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伊東香織
里見香奈
二人に共通する香とい文字に注目して記事を書いてみます。
伊東香織市長も香車という駒が一番好きで大変興味をもっていられる
ので
将棋の中で香車の意味が一番わかる「名人に香車を引いた男」升田 幸三
本をプレゼントしました。
升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。
「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」(「この幸三、名人に香を引くまで帰らん」とも)と書かれていたとされる。「香車を引いて」は香落ちの手合割でという意味であるが、これでは意味が通らないので「勝ったら」は「勝つため」と書き直して紹介した本などもあるが、それは誤りで、あくまでも「勝ったら」です。と本人の自伝に書かれている。 本人の自伝では、将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では阪田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。
1952年(昭和27年)の第1期王将戦で、当時の名人である木村義雄と七番勝負を争う。当時の王将戦は三番
手直りで、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す制度になっていた。
升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、名人に香車を引く対局が実現したが、このときの対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)。
1956年(昭和31年)、弟弟子の大山名人(当時)との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。
今度は実際に対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。
後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をしたのは升田幸三ただ1人であり、当然名人に香車を引いて勝ったのも升田幸三のみである。
この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。
「喜びがね、日々段々膨れ上がってきた。もう、人は死んで、(自分も)いつ死んでもいいが
、何百何千年経ってもね、俺の名前は残るというね。
時が経つほどね、やっぱり負かしといてよかったと。 将棋が始まって私だけだから。
名人に駒をおろした人は。」
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[香]に関連する記事がよくまとまっており、大変興味深く読ませていただきました。
2017/11/28(火) 午前 1:42 [ non*b*e2000 ]
> non*b*e2000さん
ありがとうございます。この話にはつずきがあって、「もういちど生まれ
かわったら」の記者の質問に「今度は名人を角落ちでからかってみたい」
升田幸三 があります。
2017/11/28(火) 午前 9:19