フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

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停電二回!

 三十五度をかるく超えたと思ったら、

 突然の雷雨!

 雷が落ちたらしく停電。

 しばらくして復旧。

 すぐに二回目の停電。

 すぐ復旧。

 東京でもこんなことがあるんですね。

 少し涼しくなったので図書館へ行く。


停電
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%9C%E9%9B%BB

停電時の対処法
 http://www.energia.co.jp/personal/shutoff/index.html

 

 見えるということはどういうことか。

 見える物を描くということは、現実と、どのような関係にあるのだろう。

 伊藤若冲はこういっている。

 「いま世間でいう画は、みな画を画にするもので、物を画にしたのではない」

 かれは、直接対象を観察することを強調した。

 物が見えるということは、よりレベルの高い見えないものにかたどられている。

 いってみれば、われわれは、見えないものを見えるもののうちにみているということである。

 伊藤若冲の画が、直接的な観察にもとづいていながら、どこか現実を超えたものに見えるのは、そのた

めである。

 そこにかれの魅力のひとつがある。

 

 

 ほぼ何の知識もなく、数枚の雑誌に載っていた絵を見て国立西洋美術館に足をを運んだ。

 このラ・トゥールは長年忘れられた画家で、二十世紀に入って発見されるまで、その存在は世界で数人

しか知っているものはいなかったといわれる。

 かつてフェルメールがそうであったように、「敵国」のドイツ人によって復活させられたのである。

 前回のマチス展と違って、日曜日にもかかわらず館内は静けささえ感じるほどの人しかいなかった。

 ろうそく一本の光だけで照らされる世界。しかもそのローソクは手や本によって隠されている。

 その唯一の光を覗き見したい衝動に駆られる。それが画面を動的なものにする。

 光と闇、絵を見つめていると、われわれはその闇の側から人物を見ていることに気がつく。

 上の絵は、マグダラのマリアである。

 視線は隠され、頭蓋骨だけに注がれている。

 本のページは、ろうそくの火に熱せられた空気でめくれあがっている。そのページは、光によって透か

して見える。

 下の絵は、眠るヨセフに天使がなにやら語りかけている。

 僕は、このほとんど隠されたろうそくの光をじかに見たかったのだ。


ラ・トゥール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB

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