フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

色々

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追悼

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20年以上ぼくの睡眠を支えてくれたセイコーの手巻きの目覚まし時計が動かなくなりました。20年間毎日ゼンマイを巻きました。

 1970年にクオーツが登場してから製造されなくなりはじめていたようだから40年ぐらいまえの時計だろうか。

 この時計は、目覚ましの音が鳴る少し前に「チッ!」という小さい音が鳴る。調子がいいときにはその音で目が覚めて、目覚まし時計の音が鳴る前に止めて目を覚ましていた。まるで身体の一部のようなものだった。

 動かなくなるまでほとんど時間は狂わず、昨日の朝、最後の仕事を完璧にこなしてから、その日の昼に止まったわけだ。

 いい仕事ぶりでした。ありがとうございました。

雨がやんだら

 子供のころに教えてもらったことを鮮明に覚えていることがある。

 おじいさんに自転車のパンク修理の方法を、おばあさんに編み物、父親に空手の巻きわら(板に荒縄を巻きつけたもの)のたたき方。母親に新聞チラシの上手な切り取り方など、ほかにもっとたくさん教えてもらっているのに、なぜかそれらを教えてもらったことはよくおぼえている。

 フラメンコもそんなふうに日常で覚えていったものだろうな。

 ということで、雨がやんだら、おじいさんに教えてもらった技術で自転車のパンク修理をしよう。

植物の種から芽が出るためには、

 この宇宙が存在し、そこに銀河系の中の太陽系の地球が生れ、そこに水が生まれ、大地が登場し、空気が発生し、太陽の恵みを得るための光合成のシステムが確立される必要がある。

 それが安定して可能になるためには、様々な植物や動物の社会という上位システムが誕生しなければならない。

 で、それを美しいと感じる人の視線が最終的に登場する。

 これがたとえば華厳の思想。

 一輪の花を美しいと感じる意識と宇宙意識とはつながっている。

 一輪の花を美しいと感じる意識は、フラメンコを美しいと感じる意識とつながっている。

 今年はいろいろと大変なことがあったけれど、一輪の花が咲き、それを美しいと感じることが出来れば、とりあえずはなにがあってもやっていけるだろう、と考えながらバタバタしている年末なのであった。

大和田いずみ展

フラメンコの踊り手でもある大和田いずみさんの展覧会に行ってきました。
http://www.sakuranoki.co.jp/

 その覚書。

 漠然と作品を見ながら意識の焦点を探る。その後でギャラリーの関係者の女性と少しお話をする。僕の曖昧な絵にたいしての感想をうまい具合に広げて明確にしてくれた。さすがプロ。

それは見る距離によって変化する。それは曖昧で複雑な色合いによって喚起され、見るものの視点によって表情を変える。ロブスターのハサミは、そんな視線の力によっても収縮されることはない。それはこれから食べられようとしている料理ではなく、まだいまを生きようとしているかのように動いて見える。赤い色は、その生命力の象徴でもある。

 複雑な色にくらべれば線はシンプルだといえる。むしろ線なんて描きたくないかのようだ。画家の身体の延長であるその筆先は、自由に画面を走る。それが見るものの安心感を与えるのかもしれない。線は画家のパーソナルな編集を通して描かれる。線は、シンプルだけれど、よく見れば微妙な振動を感知している。それは画家の感情のブレだろうか。自然界には、いわゆる画家が描く線というものは存在していない。では、なぜ画家は線を描くのか?それは見えないものを見えるようにしようという努力の現われなのだ。

 いったいここに描かれている橋を渡ることが出来るのだろうか。橋に近づいていくにしたがって橋はしだいに曖昧になっていき、橋の原型が崩れていく。まるで虹に近づいていくかのようだ。橋は画面から離れていくにしたがって、橋としての強度が生れる。つまりこの橋は、渡ろうとして近づくと消えていき、離れるにしたがって現われる橋なのだ。この橋は三次元の身体をもつわれわれには渡ることが出来ない。

花束というものは自然界にはない。花は、人に気に入られるように改良を加えられ、野生であることから遠くはなれたものとなる。そんな花は切り取られ花束として新に生れなおす。花は、花束としてひとつにまとめあげることで、自然界の花以上の存在になる。だから花束は、人の気持ちを喚起するのだ。

 食べる行為は、皮膚感覚を刺激する。トポロジーとして口や胃は皮膚と同じように外部である。なにげなく置かれた果物や料理や飲み物を見ることは、そんな皮膚感覚を通して味わうことに似ている。まるで食べ物を消化するように見る。そこに描かれているのは、すでに空間的に消化されようよしているかのような曖昧な輪郭をしている。そこでわれわれはただ画家と同じように食べ物を味わえばいいのだ。

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 なぜかこの正月にはじめたフラメンコCDの整理。

 写真はその成果。

 フラメンコをはじめてから、基本的に本は図書館で読むようにしたので、本は整理をしながら売っていった。

 それ以前に売った本を入れれば、たぶん二千冊以上は古本屋に売っただろう。

 小さなダンボールに入れてもっていった本が数万円で売れたこともある。

 なかなか手に入らない貴重な本もそれなりにあった。

 いまはそれらの本はネットを通して、チェックしながらブログを書きながらそれらすべて処理している時期だとおもう。

 それを何処まで外にむかって言葉に出来るのだろうか?

 

 フラメンコも、すぐに廃盤になってすぐには手に入らないものも多い。

 でも、フラメンコの凄さはそんなCDの中に残っているのは、ほんの限られたものでしかないことはわかっている。

 その意味でフラメンコは、それぞれの個人の中にある。

 と、いったことを考えながら、焼酎を飲みながら整理整頓をしていたのでした。


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