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第81代 安徳(あんとく)天皇
諱(いわれ) 言仁親王(ときひとしんの)
治承(じしょう)2年11月12日(1178年12月22日 誕生
父は、高倉(たかくら)天皇
母は、平清盛(たいらのきよもり)の娘 徳子(とくし)
天皇は3歳で即位したのですが、幼い為に実権がなく政治は外祖父(そとそふ)の平清盛(たいらのきよもり)が政治をおこなっていたのです、
平清盛(たいらのきよもり)は日本の国の約半分を平氏(へいし)の領土にしたので、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)は清盛(きよもり)の勢力に危機感を感じ。
皇子の似仁王(もちひとお)は全国の源氏(げんじ)に平氏(へいし)を討てとめいじ、
似仁親王(もちひとしんのう)は源頼政(みなもとのよりまさ)と伴に兵を挙げたのです、
平氏軍(へいしぐん)は似仁親王(もちひとしんのう)と頼政(よりまさ)との連合軍と激しい戦いで、
両軍を滅ぼしたいたのですが。
源頼朝(みなもとのよりとも)の命(めい)で反平氏(はんへいし)の、甲斐源氏(かいげんじ)、源義仲(みなもとのよしなか)
近江源氏(おうみげんじ)、九州菊池氏(きゅうしゅうきくちし)、四国河野氏(しこくこうのし)、奈良僧兵(ならそうへい)等の激しい攻撃を受け、
源義仲(みなもとのよしなか)に京の都を攻められ、
清盛(きよもり)は神戸の福原に都をうつしたのですが。
平氏(へいし)の大将、平維盛(たいらのこれもり)が頼朝(よりとも)に敗れ、
各地で平氏軍(へいしぐん)は防戦につとめている最中に、
清盛(きよもり)は1181年、熱病に倒れ64歳で死んだのですが、
清盛(きよもり)は死んだのは奈良の東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)を焼いた罰だという
噂が広がったそうです。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)は源頼朝(みなもとのよりとも)を正式に東国の支配者として認めたのです、
弟、源義経(みなもとのよしつね)は1184年2月、
一ノ谷で平氏軍(へいしぐん)を奇襲攻撃(きしゅうこうげき)で追い払い、
1185年2月に屋島(やしま)を攻撃、
3月24日に壇ノ浦(だんのうら)での戦いで敗れ。
安徳(あんとく)天皇は祖母で平清盛(たいらのきよもり)妻、時子(ときし)に抱かれ、
極楽浄土(ごくらくじょうど)にお連れしますとさとされ。
平氏一門は滅亡したのです。
時子(ときし)は孫の天皇を強く抱きしめ海中に身を投じたのです。
寿永(じゅえい)4年4月22日 歴代最年少 8歳で没
御陵 阿弥陀寺(あみだじ) 山口県下関市阿弥陀町
そうして、第一代 神武(じんむ)天皇が即位して続けてきた天皇政権も途絶え、
源頼朝(みまもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、
幕府政治{鎌倉幕府}を開いたのです。
源頼朝(みなもとのよりとも)は1199年、将軍職を長男の頼家(よりいえ)譲り亡くなったのですが、
頼家(よりいえ)が暗殺され、そうして弟の実朝(さねとも)も暗殺されて、
鎌倉幕府は北条氏(ほうじょうし)の時代となるのです。
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記録的な低視聴率だと話題になっている、NHKk「平清盛」ですが、実は、私も、第一回を見ただけで、全然、見ていません。
画面が汚い、という意見は持ちませんでしたが、何とも、そのタイトルから、漠然と私が抱いた期待に応えてくれるものが、全く、無くて、その時代への興味が薄れて行くような気がして、見たくなくなりました。
昔の世の想像の仕方も、時代の流れで変わって行くのですね。
2012/5/23(水) 午後 6:00
ご無沙汰しております^^; 忙しいことに手を出してしまいPC前に座れる時間が少なくなっています…(^^;
この記事は折しも大河ドラマで放映中の時代になりますね^^♪
2012/5/23(水) 午後 9:14
ブログを訪問して頂き、有難う御座いました。
先日は、大阪には大変な どしゃぶり の雨や雷がありましたが、大丈夫だったでしょうか。これから、きっと台風もやって来ることがあるでしょうし、なかなか、油断ならないことです。
国に難儀が起きても、国首が立派であれば、気持ちも強くしていられると思いますが、今の政治には、さっぱり、有り難味というものが無いと思います。
ナイスクリックをしておきました。
どうぞ、さぶろうさんやご家族の皆様にとって、毎日が良い日でありますように、願っております。
2012/8/21(火) 午後 10:43