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第82代 後鳥羽(ごとば)天皇
諱(いなみ) 尊成親王(たかひろしんのう)
冶承(じしょう)4年7月14日(1180年8月6日 誕生
父は 高倉(たかくら)天皇
母は 藤原殖子(ふじわらのしょくし)
中宮(ちゅうぐう) 九条兼実(くじょうかねさだ)の娘 任子(にんし)
安徳(あんとく)天皇は4歳の時に木曽義仲(きそのよしなか)の攻撃をうけて、
都を落ちし、2年間西海(さいかい)をただよい、
再び、源義経(みなもとのよしつね)の激しい攻撃をうけて、
壇ノ浦(だんのうら)で6歳の安徳(あんとく)天皇は祖母である清盛(きよもり)の妻に抱かれて、
入水(にゅうすい)自殺をしたのですがその際。
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)のひとつ、宝剣(ほうけん)とともに海中に沈んだのです、
建久(けんきゅう)3年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が亡くなると、
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)の宝剣(ほうけん)が無い状態で、
後鳥羽(ごとば)天皇が即位したのです。
源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、
鎌倉に幕府を開いた、
6年後、天皇は18歳で譲位(じょうい)すると同時に院政(いんせい)をとり始め、
3代24年の及んだのです。
頼朝(よりとも)の死後、動揺(どうよう)している幕府をみて、
承久(しょうきゅう)3年、
朝権回復(ちょうけんかいふく)の為の兵を挙げましたが、
逆に敗れて隠岐に遷(うつ)され。
それから19年過ぎて、
延応(えんおう)元年2月22日(1239年3月28日 60歳で 没。
陵(みささぎ) 大原陵 隠岐海土町陵
京都市左京区大原勝林院町
鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開いた 源頼朝(みなもとのよりとも)
源頼朝(みなもとのよりとも)
久安(きゅうあん)3年4月8日(1147年5月9日 生まれ
幼名 鬼武丸(きぶまる)
父の始祖は第56代 清和(せいわ)天皇で、
清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む、
河内源氏(かわちげんじ)の棟梁(とうりょう)源義朝(みなもとのよしとも)の三男(さんなん)
母の始祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)の曾孫(ひまご)で、
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)藤原南家が祖、
熱田神宮司 藤原季範(すえのり)の娘 由良御前(ゆらごぜん)
頼朝(よりとも)は1159年、13歳で平治(へいじ)の乱(らん)で初陣(ういじん)を果たしたのですが、
戦いに敗れ平氏軍(へいしぐん)に捕(つか)まり、
父、義朝(よしとも)は逃げる途中に家来(けらい)裏切りで美濃国(みののくに)で殺され、
兄の義平(おしひら)は相模国(さがみのくに)逃げる途中に殺害されたのです。
頼朝(よりとも)は、平清盛(たいらのきよもり)の義母(ぎぼ)の池禅尼(いけのぜんに)に命を助けられ、
伊豆(いず)の蛭(ひる)が小島に流され、
平氏(へいし)の家臣(かしん)で伊東裕親(いとうすけちか)に日々、
監視(かんし)されながら暮らしていたのですが。
18歳の時に裕親(すけちか)の娘の八重姫(やえひめ)と愛し合うようになり、
そうして二人の間に、男の子の千鶴丸(ちずるまる)が生まれたのですが、
清盛(きよもり)に知れるを恐れて、
父の裕親(すけちか)は千鶴丸(ちずるまる)を音無川のほとりの轟淵(とどろきがぶち)に投げ込み、
殺してしまったと伝えられています。
裕親(すけちか)は娘の八重姫(やえひめ)を家来の江間小四郎と結婚させて、
そうして、頼朝(よりとも)を殺害するために家来を向かわせたのですが。
頼朝(よりとも)の乳母(うば)の比企尼(ひこのあま)の三女を妻した、
裕親(すけちか)の弟、裕清(すけきよ)が頼朝(よりとも)の身の危険を知らせ。
裕清(すけきよ)の鳥帽子親(えぼしおや)「鳥帽子親とは元服儀式を仕切る人」の、
野武士の北条時政(ほうじょうときまさ)の邸(やしき)へ逃がしたのです、
頼朝(よりとも)31歳で20歳の北条時政(ときまさ)の娘、政子(まさこ)を嫁にしたのです。
1180年、頼朝(よりとも)の叔父(おじ)の源行家(みなもとのいくいえ)が訪ねてきて、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を出し、
その内容は、
全国の源氏(げんじ)は平氏(へいし)を追討(ついとう)せよとのことであったが。
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)が平氏(へいし)との戦いで敗れ戦死、
頼朝(よりとも)は、義父(ぎふ)の北条時政(ほうじょうときまさ)と兵を挙げ、
最初に、伊豆の目代(もくだい)の山木兼隆を攻め。
この頃、木曽(きそ)で頼朝(よりとも)いとこの源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵(きょうへい)して、
北陸から京をめざし、
頼朝(よりとも)は鎌倉へもどる途中の黄瀬川(きせがわ)で奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)から、
頼朝(よりとも)の末弟でる。
源義経(みなもとのよしつね)が駆けつけてきて、
素晴らし活躍で兄、頼朝(よりとも)に貢献(こうけん)したのです。
一方、大活躍で勢力のある源義仲(みなもとのよしなか)を警戒していた、
後白河法皇(ごしらわほうおう)は頼朝(よりとも)に、
東国支配を正式に認める代わりに、義仲(よしなか)を討つように命じたのです。
1184年1月、頼朝(よりとも)の命令で弟の範頼(のりより)と義経(よしつね)は、
京の宇治川で義仲(よしなか)軍を滅ぼし、
義経(よしつね)は1184年2月、一(いち)ノ谷(たに)を、
1185年2月、屋島(やしま)を、
1185年3月、壇(だん)ノ浦(うら)を奇襲(きしゅう)攻撃で平氏(へいし)撃破(げきは)して、
壇ノ浦で平氏(へいし)を滅ぼしたのです。
頼朝(よりとも)は京にいる御家人(ごけにん)に、
頼朝の許可なく朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)を貰った者は、
東国に戻るなとおふれを出したのです。
処が、義経(よしつね)は後白河法皇(ごしらかわほうおう)から官位を貰っていたので、
頼朝(よりとも)は怒り、兄弟で戦うことになったのですが、
戦には強くても政治力が弱いと兵が集まらず。
義経(よしつね)は奥州藤原氏に逃げ込んだのですがが、
頼朝(よりとも)の圧力(あつりょく)に負けた藤原泰衡(やすひら)に義経(よしつね)は殺され、
藤原泰衡(やすひら)も頼朝(よりとも)に滅ぼされたのです。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)も1192年亡くなり、
頼朝(よりとも)は、46歳で征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就きましたが、
1199年、相模川の橋の上で落馬し際の怪我が原因で亡くなったと伝えられています?
その後、源氏(げんじ)は三代で終わり、
妻、政子の実家、北条氏が鎌倉幕府を継いでいくのです。
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兄弟で相争う・・・切ないことだと思います。
私の兄と姉は、子供の頃、よく喧嘩をして、いつも、家で叱られていました。
私は、兄弟とは仲が悪いもので、親が居なくなったら、お終いだと、そんな風な考えを、子供心に持っていたことを憶えています。
頼朝と義経は母親も違うし、育った所も違う。 兄弟だと思えば、葛藤は大きかったのではないでしょうか。
2012/10/1(月) 午後 11:04
暫くです。大河ドラマも終わりに近づきました。
頼朝の本は何冊か読みましたが
此方で分かりやすく解説されて、勉強になりました。
政子さんに引き継がれますが、この女性は、自分の子・孫を
無残に無くし、いばらの道を歩いたのですよね。
この続きが見られると嬉しいです。
ナイス!
2012/12/20(木) 午後 10:06