歴史上の人物

何時まで続きますか解りませんが努力します。

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第80代 高倉(たかくら)天皇
 諱(いわれ) 憲仁親王(のりひとしんのう)
永歴(えいれき)2年(1161年9月23日 誕生
 
父、後白河(ごしらかわ)天皇の第7皇子
母、平清盛(たいらのきよもり)の妻、時子(ときこ)の異母妹の滋子(しげこ)
中宮、平清盛と時子の娘で徳子(とくこ)
 
天皇は、六条(ろくじょう)天皇より3歳年上でありましたが、
父の後白河法皇(ごしらかわほうおう)は我が子、
二条(にじょう)天皇と不仲になり、
病弱の二条天皇は亡くなる前に、
2歳の我が子、六条(ろくじょう)天皇を即位させたのですが、
六条天皇は平清盛(たいらのきよもり)も横槍でわずか3年で譲位(じょうい)させられたのです。
 
天皇は平清盛(たいらのきよもり)の後押しによって8歳で即位したのですが、
父の後白河法皇(ごしらかわほうおう)と祖父の平清盛(たいらのきよもり)との対立が深まり、
天皇は父と祖父との板ばさみになって困っていた時に、
忠誠心(ちゅうせいしん)のあつい平重盛(たいらのしげもり)の没後、
そうして寵姫小督(ちょうひめこごう)との仲を、平清盛(たいらのきよもり)に引き裂かれ、
天皇は、清盛(きよもり)に20歳で譲位させられ。
 
  治承(じしょう)5年1月14日(1181年1月14日 21で没
    後清閑寺陵(ごせいかんじのみささぎ)
      京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
 
 
 源義経(みなもとのよしつね)
  幼名  牛若丸(うしわかまる)
 
父、源義朝(みなもとのよしとも)の9男
母、常盤御前(ときわごぜん)
 
父、義朝(よしとも)は平治乱(へいじのらん)で京の六波羅(ろくはら)の合戦で、
平清盛(たいらのきよもり)の弟の頼盛(よりもり)と戦い、
敗れ、尾張国(おわりのくに){三重県}まで逃げて来た時に、
長田忠敦(ながたただむね)の裏切りで殺され。
 
長男、義平(よしひら)は20歳の時に六波羅(ろくはら)の戦いの際に敗れ、
近江国(おうみのくに){滋賀県}の石山寺に潜(ひそ)んでいましたが、
発見され、首を斬られて京の六条河原(ろくじょうかわら)に父の義朝(よしとも)の首と一緒にさらし者にされたのです。
 
次男、朝長(ともなが)は京の大原で落ち武者狩(むしゃがり)をしていた比叡山(ひえいざん)の僧兵(そうへい)と戦い戦死したのです。
 
牛若丸(うしわかまる)は7歳まで母の嫁いだ藤原長成(ふじわらながなり)に育てられたのですが、
その後、鞍馬寺(くらまでら)で僧になるため修行していたのです、
ある日、叔父の鎌田正近(かまたまさちか)が名を正門坊(せいもんぼう)と替えて、
鞍馬寺(くらまでら)に現れて。
 
牛若丸(うしわかまる)に、伊豆(いず)の兄君(あにぎみ)の頼朝(よりとも)さまと源氏再興(げんじさいこう)して平氏(へいし)をたおすよう話したのです、
そうして牛若丸は金売吉次(かねうりのきちじ)に連れられて奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)の藤原秀衡(ふじわらにひでひら)を訪ねて行ったのです。
 
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は牛若丸の先祖の源義家(みなもとのよしいえ)に後三年(ごさんねん)の役(えき)で助けられその恩返しに、
牛若丸を招いたのです。
 
そうして、牛若丸は平泉(ひらいずみ)で武芸をみがき、
1174年、16歳の時に元服(げんぷく)して源九郎義経(みなもとくろうよしつね)なったのです、
 
1180年4月、後白河法皇(ごしらかわおうおう)の皇子の似仁王(もちひとおう)が全国に平氏追討(へいしついとう)の命令を出したのです、
この年の10月、奥州武士(おうしゅうぶし)を従えて黄瀬川(きせがわ)で陣(じん)を張っている兄の頼朝(よりとも)に逢ったのです、
この頃、平氏は黄瀬川、富士川の戦いに負けると、
平氏(へいし)に反抗する武士も多くなり、南都(なんと){奈良}の僧兵(そうへい)も反抗したので、
清盛(きよもり)は東大寺(とだいじ)、興福寺(こうふくじ)を焼き討ちしたのです。
 
1181年、清盛(きよもり)は熱病で死んだのですが清盛(きよもり)の死を源氏(げんじ)側に知られないよう隠し続けたのです、
京で活躍した源義仲(みなもとのよしなか)は都の評判が悪く後白河法皇(ごしらかわほうおう)から義仲(よしなか)を討てとの命令を受けた頼朝(よりとも)は、
6男の範頼(のりより)と義経(よしつね)に義仲(よしなか)を討つように命じたもです。
 
義経(よしつね)は京の宇治川(うじがわ)で義仲(よしなか)を討つと、
一の谷の崖(がけ)を駆(か)け下り平氏(へいし)の背後から攻め平氏(はいし)は多くの武将を失い船で四国へ逃げたのです、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)は義経(よしつね)に一ノ谷の功績を称え、
恩賞の官位を授けたのえが、
怒った頼朝(よりとも)は義経(よしつね)を総大将(そうたしょう)の座(ざ)から下ろしたのです。
 
しかし、範頼(のりより)が総大将になると苦戦の連続で再び義経(よしつね)が総大将となり、
義経(よしつね)は屋島(やしま)の戦いでも勝ち、1185年3月24日、
ついに平氏(へいし)は壇ノ浦(だんのうら)で滅亡(めつぼう)したのです。
 
平氏(へいし)がほろぶと、頼朝(よりとも)と義経(よしつね)の対立がふかまったのです、
喜んだのは後白河法皇(ごしらかわほうおう)で、法皇(ほうおう)は義経(よしつね)に兄の頼朝(よりとも)を討てと命じたのですが、
怒った頼朝(よりとも)は法皇(ほうおう)に抗議をしたのですすると、
法皇(ほおう)は、今度は義経追討(よしつねついとう)の院宣(いんぜん)を出したのです。
 
1187年、義経(よしつね)は逃げて諸国をめぐり平泉(ひらいずみ)にたどりつき、
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)と逢って力をあわせて頼朝(よりとも)に対抗しようとしていたのですが、
秀衡(ひでひら)は亡くなり。
 
息子の泰衡(やすひら)は頼朝(よりとも)から義経(よしつね)を引き渡せ、
渡さなければ平泉(ひらいずみ)を攻撃(こうげき)すると脅(おど)され、義経(よしつね)は奥州衣川(おうしゅうころもがわ)で泰衡(やすひら)に攻められ、
兵の持たない義経(よしつね)は持仏堂(じぶつどう)で自害したのです。
 
1189年、泰衡(やすひら)は頼朝(よりとも)の軍に攻め滅ぼされたのです。
 
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フジテレビの加藤綾子がEカップをポロリ!!

加藤がバラエティ番組でゲームに挑戦した際にエキサイトした加藤の胸元から見えて大騒ぎとなったそうです

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