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(続く)
【パラセル小史 (6) …南ベトナム軍の駐留】
ジュネーブ協定後、ベトナムは17度線を境に南北に分断され、北にはベトナム民主共和国(北ベトナム)、南にはベトナム共和国(南ベトナム)が分立した。
ベトナムの南北分断は1954年から1975年まで約20年間続くが、この時期にパラセル諸島・スプラトリー諸島の領有を積極的に主張したのは南ベトナムであった。
南ベトナムは1956年4月、パラセル諸島に軍を派遣して西半分を占領し、諸島全体の領有を主張した。これはフランスからパラセル諸島の支配を引き継ぐという名目であった。
【パラセル小史 (7) …中国の単独実効支配】
1956年、南ベトナムが西半分を占領するのとほぼ同時に、中国はパラセル諸島の東半分を占領した。以後、南ベトナムと中国は、パラセル諸島のそれぞれ西半分と東半分を占領した状態で、18年間にわたって対峙を続けた。
ベトナム戦争末期の1974年1月、中国軍はパラセル諸島の西半分に侵攻して、南ベトナム軍を排除した。中国軍の攻撃は航空機による爆撃までともなったといわれる。これ以後、パラセル諸島の全域は中国によって実効支配されている。
中国としては、パラセル諸島はスプラトリー諸島へのまさしく途中にあり、パラセル諸島の確保なくして、スプラトリー諸島の支配はなく、したがって南シナ海の支配もないことを意識して、強引な軍事作戦をおこなったのであろう。
【ベトナム語】
(クアンダオホアンサ)
【英語名】the Paracel Islands
【中国語名】西沙諸島
【パラセル諸島の正確な位置】
南北は北緯15度45分から17度15分の間、東西は東経110度から113度の間にある。
ベトナムの郵便局の壁にかけられている地図。パラセル諸島(右上黄色)とスプラトリー諸島(右下赤色)が極端に誇張して描かれているうえに、スプラトリー諸島は極端にベトナムに近づけて描かれている。
また、ひとつひとつの島がコンソン島(中央下黄色)やフークォック島(左下シャム湾内赤色)並みに大きく描かれているが、実際にはこれらのほとんどは小さな岩礁や砂州にすぎない。
◆◇◆◇◆ スプラトリー諸島 ◆◇◆◇◆
【ベトナムからは遠く、中国からはさらに遠い】
スプラトリー諸島は、ベトナム名を「チュオンサ諸島」、中国名を「南沙諸島」という。ベトナム語のチュオンサは漢字語「長沙」のベトナム読みであり、「長い砂浜」といった程度の意味である。
スプラトリー諸島はホーチミン市から東方およそ800kmに位置している。もっともベトナムに近い島でも、ベトナムの海岸線から500kmも離れており、「ベトナムの沖」というよりも、むしろ「フィリピン領パラワン島の沖」「マレーシア領サバの沖」「ブルネイの沖」などという方が、より納得のゆく表現である。
まして中国からは、はるかかなたの南海の島々である。なぜここが中国領でなくてはならないのかと、たいていの人が地図を見ながら頭をかしげるであろう。
スプラトリー諸島は100以上にのぼる小島・岩礁・洲島の総称であり、これらが東西800km、南北600kmという広大な海域に散らばっている。その海域の面積は日本海の半分近くにもなる。
これら100以上の島々をすべて合わせても、合計面積は10km2にすぎない。各島の海抜はほとんど海面すれすれのレベルで、諸島の中のもっとも高い地点でも海抜わずか4mである。スプラトリー諸島とは、広大な海域にケシ粒のように散らばる極小の島々の総称なのである。
【遠国が全領有を主張する逆説】
このスプラトリー諸島にたいしては、ベトナム・中国・フィリピン・台湾・マレーシア・ブルネイの6ヶ国が領有を主張して争っている。
正確にいえば、中国・ベトナム・台湾の3ヶ国はスプラトリー諸島の「すべて」にたいして領有権を主張し、マレーシア・フィリピンは一部の島々についてのみ領有を主張している。ブルネイはもっとも控えめに、自国に近い一部の海域を排他的経済水域としているのみで、陸地の領有は主張していない。
こうしてみると、マレーシア・フィリピン・ブルネイという実際にスプラトリー諸島に近い国々の主張は、控えめで現実的であるのにたいして、スプラトリー諸島からはるか遠方にある中国・ベトナム・台湾の3ヶ国が、自己中心的に諸島全体の領有を主張しているという逆説的な図式が浮かび上がってくる。
【南方海域との浅い関係】
実際、中国は1992年に領海法を制定して、スプラトリー諸島を中国領と定めた。またベトナムも、スプラトリー諸島をチュオンサ県(県は日本の郡に相当)と命名して、行政上カインホア省に所属させている。カインホア省はニャチャン市を省都とするベトナム中南部の省である。もちろん中国やベトナムのこうした行政的な措置は国内向けのもので、国際的にそのまま通用するわけではない。
距離的にスプラトリーは、中国本土からはきわめて遠いが、ベトナムからもまたかなり遠い。またベトナムとスプラトリー海域の歴史的なかかわりも薄い。スプラトリー諸島があるのは南シナ海のなかでも南方の海域であるが、そもそもこの海域に臨むベトナム南部(カインホア省以南の地域)がベトナム領になったのは、せいぜいここ300〜400年のことである。
ベトナムの伝統的な領域は、現在のベトナム領の北半分にすぎない。中立的な立場からいえば、ベトナムのスプラトリー領有の主張もまた、それほど説得的ではないといわざるをえない。
【スプラトリー小史 (1) …第二次大戦以前】
スプラトリー諸島の帰属問題がこれほど複雑になっているのは、同諸島が極小の島々の集まりであって、人間が長期にわたって定住できる条件のない土地であることが根本的な背景になっている。すなわち、これまでどの国の民もそこに定住したことはないのである。
このように、どの国も決定的な領有の根拠を欠いているだけに、各国ともさまざまな論法と資料を動員して領有の正当化に努めている。とくにスプラトリー諸島との歴史的かかわりが薄く、距離も遠い中国は、2世紀初めの後漢時代や15世紀初めの明代に、スプラトリー諸島のある海域に艦隊を派遣したことなどを挙げて、領有の根拠としている。
パラセル諸島以上に居住が困難なスプラトリー諸島にたいしては、各国の実効支配の努力がはじまるのも遅かった。比較的早い時期にその努力をはじめたのはフランスであった。1930年から33年にかけ、フランスは海軍を使ってスプラトリー諸島のいくつかの島を連続して実効支配していた。
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