またまただいぶ間があいてしまいましたので、前回のあらすじから。
『妻に内緒で会社を辞めている現実をいよいよ話すときがきた。
意を決して、妻を居酒屋へと連れてゆく。
妻の屈託ない明るさに私は、幻想の世界に引きずり込まれていた。』
【中編連載小説】
「ちぎれ雲 〜起立編〜」第二十七話
星ひかる著
「あなた、どうしたの、なにぼうっとしてるの。電話掛かって来てるわよ」
私は、妻の声で我に返った。
電話の呼び出し画面には、証券会社時代の顧客、岩谷のおばあちゃんの名前が表示されている。
私は一瞬びっくりして、目を疑ってしまった。
焦りもあって、電話を取り上げた拍子に通話ボタンは押されていた。
「ご無沙汰してます。岩谷さん、お元気にしてらっしゃいましたか」
私は、いつになく大きな声を発していた。
一杯しか飲んでなかったが、きょうのこれからのこと、妻に総てを打ち明けなければならないことを考えると、それだけで気は高ぶっていたのだ。
微量の酒だろうと酔いは回る。
「あら、覚えていてくれたのかい。ちょっとね、困ったことがあってね……。教えてほしいことがあるんだけどね」
昔なら、そうですか、と発して直ぐに、カブを飛ばして自宅へ向かうところであったが、奈良と東京と離れてしまったいまではそうはいかない。
「どうしました。まさか神坂がなにかしましたか」
私は冗談混じりに笑った。
証券会社というところは、時折、よくわからない商品を奨めることもあったから、その商品がどんな類いのものなのか理解できず、長年付き添ってきた私に、買って良いものか否か、そんなことでも相談しするために電話を掛けてきたのだろう、と思ったのだった。
携帯電話を耳に当てながら、鍋から勢いよく沸き立つ湯気と、さっきまで女将と談笑していた妻の少し不安げないまの顔とを交互に視線を送りながら、私は、岩谷のおばあちゃんの言葉の先を急いた。
「よくわからないんだけど、お金がね……、お金が無くなってるの」
こんど、私は、耳を疑った。
それと同時に、嫌な予感が沸き立った。
神坂に限ってそれはないと信じているが、顧客の資産を横領する事件は、時に起こることだった。
自分の借金を返すための単純な動機のものから、顧客の損金の穴埋めのために自ら犯罪に手を染めてしまうものもあった。
私は、幾人となく、そんな人たちをみてきた。
その一人に、あの神坂が加わることなんか絶対にない、と私は思いたかった。
けれど、その犯罪に手を染めてしまう者ほど、特に、自分のためでなく、顧客の損失補填のために、別の顧客から資金を流用し宛がう者は、普段から、純粋で責任感も強く、なにより誰からも信頼の厚い人物であったことも、私は知っている。
私は、さっきよりも一段と大きく沸き立ってくる嫌な予感を直ぐにも掻き消したかった。
「岩谷さん、このことは神坂には、直接聞いてみたんですか」
私の声は上擦っていたかもしれない。
妻が、なにもいわずに、ただ私をみている。
「そんなこと話せるわけないじゃない」
岩谷のおばあちゃんの声も少し裏返って聴こえた。
私は、席を立った。
携帯電話の受話器を手で塞ぎ、女将さんに、ビールをもう一本、と注文した。
妻は、わかったように、自分用のグラスをもう一つ追加していた。
私は、この店に入ってきた引き戸から表に出た。
「そうですよね。よくわからない、と仰ってましたけど、それ……、いくらくらいですか……」
私は、答えを聴くのが怖かった。
「五百万くらいかなあ……」
私は目を覆った。
自分一人で解決出来る数字ではなかった。
居酒屋の入り口の暖かな灯りが、いまの私には、遠くに、どこまでも遠くに感じた。
古びた暖簾が、時折吹く寒風に虚しく揺れていた。
〈第二十八話へ続く〉
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