フラメンコなどつれづれ日記

フラメンコは、自分の限界を感じるところからはじまるものだとおもう。

色々

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仏教の唯識を知るための短歌。 手をうてば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池  手を叩くという行為だけでも、受け取り手の意識で異なる、ということ。


垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども 長塚節
正岡子規の門弟。 はじめておぼえて口ずさんだ短歌。

阿佐ヶ谷の一番街にあるディープなバー「ケクー」で使えるとっさのスペイン語の初級篇。略して「ケスペ」  「フラメンコを歌ってください」→「Por favor, cante」 「ぽるふぁぼる、かんて」

動きは意識の指令によって起こるのではなく、イメージによって生まれるものである。 - 野口三千三 - 『原初生命体としての人間』

パスカルの『パンセ』パンセは「思考」の意。「人間は考える葦である」で知られているけれど、これを普通の人が言っても「?」となるだけだろう。思考という宇宙的な広がりをもつ力は、空間的にはひ弱な一点でしかない。

田中 小実昌の『なやまない』に本格的な西田幾多郎についての文章ががあってびっくり。どうしてもあの飄々とした印象しかないけで、東京大学の哲学科にはいって、多くの著作や翻訳があるインテリ。カッコイイ!

『勝間さん、努力で幸せになれますか』香山リカ 勝間和代をぱらぱら。対照的な女性でおもしろい。そういえば香山さんは、むかし一度だけ講演を聞きにいったことがあります。落語のまくらのように笑いをとってからはじまった。

糸井重里&矢沢永吉との対話。なにげない言葉に重みを感じさせる「プロの仕事」だとおもいました。やはり「お金」は、そんなところに好んで集まるのでしょうね。

実践と知識。コツをつかむためには、本だけでは得られない。実践からしか身につかない。アリストテレスは、それが政治でも同じだという。議論という実践が必要だ、ということ。それは一人では身につかない。

実家の近く

 細川ガラシャ。父親の明智光秀が本能寺で織田信長を討ったため、京都の弥栄町に幽閉された。母親の運転で連れて行ってもらったことがある。現在でもとても不便な山奥。当時、その道を知らなければとても素人が歩けなかったにちがいない。

 そのとき、たしか丹後時代に与謝蕪村が暮らしていたところにも案内してもらったな。

 実家がある網野町には浦島神社があって浦島伝説が残っている。近くには源義経の愛妾、静御前が誕生した地があり、小さな静神社がある。

 そこからしばらく車でいくと小野小町の終焉の地がある。

 京丹後市にある「間人」の読み方をわかりますか?(たいざ)と読みます。ここには、聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后が、間人(たいざ)に聖徳太子とともにやってきたという言い伝えがあります。

 網野町には、200メートルぐらいの銚子山古墳があったな。ながいこと忘れられていたらしい。

ジャズとフラメンコ

これまでときおり聴いてきたジャズが、なにかすこし「わかった気がしそう」なので、図書館から何冊か借りてきた。

 ぱらぱらとめくっていると面白い文章を発見。

 平岡正明の『毒皿と薔薇』

 まず、1960年代のはじめ、日本で唯一のフラメンコのお店「スペイン」の紹介する。

 そのお店の客は、コルトレーンの『オーレ!』を嫌い、マイルスの『スケッチ・オブ・スペイン』を評価した、という。

 それは、なぜか?

 ジャズを知らない人につけくわえておくと二人ともジャズの世界では神様のような存在だ。

 で、コルトレーンの『オーレ!』は、「ブレリア」の三拍子、そのサパテアードとアフリカのダンスの共通性を発見し、肉体的な感覚に近いような音。

 一方のマイルスは、カンテやギターに近い、という。題名も「サエタ」聴いた事がないけれど、いかにも余韻を楽しむような音になっていることは想像できる。

 で、結論的には、スペインのお客が「オーレ!」に違和感を感じたのは、フラメンコの先に感じたアフリカ的なものではないか、というもの。

 特にそのフラメンコとアフリカ的な曲の題名は「ダホメ・ダンス」

 直接関係ないお話だけれど、アフリカのダホメは奴隷貿易の中心地で、経済人類学がもっとも得意とする場所だ。

 こうして、フラメンコ→ジャズ→経済人類学とどんどんつながっていく土曜の昼下がりなのであった。

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ボウリング

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たまたまつけたNHKでボーリングの優勝決定戦をやっていた。

 そういえばボーリングにはまっていたとき
(ハイアベレージ213)なぜか買ったボーリングゲームが
あることを思い出した。うえの写真。 

なかなか味わいがあって、ハンズで衝動買いをした。

 お寿司屋さんのランチを食べ終わると、頼んでいないのにコーヒーが出てきた。サービスだという。口の中でお寿司の味と不協和音を感じた。むしろ美味しいお茶を飲みたかった。お昼時にお客さんがほとんどいない理由が、なんとなく想像できた。

 ランチを食べていると、女性が3人入ってきた。昨日も来たらしくて、これはサービスだ、と注文以外に一品をつけ、ライスやおかずを山盛りにして出した。たぶん女性たちはいらないサービスだとおもう。

 中華料理屋でランチを頼むと、運んできたお盆にサランラップが巻いてあった。たぶん、あとでそれを捨てれば楽だ、という発想だろう。サランラップは薄汚れていて不快な気持ちにしかならなかった。

 それほど暑くない日に、冷房が恐ろしいほど効いていた。たぶんお客に長居をさせないくふではなかったか?もう二度とその店に行く気をなくした。

 以上のお店は、その後、すぐにつぶれた。


 どのお店も基本的に「お客」という存在に対しての想像力が働かないことの失敗だとおもう。どれも工夫が独りよがりで、むしろマイナスにしかならない。

 ここまで長く書いたのは、フラメンコにたいする「自分勝手な解釈」がマイナスになることも多いだろうな、ということ。どうしても自分を基準にして、フラメンコのイメージを変えてしまいやすくなる。難しい話なんだけど。


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