歴史上の人物

何時まで続きますか解りませんが努力します。

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皆さん何時もお世話になりまして有難う御座います、
私の体調が(ボケ)少しだけ良くなりましたので、
再度、歴史の勉強をして楽しみたく思っていますので、
宜しくお願いいたします。
                    さぶろう
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 第84代 順徳(じゅんとく)天皇
  諱(いなみ)  守成親王(もりなりしんのう)
 承元(じょうげん)4年11月25日(1210年12月12日 平安の宮(へいあんのみや) で誕生
  14歳で即位(そくい)
 父、後鳥羽(ごとば)天皇の第三皇子
 母、旧藤原 高倉範季(のりすえ)の長女 重子(じゅうし) 16歳で守成(もりなり)を産む
 中宮、 太政大臣(だじょうだいじん) 旧藤原 九条良経(くじょうよしつね)の長女 立子(りゅうし)
 
天皇は、兄の土御門上皇(つちみかどじょうこう)とは対照的に、
激しい気性の持ち主なので討幕(とうばく)に、
父の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は大きな期待をしていたのですが。
 
鎌倉幕府の二代将軍 頼家(よりいえ)と三代将軍 実朝(さねとも)が暗殺(あんさつ)され、
母の政子は幼い九条頼経(くじっょうよりつね)を将軍に就かせ、
自ら政子後見役に就きますと。
 
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)と順徳(じゅんとく)天皇は兵を挙げて鎌倉を攻めたのですが、
北条政子(ほうじょうまさこ)と弟の執権(しっけん)義時(よしとき)の反撃に敗北。承久の乱(じょうきゅうのらん)
 
天皇は、佐渡へ配流(はいりゅう)となり21年後
仁治(にんじ)3年(1242年9月12日 没 46歳
天皇は自ら焼石を頭にのせて亡くなったとも云われています。
 
   真野陵(まののみささぎ) 火葬塚
     新潟県佐渡市真野
 
   大原陵(おおはらのみささぎ)
    京都市左京区大原勝林院町
 
 
   源頼朝(みなもとのよりとも)の妻 北条政子(ほうじょうまさこ)
 
北条政子(ほうじょうまさこ) 保元(ほうげん)2年1157年 生まれ
父は、伊豆(いず)の国の豪族(ごうぞく)北条時政(ほうじょうときまさ)
 
始祖(しそ)は桓武(かんむ)天皇の第一皇子 高望王(たかもちおう)の流れを汲む平氏と称する一族、
政子は夫の頼朝(よりとも)が亡くなると、
18歳の長男の頼家(よりいえ)を二代将軍(しょうぐん)に就かせたのですが、
頼家(よりいえ)は独裁政治をおこなうとしたので御家人(ごけにん)の反発が起きたので。
 
頼家(よりいえ)は妻の親、比企能員(ひきよしかず)を後ろ盾にして、
祖父の北条時政(ほうじょうときまさ)や母の政子と対立となり、
比企能員(ひきよしかず)は北条氏(ほうじょうし)の攻撃で滅(ほろ)ぼされて。
 
頼家(よりいえ)は将軍職を剥奪(はくだつ)され、
伊豆の国の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉(ゆうへい)された後、
北条氏(ほうじょうじ)の手により暗殺(あんさつ)されたのです 23歳でした。
 
弟の実朝(さねとも)は兄の頼家(よりいえ)が追放(ついほう)された時に、
12歳で第三代 将軍に就いたのですが、
その翌年、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)で兄の頼家(よりえ)の子、
公暁(くぎょう)に暗殺されたのですが、
同じ八幡宮(はちまんぐう)で公暁(くぎょう)は北条時政(ほうじょうときまさ)に殺されたのです。
 
幕府(ばくふ)を守ろうする政子(まさこ)と権力を手に入れようとする、
父の北条時政(ときまさ)が対立、
時政(ときまさ)に御家人(ごけにん)も反発、
政子(まさこ)は弟の義時(よしとき)と相談して、
父、時政(ときまさ)を追放して伊豆(いず)流したのです。
 
政子(まさこ)は旧藤原 九条家(くじょうけい)から幼い頼経(よりつね)を養子として、
四代 将軍に継がせたのですが、
2年後、朝廷(ちょうてい)は東国の武士を集めて鎌倉を攻めたのですが、
幕府の10万の大軍に敗れ、
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は隠岐(おき)へ流罪(るざい)となったのです。
 
政子(まさこ)は弟の義時(よしとき)とともに、
幕府(ばくふ)の実権(じっけん)を握り、尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれるのうになったのです。
  政子は嘉禄(かろく)元年(1225年) 病死。
 
 
 
 
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 第83代 土御門(つちみかど)天皇
  諱(いなみ) 為仁親王(ためひとしんのう)
建久(けんきゅう)6年12月2日(1196年11月3日 平安の宮で誕生
 
父は、後鳥羽(ごとば)天皇
母は、源在子(みなもとのざいし)
     父は、藤原盛実(ふじわらのもりざね)の実子で僧侶(そうりょう)で能円(のうえん)は、
     盛実(もりざね)は平清盛(たいらのきよもり)の正室、平時子(たいらのときこ)の異父弟であったために、
     法勝寺に預けられ。
     母の範子(のりこ)は後鳥羽(ごとば)天皇の乳母を務めていたが、
     平家(へいけ)が壇ノ浦で滅んだ際に能円(のうえん)も没し、
     範子(のりこ)は源通親(みなもとのみちちか)と再婚して後に、
     通親(みちちか)は在子(ざいし)を養女にしたのです。
中宮は 藤原麗子(ふじわらのれいし)
 
天皇は4歳で即位したのですが、性質温雅で、争いを好まず、16歳で退位したのです、
父上上皇の討幕計画には無関係であったのですが、
孝行心が厚く、承久の変(じょうきゅうのへん)後は、
自ら望んで土佐に流され、阿波で没したのです。
  寛喜3年10月11日(1231年11月6日 37歳
 
   阿波池谷陵(火葬塚)
   長岡市京市金ケ原  金原陵(かねはらのみささぎ)
 
 
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   第82代 後鳥羽(ごとば)天皇
諱(いなみ) 尊成親王(たかひろしんのう)
冶承(じしょう)4年7月14日(1180年8月6日 誕生
 
父は 高倉(たかくら)天皇
母は 藤原殖子(ふじわらのしょくし)
中宮(ちゅうぐう) 九条兼実(くじょうかねさだ)の娘 任子(にんし)
 
安徳(あんとく)天皇は4歳の時に木曽義仲(きそのよしなか)の攻撃をうけて、
都を落ちし、2年間西海(さいかい)をただよい、
再び、源義経(みなもとのよしつね)の激しい攻撃をうけて、
壇ノ浦(だんのうら)で6歳の安徳(あんとく)天皇は祖母である清盛(きよもり)の妻に抱かれて、
入水(にゅうすい)自殺をしたのですがその際。
 
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)のひとつ、宝剣(ほうけん)とともに海中に沈んだのです、
建久(けんきゅう)3年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が亡くなると、
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)の宝剣(ほうけん)が無い状態で、
後鳥羽(ごとば)天皇が即位したのです。
 
源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、
鎌倉に幕府を開いた、
6年後、天皇は18歳で譲位(じょうい)すると同時に院政(いんせい)をとり始め、
3代24年の及んだのです。
 
頼朝(よりとも)の死後、動揺(どうよう)している幕府をみて、
承久(しょうきゅう)3年、
朝権回復(ちょうけんかいふく)の為の兵を挙げましたが、
逆に敗れて隠岐に遷(うつ)され。
 
それから19年過ぎて、
延応(えんおう)元年2月22日(1239年3月28日 60歳で 没。
 
陵(みささぎ) 大原陵 隠岐海土町陵
         京都市左京区大原勝林院町
 
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  鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開いた 源頼朝(みなもとのよりとも)
 
源頼朝(みなもとのよりとも)
久安(きゅうあん)3年4月8日(1147年5月9日 生まれ
幼名 鬼武丸(きぶまる)
 
父の始祖は第56代 清和(せいわ)天皇で、
清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む、
河内源氏(かわちげんじ)の棟梁(とうりょう)源義朝(みなもとのよしとも)の三男(さんなん)
 
母の始祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)の曾孫(ひまご)で、
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)藤原南家が祖、
熱田神宮司 藤原季範(すえのり)の娘 由良御前(ゆらごぜん)
 
頼朝(よりとも)は1159年、13歳で平治(へいじ)の乱(らん)で初陣(ういじん)を果たしたのですが、
戦いに敗れ平氏軍(へいしぐん)に捕(つか)まり、
父、義朝(よしとも)は逃げる途中に家来(けらい)裏切りで美濃国(みののくに)で殺され、
兄の義平(おしひら)は相模国(さがみのくに)逃げる途中に殺害されたのです。
 
頼朝(よりとも)は、平清盛(たいらのきよもり)の義母(ぎぼ)の池禅尼(いけのぜんに)に命を助けられ、
伊豆(いず)の蛭(ひる)が小島に流され、
平氏(へいし)の家臣(かしん)で伊東裕親(いとうすけちか)に日々、
監視(かんし)されながら暮らしていたのですが。
 
18歳の時に裕親(すけちか)の娘の八重姫(やえひめ)と愛し合うようになり、
そうして二人の間に、男の子の千鶴丸(ちずるまる)が生まれたのですが、
清盛(きよもり)に知れるを恐れて、
父の裕親(すけちか)は千鶴丸(ちずるまる)を音無川のほとりの轟淵(とどろきがぶち)に投げ込み、
殺してしまったと伝えられています。
 
裕親(すけちか)は娘の八重姫(やえひめ)を家来の江間小四郎と結婚させて、
そうして、頼朝(よりとも)を殺害するために家来を向かわせたのですが。
 
頼朝(よりとも)の乳母(うば)の比企尼(ひこのあま)の三女を妻した、
裕親(すけちか)の弟、裕清(すけきよ)が頼朝(よりとも)の身の危険を知らせ。
 
裕清(すけきよ)の鳥帽子親(えぼしおや)「鳥帽子親とは元服儀式を仕切る人」の、
野武士の北条時政(ほうじょうときまさ)の邸(やしき)へ逃がしたのです、
頼朝(よりとも)31歳で20歳の北条時政(ときまさ)の娘、政子(まさこ)を嫁にしたのです。
 
1180年、頼朝(よりとも)の叔父(おじ)の源行家(みなもとのいくいえ)が訪ねてきて、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を出し、
その内容は、
全国の源氏(げんじ)は平氏(へいし)を追討(ついとう)せよとのことであったが。
 
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)が平氏(へいし)との戦いで敗れ戦死、
頼朝(よりとも)は、義父(ぎふ)の北条時政(ほうじょうときまさ)と兵を挙げ、
最初に、伊豆の目代(もくだい)の山木兼隆を攻め。
 
この頃、木曽(きそ)で頼朝(よりとも)いとこの源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵(きょうへい)して、
北陸から京をめざし、
頼朝(よりとも)は鎌倉へもどる途中の黄瀬川(きせがわ)で奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)から、
頼朝(よりとも)の末弟でる。
 
源義経(みなもとのよしつね)が駆けつけてきて、
素晴らし活躍で兄、頼朝(よりとも)に貢献(こうけん)したのです。
 
一方、大活躍で勢力のある源義仲(みなもとのよしなか)を警戒していた、
後白河法皇(ごしらわほうおう)は頼朝(よりとも)に、
東国支配を正式に認める代わりに、義仲(よしなか)を討つように命じたのです。
 
1184年1月、頼朝(よりとも)の命令で弟の範頼(のりより)と義経(よしつね)は、
京の宇治川で義仲(よしなか)軍を滅ぼし、
義経(よしつね)は1184年2月、一(いち)ノ谷(たに)を、
1185年2月、屋島(やしま)を、
1185年3月、壇(だん)ノ浦(うら)を奇襲(きしゅう)攻撃で平氏(へいし)撃破(げきは)して、
壇ノ浦で平氏(へいし)を滅ぼしたのです。
 
頼朝(よりとも)は京にいる御家人(ごけにん)に、
頼朝の許可なく朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)を貰った者は、
東国に戻るなとおふれを出したのです。
 
処が、義経(よしつね)は後白河法皇(ごしらかわほうおう)から官位を貰っていたので、
頼朝(よりとも)は怒り、兄弟で戦うことになったのですが、
戦には強くても政治力が弱いと兵が集まらず。
 
義経(よしつね)は奥州藤原氏に逃げ込んだのですがが、
頼朝(よりとも)の圧力(あつりょく)に負けた藤原泰衡(やすひら)に義経(よしつね)は殺され、
藤原泰衡(やすひら)も頼朝(よりとも)に滅ぼされたのです。
 
後白河法皇(ごしらかわほうおう)も1192年亡くなり、
頼朝(よりとも)は、46歳で征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就きましたが、
1199年、相模川の橋の上で落馬し際の怪我が原因で亡くなったと伝えられています?
 
その後、源氏(げんじ)は三代で終わり、
妻、政子の実家、北条氏が鎌倉幕府を継いでいくのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 第81代 安徳(あんとく)天皇
  諱(いわれ) 言仁親王(ときひとしんの)
治承(じしょう)2年11月12日(1178年12月22日 誕生
 
父は、高倉(たかくら)天皇
母は、平清盛(たいらのきよもり)の娘 徳子(とくし)
 
天皇は3歳で即位したのですが、幼い為に実権がなく政治は外祖父(そとそふ)の平清盛(たいらのきよもり)が政治をおこなっていたのです、
平清盛(たいらのきよもり)は日本の国の約半分を平氏(へいし)の領土にしたので、
後白河法皇(ごしらかわほうおう)は清盛(きよもり)の勢力に危機感を感じ。
 
皇子の似仁王(もちひとお)は全国の源氏(げんじ)に平氏(へいし)を討てとめいじ、
似仁親王(もちひとしんのう)は源頼政(みなもとのよりまさ)と伴に兵を挙げたのです、
平氏軍(へいしぐん)は似仁親王(もちひとしんのう)と頼政(よりまさ)との連合軍と激しい戦いで、
両軍を滅ぼしたいたのですが。
 
源頼朝(みなもとのよりとも)の命(めい)で反平氏(はんへいし)の、甲斐源氏(かいげんじ)、源義仲(みなもとのよしなか)
近江源氏(おうみげんじ)、九州菊池氏(きゅうしゅうきくちし)、四国河野氏(しこくこうのし)、奈良僧兵(ならそうへい)等の激しい攻撃を受け、
源義仲(みなもとのよしなか)に京の都を攻められ、
清盛(きよもり)は神戸の福原に都をうつしたのですが。
 
平氏(へいし)の大将、平維盛(たいらのこれもり)が頼朝(よりとも)に敗れ、
各地で平氏軍(へいしぐん)は防戦につとめている最中に、
清盛(きよもり)は1181年、熱病に倒れ64歳で死んだのですが、
清盛(きよもり)は死んだのは奈良の東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)を焼いた罰だという
噂が広がったそうです。
 
後白河法皇(ごしらかわほうおう)は源頼朝(みなもとのよりとも)を正式に東国の支配者として認めたのです、
弟、源義経(みなもとのよしつね)は1184年2月、
一ノ谷で平氏軍(へいしぐん)を奇襲攻撃(きしゅうこうげき)で追い払い、
1185年2月に屋島(やしま)を攻撃、
3月24日に壇ノ浦(だんのうら)での戦いで敗れ。
 
安徳(あんとく)天皇は祖母で平清盛(たいらのきよもり)妻、時子(ときし)に抱かれ、
極楽浄土(ごくらくじょうど)にお連れしますとさとされ。
 
平氏一門は滅亡したのです。
時子(ときし)は孫の天皇を強く抱きしめ海中に身を投じたのです。
寿永(じゅえい)4年4月22日 歴代最年少 8歳で没
    御陵 阿弥陀寺(あみだじ)  山口県下関市阿弥陀町
    
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そうして、第一代 神武(じんむ)天皇が即位して続けてきた天皇政権も途絶え、
源頼朝(みまもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、
幕府政治{鎌倉幕府}を開いたのです。
 
源頼朝(みなもとのよりとも)は1199年、将軍職を長男の頼家(よりいえ)譲り亡くなったのですが、
頼家(よりいえ)が暗殺され、そうして弟の実朝(さねとも)も暗殺されて、
鎌倉幕府は北条氏(ほうじょうし)の時代となるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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