【泣き虫社長の投資日記】☆星ひかる☆

【書庫のお知らせ】なんか最近「競馬!」「エセコラ(エッセイ&コラム」「即興超短篇(一枚の写真から物語創作)」

エセコラ

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このエセコラも、実はこの四月で綴り始めて、ちょうど一年が経ちました。

一月、3〜4編のペースです。

私にしては上出来でしょうか。

40回目ということで、ジャストの節目でもあるので、

今回は私の小説の書き方、といいますか注意していることなど綴りましょうか。


【エセコラ(40)】

『私の小説の書き方』

星ひかる筆



私は小説を書く際、プロットは組まない。

書き出しが、ある日突然、頭に浮かび、物語がスタートする。

小説の書き方の教本等には、必ずプロットを組むよう推奨しているけれど、

これも善し悪しと私は思っている。

プロットを組まないで書き進めることは、書いている本人もどういう進捗で、どんな結末になるかわからないでいるわけで、

読者同様ワクワクしながら書き進められるのと、

そこには、意外なストーリーも生まれたりする利点がある。

書いている人にはわかってもらえると思うが、筆を走らせてゆくうちに、

主人公が勝手に物語を作っていってくれることがある。

勝手に動き、語り出すのだ。

このときの筆はとても速く、こういう現象を乗っている、というのだろうか。

いつもそうあって欲しいと願うのは贅沢かもしれないけれど、

この現象あってこその、私はプロット組まない派の一人であるかもしれない。

そうはいっても、やはりプロットを組むにこしたことはないのだろう。

私が出来ないだけのことである。

さて、小説にとって出だしが大切であるのはいうまでなく、

冒頭の善し悪しでその小説全体の評価も決まるといっても過言ではない。

冒頭で読者を引き付けなければ、それ以降読んでくれないこともあるだろう。

私は書き出しに関しては一定の自信を持っているが、それはまた別の話しとするけれど、

書き出しだけ書いてある物語は、二十個ほどある。

その冒頭とは、原稿用紙でいうと、一枚から三枚程度と思っている。

ここに思いの丈の総てをぶつけるくらいでちょうど良いとも思う。

そこにぶつけた想いがその後の物語の核になるはずだからだ。

また、核になっていないとならない。

冒頭には、いまいった物語の核の他に、後のエピソードの布石も打たれていることだろう。

何気に書かれたエピソードが後のエピソードと交差したとき、それは至福のときといえる。

小説を書き進めて行くうちに、どうしても先に進めなくなることもままあると思うが、

そのときはまた冒頭に戻って読み返してみるのが一番である。

そこには必ずなんらかの布石が隠されているはずだからだ。

もし布石が見付からないようなら、自分の力の無さを少しだけ嘆きつつ、そっと、布石を割り込みで書き足しておこう。

そんなの私もたまにある……、いいや、しょっちゅうか……。

でも案外しっかり布石が打ってあって、そんなときは自分のことなのに小さな感動を覚える。

小説って、なにが大変かというと、中身は勿論のこと、

原稿用紙、百枚、二百枚と書かなければならないことにある。

そんなにたくさんの話しをこんな私が書けるわけがない、そんなの書く人間は変人だ、

と思っていた。

確かに変人ではあると、いまでも思う。

でも、あるときこんなことを思った。

一行あれば俳句が出来、二行で和歌が出来る。

三行で詩となり、その詩が何十、何百と集まったものが小説となる。

そう、小説とはほんの数行の詩、エピソードの集合体なんだ、

と思えば、百枚、二百枚もそう遠い数字ではなくなった。

また、菊池寛の言葉に、

「小説なんてものは、四十を過ぎてからでしか書いてはならぬものである」

というのがあり、この言葉に出会ったのが、私が三十八の時だった。

菊池寛がこの言葉をいったのには、時代背景から考えるに、

その当時、芥川龍之介や太宰治らが若くして命を絶ったことを外すわけにはいかないだろう。

彼らに限らず、昔の文豪は、正に身を削って書いていたと思う。

私小説全盛で、自らの体験をここまで書くか、と思われるほどに晒け出していた。

なかなか自身を晒すのは憚れるわけで、自身の総てを晒すことの出来ない私の小説は薄っぺらなものになっていた。

それが、私も四十を過ぎて、吹っ切れたというのか覚悟が出来たというのか、

晒すことに抵抗がなくなってきた。

これを私とて、二十歳そこそこで総てを晒していたら、行き詰まり、末は、芥川や太宰のように自決していたかもしれない。

世間の荒波や風当たり、揶揄に対する抵抗力が身に付くのが、

菊池寛のいう、四十を過ぎて、なのかと感じた。

晒した自身のエピソードが重厚なものか、何処にも転がっている薄っぺらなものかは、

己の生き方に比例して身に付くものだろう。

まだまだと感じるならもう少し世間に揉まれればいいだけのことだ、と思う。

私も私小説書きである。

始め書く私の小説の主人公は、「私」である。

そのまま「私」が主人公でもいいのだが、そこに敢えて名前を授ける。

するとまた違う展開が生まれもする。

ずいぶんまどろっこしいやり方をしているな、と自分でも思うけれど、これが私のスタイルだと思っている。

主人公に名前があろうが、それは私小説である。

視点は崩さない。

神の目線では書かない、いいえ、書けないといった方が良いかもしれない。

あくまでも主人公の目線で、エピソードを綴っている。

主人公の知らない、いないところでのエピソードはないし、あり得ない。

これを崩すと主人公は超能力者になってしまうから。

私はただ一つだけ、主人公の心の深層を描くこと、それを心掛けている。

最後にもう一度、小説は、数行の詩の集合体である。

余白と余韻をなにより大切に思っている。

以上が、私が三十五年もの間、物語を書き続けてきて、ようやく辿り着いた、私なりの小説の書き方である。


〈エセコラ(40) 了〉


【エセコラ(39)】

『夢追い人と地道の因果』

星ひかる筆



この週末、NHKの連続テレビ小説「まれ」をダイジェスト版で一気に観た。

「夢」を追い続けて収入もなく家族に迷惑を掛け続ける父。

その父に反発するように「地道が一番」と公言し実行する娘。

夢を追うことは家族を不幸にする、だから地道が一番なんだ、

そう自分に言い聞かす娘「まれ」ではあるけれど、周りの友達はやっぱり夢を追い、語る。

そんな自分にもケーキ職人になりたいという夢がかつてはあったんだ、

高校生の揺れ動く心を描いている物語、とここまでの展開では見てとれた。

「夢追い」は「悪」で、「地道」は「善」。

恐らくは、最後には「夢」を追うことで得るものが如何に大切なことか、「地道」も勿論いいけれど、

やっぱり夢を見、語ることの善しを伝えてくれるものと思う。

さて、さりとて、現実はどうか。

私自身のことで考えてみる。

今年四十九になる。

いまは地道に仕事し生活しているが、

その実、いまでも十代のころの夢を追い続けている、

いわば、馬鹿大人である。

十代のころの夢とは、物書きになって飯を食う、だった。

それは、この歳になるまで、取り敢えず、物書きとしては続けている。

四十を過ぎて、芥川賞を獲る、に変わり、それは成し遂げられぬまま、

飯を食うまでには行かず、現在に至る。

飯を食わしてくれるのは、あくまでも地道な仕事からに他ならない。

他人に、夢を語るにつけ、後になって、

「俺は未だなにをほざいているのか」

と自身悲しくなることもしばしばだ。

いまの飯の種となっている、いまの地道な仕事は、夢とは掛け離れてはいるが、

私は不幸ではない。

少なからず、そう感じている。

何故ならば、それは、「夢」を追って生きているからだ。

いいや、言葉を代えれば、地道な仕事の下、夢を追うことが出来るからだ。

私のように、叶えられぬ間は一銭の金にもならない、そんな遠くの夢を持つ人間ほど、

夢を追い続けるためには、お金が必要である。

そう、飯を喰わずして生きては行けず、夢は追えないのである。

若くして夢を現実に出来た人は幸運であっただけで、多くの人が長く修行をしている。

役者でも、歳をかなり取ってから売れる人がいる。

彼らに学ぶべきは、「継続」、

そう、諦めないで夢を追い続けてきたからこその実現だと思う。

これこそが、本当の「地道」だったのだ。

地道にその道を歩き続けて来たからこそ、夢が実現したのだとすれば、

やはり娘「まれ」のいう「地道が一番」なのであった。

私も、いま地道な仕事で生活の糧を得て、

地道に物を書き続けて行きたい。

「地道」な道の上に「夢」は存在するのだと思うし、

「夢」は、「地道」なくしては成り立たないのだとも感じるのだ。

そういう意味から私は、地道な努力が足りないのであり、

いいや、仕事が忙しいからとか、飲んでしまったからとか、疲れて……とか、

要は、自分に甘い人間であったのだ。

いまの私は正しく、連続テレビ小説「まれ」に登場する、どうしようもない「父」、そのものであり、

「夢追い人」の風上にも置けない人間なのだ。

馬鹿大人となって久しい私であるけれど、

いつになったら夢を実現出来るのだろうか。

いいや、せめて、本物の「夢追い人」となりたい。

この私が、真の意味での「夢追い人」となれる日は、果たして、来るのだろうか。




〈エセコラ(39) 了〉


【エセコラ(38)】

『散文のすすめ』

星 ひかる 筆



最近、私が日々の他愛ない話を書くときの冠に挙げている「散文」。

この「散文」とは、一体なんなのだろう。

本日は「散文」を私なりの解釈としてのお話しと、この「散文」を意識して書くことのお奨めをしたく思う。

通常の「散文」の意味は、概ね、

「定型や韻律を持たない文章。小説や論文もこれに相当する。」

とある。

一般的に、皆さんが書いているブログ記事も散文であるし、

密かに書いている日記もそうである。

殆どの文章が散文であるといえる。

これが形容詞としての「散文的」と用いられると、その意味は、

「無味乾燥な、退屈な、平凡な、俗悪な」

となり、なんとも正に私の書く文章そのものを言い当てられているような意味になり、

恐ろしくもあり、身も蓋もなくなってしまう。

(そうならないよう注意はしているのだが……。)

私が敢えて奨めるまでもなく、みんな散文を書いているのだから、

「なにを今更」

ではあるけれど、そうとはならないよう続ける。

この「散文」を見事に論じている先人がいたので、ここに紹介させていただく。


戦後に活躍された小説家、評論家の広津和郎氏は、こう綴っている。

「人生の散文による客観的な追求が大切である。

ロマンチックになる代わりに、

泥まみれになり、傷を負いつつも、

人生の真実を何処までも掘り下げて明らかにしてゆく。」

それが、「散文」を書くこと、とその意味を言い当てている。

私が物を書くとき、一番に気を付けていることは、

「嘘を書かない」

である。

文章を書いていると、ついつい格好をつけたくなったり、ちょっとお洒落に気取ってみようとしたり、

したくなるものだ。

若いときの私は、少なからずそうあったかもしれない。

「真実」

これに勝るものはないのだと思う。

真実とは、案外、日常的で、つまらないことだらけかもしれないけれど、

「真実」を追求してゆけば、そこには他人との共感を必ずや生む、

と思っている。

いいや、信じている。

散文は散文でも、「散文詩」はよく書いた。

戯言の羅列ではあるのだけど、そこにはそのとき見て体験して感じたままの自分が棲んでいる。

そのときにしか書けないものでもある。

綴るうちにあれもこれもと思いの丈、そのまま綴る。

楽しいものだ。

真実を書き、掘り下げ、追求して、こうあるべきか、いやこうか、と想い悩むことが出来るのも、

真実を書いていればこそだ。

小説も散文であるなら、先の散文論からすると、

真実を書かないといけないのか、と思う人もいるかもしれないが、

「空想、幻想」も

それはそれで、あなたが、心で想い見て感じた「真実」であるはずだから、

そこに嘘はない。

小説でもブログの記事でも、虚実を作ってしまうと、その埋め合わせ、辻褄合わせが大変なだけになる。

見たこともない、感じたこともない、体験したこともないことを書くことの労力は、如何ほどのものだろう。

見て感じて体験したことをそのままに書く方が何十倍も楽だし、楽しいと思うのだ。

ただそれだけだ。

ただそれだけのことである。

私は、人生は散文的で充分だと思っている。

退屈で、平凡で、俗悪な人生で充分である。

それでも生きて、その我が人生に、己が思う感情が豊かであれば、

それでいいのだ、と思う。


〈エセコラ(38) 了〉


今朝、仕事行く前にテレビのニュースで観て聴いて腹が立ってしまったので、

久しぶりにエセコラ書きました。



【エセコラ(37)】

『ドイツ人記者のナイスな質問』


先日、ドイツのメルケル首相来日と日独首脳会談、共同記者会見の運びとなった。

共同記者会見でのドイツ人記者が発した安倍首相への質問が、

私には、この質問こそなぜ日本人から及ばないのか悲しくなって、筆を取った。

「ドイツ国は福島の原発事故を受けて、原発廃炉の道を選びました。なぜ日本は原発を再稼働させるのですか。」

日本国では、ネット上や非公式の場ではよく出る質問や問題提起だったりはするものの、

それは、安倍政権批判の先鋒の議題の如く、人気政権の影に埋もれて声は小さく足蹴にされているのが現状である。

現に自民党会で安倍首相は声高らかに、

「野党は批判ばかりです。対案を示せないからです。」

だからなにやってもいいんです、と聞こえる。

ドイツ人記者の質問に対する安倍首相の答えは、正直、馬鹿の一つ覚えの体で幻滅した。

「原発は、安廉で安全でクリーンです。何より経済活性のため」

未だこの答え。

原発が低コストという根拠はどこにあるのか。

一つ福島の様な事故を起こせば、その処理に何十年何百年、何万年掛かるのだけれど、その費用は入れないらしい。

被災者(被曝者)の補償金は何処へ。

安全、って未だにいっていることに、この首相は頭大丈夫なのかと疑ってしまう。

もう安全神話はあの福島で無くなったばかりじゃなかったでしょうか。

あ、うっかり忘れてました、政治献金と同等の物忘れ健忘症だ。

クリーン、って、二酸化炭素は幾分クリーンだろうけれど、プルトニウムやウランが漏れたら、

地下水は汚染され、海だって汚染されれば、日本国だけの問題では無くなるのだが。

いままで日本の記者からこんな質問されなかったものだから、

答えを用意してなかったのだろう。

一つ覚えの準備がされてなくて、安倍首相の頭の何処か引き出しに入っていた、

昔ながらの安廉安全クリーンを取り出したのだろう。

もともと引き出しの数は少なかろう発言が目についていたから、驚きはなかったが、

もうこのフレーズは原発初稼働の標語でること覚えておくべきだ。

日本を代表しているからには引き出しは、増やしてほしい、と私は思ってしまう。

良くも悪くもドイツ人記者のお蔭で、この話題はご法度では無くなったわけだ。

いままで人気政権に針を指すと返り討ちが酷く、槍やら鉄砲やらそれこそ原爆落とされかねないから、

マスコミも深く追求出来なかったのだろうし、このドイツ人記者の質問を機に、

姿勢を改めてもらって、もっとこの再稼働について、

議論の場を作るべきだと思う。

いいや、思うだけでなく、そう私は願う。

最後に、安倍首相のこの発言に未だ支持をする人とは、一体、どの部分に賛同しているのだろう。

経済か、戦争も辞さない態度が中国の脅威から日本を救ってくれるとでも。

経済は円が弾けばまた元の木阿弥である綱渡り、

集団的自衛権に関しては、自衛隊員だけでなく身近な若者までが徴兵そして戦場へ、

悲しいかな、戦死されていくことも、いずれ日常となる、

こいうことも起こり得るんだ、ということを念頭に入れないとならない。

総理大臣なんて誰がなっても同じじゃん、などと思っている人とあれば、

それは論外だから、私の意見など聞かない方が良かった、と諦めてほしい。

きょうは少し言い過ぎただろうか。




〈エセコラ(36) 了〉

星ひかる筆

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【エセコラ(36)】

『深刻な人手不足時代に突入』



昨日、きょう、続けて従業員が辞めた。

いま募集を掛けても、応募者は数人しか来ない。

いいや、数人でも来てくれれば良い方で、一人として応募者がなかったときもあった。

かろうじて応募に集まってくれたその数人を全部受け入れたとしても半分は、二、三日で辞めて行く。

そんな折りでの二人の退職は、中小企業には非常に痛い話しなのである。

会社は清掃業である。

朝は早く、作業も決して楽ではない。

時給に換算すると、そこら辺のアルバイトと大して変わらない。

若い人が来るのは稀で、主力は六十代の御方たちだ。

若い人ほど直ぐに辞めて行く。

同じ時給ならコーヒーショップで働いた方がお洒落だし綺麗だし、

楽にみえるようだ。

私も若ければきっとそう思うに違いなかった。

この人手不足は清掃業だけに留まらない。

介護業界も製造業も苦難の時代を迎えている。

安泰をみているのは大企業であるものの、人材の質、レベルまで問うと、一頃よりは細くなっている、

というまた別の苦難がある。

辞めて行く人の理由をまとめてみると、対人関係が一番に来るのはいつの時代も同じ。

待遇面でのギャップもある。

対価に対する作業内容のギャップもある。

(貰う給与に見合わない大変な作業。)

嫌ならさっさと辞めてまた違うところで、という人が多く、なにより手っ取り早く思うようだ。

きょう辞めていった40歳の男性は、昨日無断欠勤をし、

きょうになってこちらから連絡をとったところ電話が繋がり、

どうしたのだ、と理由を聞いたらば、

「連絡しなかったのは申し訳ありません。人間関係とかそういうことではないんですが、なんか仕事が出来なくなりました……」

という。

仕事したくなくなりました、ということなのか。

朝早くきついから仕方ないな、ということなのか。

もっと楽な仕事を見付けたのだろうか。

私は始め、彼を引き留めようと思っていたが、やめた。

この理由を聞いて、私自身理解不能に陥り、これ以上話すことの意味をなくした。

それこそさっさと退職を了承した。

少子高齢化といわれて久しいが、この対策をなにもとられてこなかったことが、

ここに来て各企業に重石となりつつある。

高齢化だけならまだしも、少子の時代だ。

就業人口もいまと十年後でどのくらい減るのだろうか。

まともに働きたいという人口は少なからず半減していると感じる。

余程、生活に逼迫しているか、その会社なり人に恩義を感じていない限り、

特に私のいる中小企業はこれからもっと酷い慢性的な人手不足に悩むことだろう。

人手不足で倒産の会社もあった。

これはそのうちに倒産理由の上位に来るかもしれない。

大手のように人材確保のための先行投資を出来るならば、悩むこともなかろうが、

中小企業にはそれが簡単には出来ない。

人件費の重石に耐えられるかどうかの心配が先に立つ。

そもそもの話し、働く意欲がなくなってしまった人が多くいる。

若くして生活保護を受けている者もわんさといるこの世の中は、なにか違っていないか、とも思うのだが。

働くことの喜びを教えられ、与えられれば良いのはごもっともではあるけれど、

口にするは易し、行動するに難しで、行動に出られないがために、ブラック企業のそしりを受ける中小企業も多い。

これからもどんどんと中小企業は淘汰されて行くことだろう。

機械化、文明の力の世の中ではあるが、やはりこの世は、人対人で成り立っている。

なにはなくとも人が動いて世の中は回っているのである。

機械だけの世の中ではないのである。

人材は間違いなく宝なのである。

最近私は富みにそう思う。

人情だけで仕事は出来ないにしても、この人情だけは忘れたくない。

昨日、きょうと辞めた二人には私なりに人情をぶつけて接していたつもりであったが、叶わなかった。

やはり仕事は現実的なのだろうか。

人情は要らないのだろうか。

どちらもであり、どちらでもないようであるが、やはり仕事は人がしているわけで、

そうである以上、一人ひとりと腹を割って話し合い、

如何に信頼関係を構築してゆくか、

良い仕事をするためには、このことに尽きる、と私は信じている。



〈エセコラ(36) 了〉



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