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第79代 六条(ろくじょう)天皇
諱(いわれ) 順仁親王(のぶひとしんのう)
長寛(ちょうかん)2年11月14日(1164年12月28日 誕生
父は、二条(にじょう)天皇
母は、伊岐致遠女(いぎちのおめ)
天皇は生後7ケ月で親王宣下(しんのうせんげ)で立太子(りったいし)に就いたのですが、
母の伊岐致遠女(いぎちのおめ)の父が身分が低くかったので、
父、二条(にじょう)天皇の中宮(ちゅうぐう)の藤原育子(ふじわらのいくし)を
母として公称(こうしょう)したのです、
乳母は藤原邦綱(ふじわらのくにつな)の娘で成子(せいこ)
親王宣下(しんのうせんか)で誕生7ケ月で立太子(りったいし)に就き、
誕生9ケ月で即位したのです。 {親王宣下とは、皇族(こうぞく)の子に親王、内親王の地位を与えられること}
父の二条(にじょう)天皇は祖父(そふ)の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)とは、親子でありながら対立していて、
また、太政大臣平清盛(じょうだいじんたいらのきよもり)の横やりで、
父の死後に、祖父の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は父の異母弟の、
憲仁親王(のりひとしんのう)に譲位(じょうい)させられたのです。
憲仁親王は後白河上皇(ごしらかわじょうこう)と平清盛(たいらのきよもり)の妻、時子(ときこ)の妹の滋子(しげこ)との間に生まれた親王です。
憲仁親王(のりひとしんのう)は六条(ろくじょう)天皇の3歳年上の叔父なのです。
天皇は在位(ざいい)4年で元服もせず13歳で病のために亡くなったのです。
陵 清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)
京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
源義仲(みなもとのよしなか)
幼名 駒王丸(こまおうまる)
木曽義仲(きそのよしなか)
源頼朝(みなもとのよりとも)義経(よしつね)とは、いとこです。
父は、源義賢(みなもとのよしかた)
母は、遊女(ゆうじょ)と伝えられています
保元乱(ほうげんのらん)では、祖父の源為義(みなもとのためよし)は崇徳上皇(すとくじょうこう)に従い、
叔父の源義朝(みなもとのよしとも)は後白河天皇(ごしらかわてんのう)に従がっていたのですが、
義仲(よしなか)2歳の時に、伯父の義平(よしひら)に武蔵国(むさしのくに)で討たれ、
義仲(よしなか)は乳母(うば)夫の中原兼遠(なかはらのかねとう)の郷、信濃(しなの)の木曽谷(きそだに)で育てられたのです。
そうして、武勇(ぶゆう)にすぐれた兼遠(かねとう)の娘、巴(ともえ)を妻にしたのです、
都(みやこ)では太政大臣(だじょうだいじん)の平清盛(たいらのきよもり)と後白河法皇(ごしわかわほうおう)との対立が激しくなり。
後白河法皇の皇子、
似仁王(もちひとおう)が全国の源氏(げんじ)に平氏(へいし)を討てとの令旨(りょうじ)を送り、
1180年、成長した義仲(よしなか)にも届いたのです。
義仲は、越後から北陸道を京へ進み、
倶利伽羅峠(からくりとうげ)で平氏(へいし)の大軍を奇襲(きしゅう)に成功して、
京に入り、平氏軍(へいしぐん)は西国(さいごく)へ逃げたのです、
義仲は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を名乗ったので、
怒った法皇(ほうおう)は義仲を西国へ出陣(しゅつじん)させて
兵力の衰えの知った法皇は、
鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも)に義仲を討つように命じたのです。
怒った義仲(よしなか)は法皇(ほうおう)を幽閉(ゆうへい)させるために京に戻ったのですが、
しかし、京に戻った義仲(よしなか)の兵は少なくなっていて、
宇治川(うじがわ)の戦いでは義経軍(よしつねぐん)に討ちやぶられ逃げたのですが、
義仲(よしなか)は近江国(おおみのくに)の粟津(あわず)で戦死したのです、
38歳でした、京に上ってわずか半年のことです。
墓所 滋賀県大津市馬場朝日山義仲寺
京都市東山区法観寺
長野県木曽郡徳音寺
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