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道彦が歩けば、物語が始まる。
今回の道彦は、だいぶ遠くへ行っていたようだ。 【即興超短篇(36)】 「母の声」 星ひかる著 道彦は久しぶりに母の声を聞いた。 「道彦、元気にしてんのかい……」 それは、留守番電話に録音された母の短い声だった。 道彦が奈良にいた時代、両親には散々心配を掛けてきた。 そのときのことが甦ってしまう。 そのときと同じ、寂しげな母の声だった。 十年を超えて連れ添った妻と別れたのも、この奈良でのことだ。 そして借金苦の道へと突き進むこととなる。 父が脳梗塞で倒れたのも、ちょうどそんな苦しいときだった。 馬鹿な道彦のことが心配で気を揉んでいたことが大半の原因に違いなかった。 父は道彦には優しかった。そして母も。 二つ下の弟が羨むほどに。 道彦に、母の元へ帰る決心をさせた弟の一言が、これも耳から離れない。 「兄さんでなきゃ駄目なんだ……」 いまにしてみれば、父が倒れて尚、帰ることに不安を抱える道彦へ、 痺れを切らし発した弟の気持ちの現れた言葉だったように思う。 弟は、道彦の気持ちがわかっていたのだろう。 母の声を聞きたくて聴きたくて、そして会いたくて逢いたくて仕方ないくせに、 体裁だとか世間体だとか、本来生きる上でなんの役にも立たないものに拘っている馬鹿な兄の気持ちを。 いいや、馬鹿な兄は阿呆の兄と諦めて、単に、父と母のためにしたことだったのかも知れない。 道彦が、足掛け九年いた奈良での最後の年は、母への思慕との戦いだった。 電話を掛けて母の声だけでも聞きたい。 けれども、そんなことをして、本当に母の声を聞けば、その場で泣き崩れてしまうに違いなかった。 道彦は懸命に我慢をした。 成功を目指して興したはずの事業も、思う通りには行かず、日々の生活に追われる毎日を繰り返すばかりになり、 当たり前に借金もこさえた。 そしてそれは嵩んでいった。 いっそのこと死ぬか……。 道彦は、いつしか死に方を考えるようになっていた。 己の死に様に相応しいものはなにかを、そればかりを思って過ごした。 思い当たる総ての死に様という死に様は、想像をし尽くした。 もう考えるのも嫌になった。 どうせ死ぬなら、その前に全部投げ出して、母の元へ帰ろう、せめて最後に母の顔だけでもみよう、と思い始めていた。 父が倒れたのは、正にそんな矢先だったのだ。 その知らせを受けても尚、帰ることに躊躇する道彦がいた。 「どうせ俺なんかが帰ったって……、迷惑なだけだ……」 そして、あの弟の言葉が発せられた。 「兄さんでなきゃ駄目なんだ」 いま道彦があるのは、父が命を張ってまで道彦を母の元へ戻そうとした結果である、と思っている。 道彦は、弟の言葉に促され、父そして母の元へ帰った。 病院に着いたとき、母と弟は既に到着していた。 ベッドに横たわる父がいた。 目は虚ろで覇気はなく、両手を広げ、指先を見詰めているだけだった。 父が父でなくなっていた。 道彦のことが道彦と、息子とは、わからないでいた。 道彦が、お父さん、と呼び掛けても目は虚ろで、 あんた誰だ、あんたみたいな親不孝な息子は知らんよ、といわれているようだった。 だが、そうではなかった。 道彦だけでなく、母のことも弟のこともわからない、失語症という脳梗塞の後遺症だったのだ。 「あれ、なんでこんなところにいるんだろう……」 集中治療室でみた父は、何度も何度もこの言葉を繰り返していた。 「お父さん、道彦が帰ってきたんだよ」 もう一度、母が虚ろな目をした父に向かっていった。 父は、道彦と目を合わそうともせず、なんの反応もみせない。 ただ、 「なんで俺は、こんなところにいるんだろう」 というばかりだった。 容態急変の恐れもない、という医師の診断もあり、 病院に父一人残し、道彦と母は、弟の運転する車で自宅まで送ってもらうことになった。 その道すがら、助手席に座る母には珍しく、独りで喋っていた。 「まあ、お父さん死ななくて良かったって」 道彦は頷くだけだった。 「お父さんね、私たちのことは誰だか解んないんだけど、 ヘレンとロンとバンの写真を見せるとね、解るんだよ。 名前、ちゃんと言えるの」 「本当に?」 と弟が返す。 「私らは、お父さん放ったらかしにし過ぎたから、忘れられたんよ」 と無邪気に笑った。 道彦は、車窓の流れる景色に目をやりながら、 いまではもう亡くなった、愛猫ヘレンとロンを思い出していた。 ヘレンもロンも、道彦と弟が中学生の頃に拾ってきた捨て猫だった。 飼う条件に、あんたらがきちんと面倒みるのなら、 と父とも母とも約束して飼った猫たちだった。 いつしか月日の流れと共に、道彦も弟も大学、社会人と成長し、家を出ていった。 その後、三匹の猫の面倒をみてくれたのは、父だった。 大人になった父の息子二人は、勝手に独りで大きくなったような顔をし、 父を煙たがるばかりで、碌に話もしない。 きっと父も寂しかったに違いない。 結局、父の善き話し相手は、三匹の猫、ヘレンとロンとバンしかいなかったのだ。 「お父さん……」 道彦は、目を伏せた。 声にならない声をあげた。 「道彦、あんたのせいじゃなか」 母の怒ったような声が車のエンジン音と共鳴し、狭い車内に響き渡った。 「兄さん、引っ越しのときは手伝うから、遠慮なくいってね……」 弟の絞り出した声も震えていた。 「お母さんなんだか、お腹すたわね。 二人ともなんも食べてないでしょ。 久しぶりにお母さんのご飯食べて行きなさい。 バンも寂しがってるから……」 男二人はコクりと頷くだけだった。 車は、夕暮れ時の少し冷えた風を切って、このときばかりは静かに流れて行った。 「道彦、元気にしてんのかい……」 母の声が道彦は大好きだ。 母の元へ戻って八年が過ぎた。 父も脳梗塞で倒れて八年が経つ。 失語症の後遺症は残るが元気でいる。 道彦はいま、実家から近くのアパートを借りて独り暮らしを始めている。 独りの道彦を心配した母の声。 これ以上、悲しませるわけにはいかない。 道彦は外へ出た。 秋の澄み亘る夜空を見上げた。 四つの大きな星が、ほろほろと瞬くように輝いてみえた。 ヘレンとロンに見守られているようでもあるし、道彦の家族の象徴の星であるようにもみえる。 道彦はきょう、父と母の待つ家へ帰る日と決めた。 留守番電話の声ではない、母の声を笑顔と共に聞きたかったから……。 〈了〉 道彦も長い旅に出掛けていたようで、前回の35話から、だいぶ間が開いてしまいました。 母を語るのは、いわば私の真骨頂なわけですが、今回は難産でした。 もう少し楽に書くつもりが、どんどん深みに嵌まってゆく感が強く、 少し書いては止めて、読み返しては閉じての繰り返しでした。 書き始めたのが、9月28日。 この即興超短篇を書き始めて丁度一年目に当たる日に合わせていたのです。 深みに嵌まると同時に、仕事で忙しくなったり……、 いいえ、遊んでたり、飲みに行っていたり……。 書けない理由をいちいち考えていました。 そんな最中で、 「最近、道彦さんはどうしてますか?」 なんて、道彦の登場するのを待ちわびてくれている方も幾人かいてくれたりして、 これはいかん! と、なんとかかんとか、手を入れてみて、 また止まり、また読み直し、その繰り返しでした。 この短篇の趣旨の「即興」とはほど遠いものとなってしまいました。 最近、人手不足が止まらず、仕事面では、相変わらず忙しい日の続くことと覚悟しておりますが、 ほんの少し夜のお仕事(?)を抑えて、書いていきたいと思います(笑)。 もう四十代残り少なくなりましたしね(爆)! 今回の超短篇も7時半に家に帰ってから、少しずつ最後の仕上げを行いました♪ いまこの時にしか感じられないものが必ずあるはずですから、 それを少しでも綴っていきたいと思います。 ではね。 追記 さて、これから缶ビール1本だけ飲んでもいいかな……。 ( ̄▽ ̄;) では、ではね。 |
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2015年10月13日
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