フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

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人形浄瑠璃の文楽にでてくる女には、足がない。それはまるで幽霊のように実体のない存在のようだ。近松門左衛門は、心中事件のうわさを聞き現場に行く。そこには、こもからはみ出した男女の4本の足が見えた。それに衝撃をうけた近松門左衛門は、一気に「曽根崎心中」を書きあげる。
 縁側に腰掛けた遊女のお初が、一緒に死ぬことを徳兵衛に、足で確かめる。徳兵衛は、その足に触れながら涙で答える美しいシーンがある。現代の「フラメンコ曽根崎心中」において、お初を演じる鍵田真由美は、その足の衝撃を通してフラメンコで演じる。そうなのだ。この「フラメンコ曽根崎心中」は、お初の幻想的な足の存在を、フラメンコを通して表現するものになっている。心中した男女の足に、リアルな何かを感じた近松門左衛門の、その何かをフラメンコのサパテアードが見えるものにする。あの世とこの世をつなぐような踊り。死を決意する女の心意気。鍵田真由美は、もっとも難しいシーンを踊りきる。
 スペインは、闘牛という、死を芸術の域にまで達した文化をもっている。フラメンコもその伝統を受け継いでいる。近松門左衛門の衝撃をフラメンコを通して表現することは、スペインと日本の死の在り方をあらためて考えることでもあるだろう。
 二人が死を選ぶということは、お金をだまされたからではない。徳兵衛が面子をつぶされたことにある。これは江戸時代には、画期的に新しいことだった。徳兵衛を演じる佐藤浩希は、顔を近づけられてののしられ、最大限の屈辱を受けたときに死の決意をする。死ぬことで面目を回復することを考えるのである。
 世間に否定されたことを肯定的なイメージに変えるために、二人は死を選択する。死を通して選ぶ未来。二人にとって最大限に肯定的な世界。その肯定的な自由な世界にとって身体は不必要となる。
 二人が死ぬことを知っているわれわれにとって、目の前に繰り広げられる世界は、二人の過去である。ということは、未来にいる二人からすれば、私たちは過去に取り残された存在に過ぎない。原作の曽根崎心中には、徳兵衛が、死ぬことで、死んだ両親に逢えることを楽しみにしているのにひきかえ、お初の両親はこの世にいて、今度いつ逢えるかわからないと泣くシーンがある。死を目の前にして、生と死の世界が反転しているのだ。
 最後のシーンには、宇宙樹のようなものが現れる。この宇宙樹の下での死ぬことで、二人の死が聖なるものとして蘇ることを意味しているのかもしれない。

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先日、徹子の部屋で阿木陽子さんが魅力をいっぱいお話されていました。三浦友和の息子さんの歌もすばらしいそうです。

2014/4/5(土) 午後 7:44 [ カレイドスコープ ]


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