フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

アート

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円山応挙

 はじめて僕が日本画に興味をもったのは、この円山応挙であった。本物を見たからだろう。

 円山応挙は、享保十八年(1733年)に京都府の亀岡で生まれた。

 子供の頃から、いつも絵をかいていた。

 しだいに評判になり、京都へ出て石田幽汀の門に入る。

 この頃の京都は、あらゆるものの流派が行き着くところまで行ったような観があった。つぎの新しい時

代を担うのは、長崎伝来の写生画と南宗文人画だけであった。

 彼は、勉強家で、西洋画にも触れはじめる。

 日本に西洋画が輸入されたのは、室町時代であったが、それを具体的にして見せたのは、平賀源内であ

った。

 しかし真の西洋画の始祖となったのは、司馬江漢である。

 応挙は、あくまでも写生画によって自らの画風を築きつつあった。

 写生の極意は、その西洋画から得た。

 彼は、それまで見なかった日本画を確立して大成する。

 

 彼は、富士山をかいたことがなかった。それは富士山を見たことがなかったからである。

 彼は、富士の山をかくために旅に出る。

 旅の途中、妾のお花の家に泊まる。お花は、それまで病気で寝ていたが、無理して起き、薄化粧をして

座敷あらわれた。

 彼は、無理しなくてもまた帰りによるから、と旅立ったが、なんだか心掛かりだった。

 彼は、三河の小さな宿に着いた。秋雨が降り注ぎ、なんとも侘しい景色であった。

 応挙は眠ろうとしたが、眠られない。

 彼は、なにかに呼ばれるようにして起きあがった。

 首筋のあたりに寒気を感じ、振り返ると、そこにはお花が立っていた。

 お花は、病床から抜け出したばかりのような、やせ衰え、蒼ざめた顔でしょんぼり立っていた。

 どのくらい時間がたったろう。息苦しさで正気に返ると、お花は消えていた。

 旅から帰る途中、お花の家に着くと、お花は死んでいた。彼女が、息を引き取った時間は、まさに応挙

が、夢うつつでお花を見たときであった。

 応挙は、自分の目に残るお花の画をかいた。

 日本の幽霊画は、応挙によってまったく変わったといわれる。


円山応挙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%BF%9C%E6%8C%99

亡霊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A1%E9%9C%8A

 

 尾形光琳は、初めは狩野派を学んでいた。

 しかし光琳は、狩野派は、結局は支那画の模倣に過ぎないことに気がつき、純日本的な大和絵をかくこ

とにした。

 その参考にしたのが、本阿弥光悦によってはじめられた、装飾画風の絵画だった。

 
 元禄時代は、上方文化が発達した時代だった。

 近松門左衛門や井原西鶴が生まれた時代だった。

 江戸の文化の発達は、まだしばらく待たなければならない。

 時代は、華やかさをまし、光琳は、元禄時代の美術の第一人者になる。


 元禄時代の京都で花見に行くという事は、豪華さを競いにいくことであった。

 ところが光琳は、ただ一人竹の皮に包んだ握り飯を食べているだけであった。

 周りは、光琳ともある人が、と嘲笑したが、竹の皮をよく見ると、金銀を使って驚くべき精巧な花鳥山

水の蒔絵が描かれており、人々が驚いてみていると、光琳は食べ終わると、その竹の皮を惜しげもなく川

に捨てたのでった。

 光琳は、日常生活でも贅沢をしており、彼がいつも同じ衣服を着ているとおもったら、同じ衣服を数十

着こしらえて、いつも新しいものに取り替えて着ていたのだった。

 光琳の絵を見るということは、そんな贅沢を楽しむ快感をも見るということでなのである。


尾形光琳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BD%A2%E5%85%89%E7%90%B3

 

 『本朝画人伝』 村松梢風

 葛飾北斎は、宝暦(1760年)江戸の本所に生まれる。

 浮世絵の勝川春章、西洋画を司馬江漢、漢画を堤等琳、土佐派を住吉広行に学ぶ。

 彼は、一生涯、絵をかき続けることを誓い、朝は暗いうちから、人が寝静まるころまでかき続けた。

 その後で読書をした。

 彼は、空腹になり、蕎麦を二椀食べて眠った。この習慣は一生続いたという。

 北斎は、酒も飲まず、煙草も吸わず、美食もしないが、一生貧乏のままだった。北斎は、金が入って

も、あるだけ払ってしまうのである。

 北斎は、若いころから引越しを繰り返した。

 隣が、煮売りの居酒屋のときは、三食ともその居酒屋からとり、家には食器がなかったから、お客が来

ると、隣に頼んでお茶を入れさせた。

 北斎は、引越しは道楽だといっていたようだが、もう一つの理由は、掃除ができなかったのである。

 いつも垢だらけの着物を着て、ホコリが積もり、いよいよ堪えられなくなると引越しをするのである。

 お栄という三女と二人暮らしをしていた。

 北斎は「美人画では、俺はお栄にかなわない」といった。

 その彼女も貧乏を少しも気にしなかった。

 つぎの楽しいエピソードがある。

 あるとき北斎は、机によりかかり筆で部屋の隅を指しながら、

 「お栄や、昨日の夕方まで、ここに蜘蛛の巣がかかっていたが、どうしてなくなったのだろう。お前払

って落としはしないか」

 と心配そうに尋ねた。

 「私はいっこう払ったおぼえはありませんが、不思議なことですね」

 と父と同じように心配そうな顔をして熱心に蜘蛛のありかを捜していた。

 北斎は、版画、肉筆画、風景画、花鳥画、歴史画の分野に傑作を残し、安藤広重とともに浮世絵の最後

の巨匠といわれ、フランスの印象派にも大きな影響を与えた。

 嘉永二年(1849年)江戸で亡くなる。90歳。

葛飾北斎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E

 

イメージ 1

イメージ 2

 空を見つめながら、話をしている。

 演劇の「ゴドーを待ちながら」の男たちのように。

 昔、作った紙粘土。

 ふと目についたので載せます。


紙粘土入門
http://www9.wind.ne.jp/chiru-m/kaminendo-nyumon.htm

美人画 上村松園

 『本朝画人傳』 村松梢風

 美人画は、男性がかくものだと僕は考えていたらしく、上村松園が女性だと知ったとき、どうして美人

画を女性が?と違和感を覚えた。

 なぜ女性が、美人画を?


 上村松園は、明治八年四月二十三日、維新前の風俗などがそのまま残っている京都の四条御幸町に生ま

れた。

 小さいころから絵が好きで、小学校を卒業するころには、まだ女性の画家がほとんどいない時代に、画

家になる決心をした。

 当時の京都は、四条派や狩野の花鳥山水ばかりだった。

 松園は、人物画や風俗画をかきたかったが、浮世絵は東京の発祥地で、京都にはほとんどなかった。

 松園は、書画骨董の入札があれば、絵を写しにいき、神社やお寺、個人の所有する人物画を写してまわ

った。

 松園ほど熱心に絵を写した人はまれだという。

 十五、六才から一生涯続け、それらを重ねると身長より高くなるという。

 明治二十三年、東京で第三回内国勧業博覧会があり、二等、三等でも大家の傑作でなければもらえなか

ったのに、わずか十六歳の松園の「四季美人図」は一等をもらう。

 明治三十三年、「花ざかり」を出品し、横山大観、菱田春草とともに銀牌をうけ、松園は大成の道を進

む。

 美人画をかく信念を松園は次のように語っている。

「私はただなまめかしい人形のような甘い美人画はかきたくない。卑俗に流れず、清澄な感じのする、精

神の香りのする美人画をかくことが私の理想である」

 なるほどそういうわけだったのか。


上村松園
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%9C%92

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