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1・物部一族(もののべいちぞく)の先祖は、
神日本磐余彦尊(たむやまといわれびこのみこと)が倭国(やまとのくに)を征服するため、
九州の日向を船出する以前に。
倭国(やまとのくに)に侵入して豪族、長髄彦命(ながすねひこみこと)の側近となり、
長髄彦命の妹の三炊屋媛(みかしきひめ)と結婚していた饒速日(にぎはやひ)が。
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)の偵察隊として、
饒速日(にぎはやひ)は倭国(やまとのくに)潜伏していたのですそうして。
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)は長髄彦命(ながすねひこのもこと)の首を斬りおとし、
倭国(やまとのくに)を征服して橿原に都を作り。
即位して第1代 神武(じんむ)天皇と改め、
その神武(じんむ)天皇の軍師の饒速日(にぎはやひ)は先祖なのです、
そうして、第38代 用明(ようめい)天皇の代まで天皇に仕えてきたのです。
最後は、物部尾興(もののべのおこし)息子の守屋(もりや)で終ったのです。
2・蘇我一族の先祖は、
大和朝廷時代の、第16代 仁徳(にんとく)天皇に仕えた竹内宿禰(たけのうちのすくね)で、
古事記では、七男二女の子持ちで三男の石河宿禰(いしかわのすくね)が名を、
蘇我宿禰(そがのすくね)と改めたのです。
本拠は大和高市郡蘇我邑(奈良県橿原市曽我町)
家系は、石河宿禰(いしかわのすくね)-満智宿禰(まちのすくね)-韓子宿禰(からこのすくね)-高麗(こま)−稲目(いねめ)-馬子(うまこ)-蝦夷(えみし)−入鹿(いるか)で終わり。
第29代 欽明(きんめい)天皇の頃、
物部尾興(もののべのおこし)は大連(おおうなじ) 蘇我稲目(そがのいねめ)は大臣(おおおみ)の位に就いていて、
互いに権力の争いが激しかったのです。
この頃、朝鮮の新羅(しらぎ)が百済(くだら)を攻撃したので、
百済(くだら)の王が欽明(きんめい)天皇に救援を求めてきたので天皇は直ぐに、
軍を朝鮮に送り。
難を逃れた百済王(くだらおう)はお礼にと、
欽明(きんめい)天皇に仏像と経巻を送ったのです。
天皇は稲目(いねめ)預けたのですが、蘇我一族は仏像を祀り熱心に信仰するようになったのです、
先祖代々から神を祀り続けてきた物部尾興(もののべのおこし)は怒り抗議していた矢先に、
疫病が流行して多く人々死んだのです、
尾興(おこし)は稲目が祀っている仏像を難波の横堀川に投げ捨てたのです。
そうして稲目(いねめ)の息子の馬子(うまこ)と、尾興(おこし)の息子の守屋(もりや)等が親に代わって
にらみ合いが続くのです。
574年、馬子の姪の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみこ)と橘豊日皇子(たちばなのとよひのおうじ)後の用明(ようめい)天皇との間に生まれた。
14歳の厩戸皇子(うまやどのおうじ)後の聖徳太子(しょうとくたいし)の軍と蘇我馬子の軍は連合して、
難波の地で物部守屋の軍と激しい戦い始まり。
そうして、蘇我馬子と厩戸皇子の連軍が勝利したのです。
また大化の改新で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)一諸に蘇我入鹿(そがのいるか)を殺した、
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は物部一族の残党であった教えられました。
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