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映画「LATCHO DROM」 |

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こんにちは、ゲストさん
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映画「LATCHO DROM」 |
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私たちは、商品交換のように必ず対価を要求する交換と「贈与」という見返りを求めない交換の形がある。この世界で最大の「贈与」は太陽エネルギーである。このことを具体的な経済理論にしたのがバタイユである。この「贈与」を経済学的に分析するときに登場するのがポトラッチというお祭り。簡単に言ってしまえば、一方的に自分の大切な財産を破壊することで、相手より強い立場に立つことができるというもの。これは贈与としての交換が、商品交換より強いエネルギーをもっていることを意味する。たとえば、子供や恋人にたいして、見返りを求める交換は相手との距離を生む。 |
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あるフラメンココンクール準優勝の踊り手さんの踊りをユーチューブで観ていて、ふとクルト・ゲーデルの「不完全性定理」を考えた。この数学理論を文学的に説明すると、自分の正しさは自分で証明できない、というもの。自然数1・・・・・nにおいて無矛盾を証明するためにはn+1という外部性を導入する必要がある。なぜそのことを思い出したのか?踊り手である彼女は、フラメンコにおける外部性を象徴しているのかもしれない、と考えた。彼女がタブラオで踊る動画では、メトロノームのような正確なサパテアード、複雑な動きでもぶれない身体の軸。ここで見えるのは、逆に彼女の踊りを通して他の踊り手のフラメンコなのである。彼女のツイッターを読むと、私生活は大変な時期のようだけど、頑張ってほしいな。楽しみな踊り手さんでもある。 |
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群舞。ひとりひとり、ひとつひとつの動きが、全体として一つの構造的な動きを生み出す。個人はその素材としてより強い強度を持った身体をつくらなければならない。いったん高められた群舞としてのエネルギーは、自由な動きを獲得するために絶対に必要なものだ。それは階層構造を持っている。たとえば単語は、文法という上位のレベルで制御されることで意味が生まれる。それでは群舞における文法とは、いったいなんなのか?正直これは難しい。昨年の群舞部門の評でフラメンコらしさが必要というが、はたしてフラメンコがどこまで群舞との親和性があるのかは、疑問だ。やはりスペイン舞踊とか創作ダンスにこそ力を発揮するのではないか?という気持ちも強い。群舞といえばアントニオ・ガデスだろうか。彼にとって、フラメンコらしさとは、いったいなんなんだろうか? |
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去年の新人公演のカンテ評。スペイン語に聴こえない、という基本的な感想。ということでユーチューブで日本人の歌うフラメンコを聴いてみました。最後の母音が明瞭に出ていないというのが特徴かもしれない。それは日本語の日常的な会話の特徴かも。はっきりと意見を言わない=明瞭に発声しない。でも、まるでカタカナを歌うようにはっきりと歌えばいいというものではない。フラメンコらしい音の揺らぎをつくる必要がある。それは正確な音程によって可能になる。音程の上下の移動の仕方にも、もっと繊細な意識的な操作も必要だろう。と、ここまで書いてみて、いまさらながら問題点が少し整理できたかな。 |
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