん)を夜襲、
信西(しんぜい)を殺し。
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)を一本御書所(いっぽんのぎしょどこと)に、
そうして、二条(にじょう)天皇は黒戸御所(くろどごしょ)に幽閉したのです。
熊野に向かっていた清盛(きよもり)は事件を知り直ぐに京の六波羅(ろくはら)に戻り、
上皇(じょうこう)と天皇を救出し、
清盛(きよもり)は義朝(よしとも)と信頼(のぶより)を討つ為、御所(ごしょ)に攻め込み。
信頼(のぶより)は捕えられて京の六条河原で処刑され、
義朝(よしとも)と長男の義平(よしひら)は、尾張国(おわりのくに){三重県}に逃げたのですが、
家臣(かしん)の長田忠敦(おさだただむね)の裏切りで殺されたのです。
義朝(よしとも)の妻、常盤御前(ときわごぜん)は清盛(きよもり)の寵愛を受け、
幼い3人の子供は清盛(きともり)の義母の池禅尼(いけのぜんに)の救いの言葉で、
お寺に預けられ、
9男の牛若丸(うしわかめる)後の義経(よしつね)は鞍馬山(くらまやま)に預けられ、
3男の頼朝(よりとも)は伊豆に流されたのです。
清盛(きよもり)は1167年、最高職の太政大臣(だじょうだいじん)となり、
翌年には、妻の甥(おい)の憲仁親王(のりひとしんのう)を即位して高倉天皇なり、
清盛(きよもり)が出家(しゆっけ)すると、
摂津の福原で日宋貿易(にっそぼうえき)を発展させるが。
貴族や武士の間で平氏(へいし)に不満を持つ者が多くなり、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)も清盛(きよもり)を警戒するようになって、
1177年、鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀事件で、
法皇(ほうおう)の側近たちが、東山鹿ケ谷山荘の集まり。
平氏(へいし)を倒す陰謀を企ていたのですが
そのことを清盛(きよもり)知り、
その、首謀者の多くは殺され、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は鳥羽殿(とばどの)に幽閉されたのです。
法皇(ほうおう)の皇子、以仁王(もちひとおう)が源頼政(みなもとのよりまさ)ともに兵を挙げ、
以仁王(もちひとおう)は全国の源氏(げんじ)に平氏(へいし)を討てと命じたのです。
この戦いで、以仁王(もちひとおう)や源頼政(みなもとのよりまさ)は戦死、
1180年、伊豆の源頼朝、木曽の源義仲、甲斐源氏、近江源氏、九州菊池氏、四国河野氏、奈良僧兵が各地で反平氏の武士が挙兵したのです。
1181年、清盛(きよもり)が亡くなり、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が院政を再開する、
1185年、壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平氏(へいし)滅びる、
後白河法皇は、源義経(みなもとのよしつね)に兄、頼朝(よりとも)を討つよう命じたが失敗、
1190年、法皇(ほうおう)と源頼朝(みまもとのよりとも)が会い、
頼朝(よりとも)は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)を望むが、
法皇(ほうおう)は武士が権力を握ることに反対したので頼朝(よりとも)は諦める、
建久(けんきゅう)3年3月13日(1192年4月26日 66歳 没
法住寺陵(ほうじゅじのみささぎ)
京都市東山区三十三間堂廻り町
1192年 源頼朝(みなもとのよりとも)は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)に就く。
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この天皇ほど、武士を手玉に取り争わせた天皇はいないんじゃないでしょうか…^^♪
2011/10/16(日) 午後 5:57
今日は朝から雨が降り続け、寒い午後となりました。
天皇陛下の病の報道がありましたが、3月の震災の後、自ら、節電を励行し、暖房を止めていたということがありました。
やはり、無理は、後々に某かの禍を招くのだと思います。 油断せず、しっかり生きて行かなければいけないと思います。
後白河上皇はしたたかな人物でしたが、見習うべき処を 少し 感じます。
2011/11/19(土) 午後 3:34