フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

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プリメラ フラメンコ フェスティバル2014 のためのノート。

はじめての出会い。気になる女の子に、ほかの踊り手よりも気持ちを込めてギターを弾く。はたして踊り手の女の子は気がついてくれるだろうか?フラメンコギターを一生懸命に弾くだけでなく、ギターにそれ以上の感情を込める。今日の演奏は、そんな初心に帰ったかのような演奏だったのではないだろうか?

宇根理浩×宇根由佳。フェスティバルの最後のブレリアで、旦那さんが気持ちよく楽しく尻にひかれている踊りと、可愛らしい由佳さんのイメージが重なってしまって、可愛らしいタラントのイメージが浮かんでしまう。

井上圭子×鈴木淳弘。 鈴木淳弘 が笑顔とハレオをかけながら踊り手と歌い手をのせていく。アンダルシアの女性のたくましさと洗練された女性らしさを感じたアレグリアス。

小原正裕×鍜地陽子。まるでイスラムの装飾のような、精緻で鋭利な輝きをもった小原正裕のギターの音。シギリージャ。その音を生かすように鍜地陽子が大胆に踊る。異次元という言葉が浮かぶ。

金田豊×小島慶子 セラーナというあまり見ることができない踊り。カンテソロだと、リビアーナに続いて歌われる。ゆったりとした揺らぐような踊り。シンプルなギターとシンプルな踊りが重なって表現豊かな世界が生まれる。

徳永武昭×小島正子 時代を感じさせる丁寧なタンゴ・デ・マラガ。この日、ある意味、もっとも夫婦のフラメンコを感じた。徳永兄弟がそこに重なるからだろうか?

鈴木尚×大塚友美 ゆっくりと静かにおさえたようなギターからはじまる。カンテのミゲル・デ・バダホスがタンゴを歌う。プリミティブな踊りに見える。ギターも特定の曲を弾くつもりはない。「こんな感じで、どうですか?」「いいですね。これもいいでしょう?」ギター、バイレ、そこにカンテが会話に加わる。タンゴ、コロンビアーナ、ティエントとカンテも自由に歌う。

原田和彦×草野櫻子原田和彦の、まるでギター演奏からはみ出るような身体的な動き。草野櫻子をアレグリアスという踊りで思いっきり遊ばせたいようだ。過剰が自由を生む。

高橋紀博×入交恒子 予定されていたソレア・ポル・ブレリアからタンゴ・デ・マラガに変更された。作品としてのタンゴ・デ・マラガ。

「能」という文字は、白川静によれば、水の中の昆虫の動きだという。それまでの芸能を取り入れ、「能」としてまとめあげるとき、観阿弥、世阿弥には独特のイメージがあったにちがいない。地球は、宇宙では特殊な、水をまとった天体であり、昆虫は、その機能から宇宙からやって来たのではないか、と考える学者もいる。さすが世阿弥、天才のイメージとはこういうもんだろう。
西平直『世阿弥の稽古哲学』によれば、世阿弥の伝書は、禅の公案の「隻手の音声」を語っているのではないか、という。禅の公案の「片手の音」ではなく「両手の音」。
音は、手が離れたままでも、合わさったままでも出ない。両手が出会って、離れる瞬間にいい音が出る。その基本は単純である。子供が無邪気に澄んだ音を出す。それを芸にしたとたんに複雑になる。
手を意識した途端、気負いや欲が出てくる。それをいかに子供のように無邪気に、無心に演じることができるか工夫がいる。世阿弥の伝書は、「無心」だけでなく「工夫」だけでなく、その両方が出会った瞬間にいい音が出る。世阿弥は、その一瞬を解き明かそうのしたのはないかと西平は考える。なるほどこれはまさにフラメンコのパルマにもつながる考えだと思う。
「両手の音を極めるためには片手の音を聴かなければならない。片手の音を聴くことなしに両手の音を極めることはできない。しかし稽古は両手で行え、両手の音を工夫せよ。両手の音を極めるとき、その只中に、片手の音が聴こえてくるはずである。」

さて今夜はヤミ市。セビジャーナスの小芝居のために役作り中(^^♪

現代舞踊協会と日本フラメンコ協会のコラボ企画「バラと桜の祝祭」のフラメンコ公演忘備録がアップされました。日本のフラメンコの歴史と日本の現代舞踊の4日間。
http://www.paseo-flamenco.com/daily/2014/05/post_10.php#004245

パセオ・フラメンコのフラメンコ公演忘備録、「フラメンコ・フェスティバル」アップされました。
読んでください。
 http://www.paseo-flamenco.com/

子供のころの思い出にでてくる場面に登場する自分は、いつも変わらない。それは過ぎ去って確定された出来事だからではなくて、思い出すたびの記憶が再構築されているからである。ロシオ・モリーナの踊りは、つねに更新され続けている思い出のようなものなのかもしれない。
 男と女、少女時代などなど、思い出という記憶の断片を集めて、コラージュのようにまとめあげて作品に昇華していく。それぞれの記憶によって踊りは変化し、身体の動きが丁寧にそれを再現する。ロシオ・モリーナは、一つの作品で、同時に複数の身体を踊る。それは身体の在り方をつねに更新し、書き換えるからこそ可能なのだろう。
 ロシオ・モリーナの身体は、つねにリラックスしている。これは、新しい突発的な何かにもすばやく反応するためだ。武術の基本的な身体の在り方と同じだ。リラックスするということは、まだ現れない未来を踊るための身体を手に入れるということだろう。
 踊りに切れ目を入れる。その切れ目は、新しい皮膚を生み、踊りに新しい意味を発生させる。世阿弥は、「非風をまぜること」という。非風とは、動きにおける「はずれ」や「はずし」のことである。これは、踊りが過去に依拠しながら、未来に注目するための、現在におけるテクニックだとおもう。これは、フラメンコを完璧に踊ることができるロシオ・モリーナだからこそできるテクニックだろう。
 小さな器に、高い位置から砂を注ぐように落としていく。これは舞台に、象徴的に繰り返し登場する。これはラストで、舞台空間全体を一瞬で変換する伏線になっている。ロシオ・モリーナは、身体の在り方だけでなく、舞台空間の在り方も再構築してしまう。
 ハンカチがゆらぐ。アバニコが閉じられたまま振り子のようにゆれる、ギターの弦がゆらぐ。カンテの声がゆらぐ。注がれる砂がゆれる。帽子がゆらぎながら落ちる。複数の身体を同時に踊るロシオ・モリーナのような複雑な踊りにおいては、ゆらぎこそクリエイティブな力になりえる。生命は、複雑系におけるゆらぎによって創発された。わたしたちは、新しい踊りの誕生に立ち会っているのだ。
 ステージに二人の男性が立つ。ティア・アニカ・ピリニャーカのマルチィネーテが聴こえてくる。古いカンテを再解釈して、いまの身体が踊る。ロシオ・モリーナの踊りが、新しくて独創的なだけでなく、古いカンテの構造を吸収して生まれてたのだということがわかる。ハシント・アルマデンの歌声が聴こえてきてきたときには、不覚にも泣きそうになった。
 


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