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子供のころの思い出にでてくる場面に登場する自分は、いつも変わらない。それは過ぎ去って確定された出来事だからではなくて、思い出すたびの記憶が再構築されているからである。ロシオ・モリーナの踊りは、つねに更新され続けている思い出のようなものなのかもしれない。
男と女、少女時代などなど、思い出という記憶の断片を集めて、コラージュのようにまとめあげて作品に昇華していく。それぞれの記憶によって踊りは変化し、身体の動きが丁寧にそれを再現する。ロシオ・モリーナは、一つの作品で、同時に複数の身体を踊る。それは身体の在り方をつねに更新し、書き換えるからこそ可能なのだろう。
ロシオ・モリーナの身体は、つねにリラックスしている。これは、新しい突発的な何かにもすばやく反応するためだ。武術の基本的な身体の在り方と同じだ。リラックスするということは、まだ現れない未来を踊るための身体を手に入れるということだろう。
踊りに切れ目を入れる。その切れ目は、新しい皮膚を生み、踊りに新しい意味を発生させる。世阿弥は、「非風をまぜること」という。非風とは、動きにおける「はずれ」や「はずし」のことである。これは、踊りが過去に依拠しながら、未来に注目するための、現在におけるテクニックだとおもう。これは、フラメンコを完璧に踊ることができるロシオ・モリーナだからこそできるテクニックだろう。
小さな器に、高い位置から砂を注ぐように落としていく。これは舞台に、象徴的に繰り返し登場する。これはラストで、舞台空間全体を一瞬で変換する伏線になっている。ロシオ・モリーナは、身体の在り方だけでなく、舞台空間の在り方も再構築してしまう。
ハンカチがゆらぐ。アバニコが閉じられたまま振り子のようにゆれる、ギターの弦がゆらぐ。カンテの声がゆらぐ。注がれる砂がゆれる。帽子がゆらぎながら落ちる。複数の身体を同時に踊るロシオ・モリーナのような複雑な踊りにおいては、ゆらぎこそクリエイティブな力になりえる。生命は、複雑系におけるゆらぎによって創発された。わたしたちは、新しい踊りの誕生に立ち会っているのだ。
ステージに二人の男性が立つ。ティア・アニカ・ピリニャーカのマルチィネーテが聴こえてくる。古いカンテを再解釈して、いまの身体が踊る。ロシオ・モリーナの踊りが、新しくて独創的なだけでなく、古いカンテの構造を吸収して生まれてたのだということがわかる。ハシント・アルマデンの歌声が聴こえてきてきたときには、不覚にも泣きそうになった。
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