久々のエセコラは、昨日、書いた短篇の題材に対するコメントから、
やはり喫煙者は、かなり迷惑な存在となったこたを改めて認識しまして、
その喫煙者と、嫌煙家との共存の道を探りたいと思います。
【エセコラ(31)】
『愛煙家でありたい』
昨今、喫煙者には、大変な時代となった。
特に東京を始めとする都会の街中では、煙草を吸う場所は、いまや消えてしまったに近い。
路上は勿論、病院、オフィスビル内にあっても、自由に吸うことは叶わない。
公共施設においては、もはや、決められた場所、喫煙所以外で吸うことは出来なくなった。
街に一歩出て、ああ煙草吸いたい、と思ったら、指定の喫煙所を探し当てるか、二百円なにがしを支払い、喫茶店に入るしかない。
外で吸えば、条例により、金額はまちまちだが、都内においては、二千円の罰金対象ともなる。
いつの頃からか、喫茶店でさえ、煙草を吸えなくなったことは、私にとっては、かなり衝撃的な出来事の一つであった。
煙草を吸いながらお茶を飲む喫茶店から、珈琲の香りを味わうコーヒーショップへの変貌を遂げた。
私が小学生の頃、もう四十年前になるが、担任の先生は、教室の机に灰皿を置いて普通に煙草を吸っていた。
毎日の先生の灰皿をきれいにする係りまであったくらいだ。
月日は流れ、私が就職した当初は、事務机に当たり前に灰皿があり、自分の机で吸っていた。
西暦二千年を過ぎた辺りだろうか、煙草は机で吸えなくなり、小さな会議室に追いやられた。
そして、いま当たり前になった喫煙室が設けられるに至ってゆく。
そこはさながら囚人の収容所の如く、暗くジメジメしたイメージが付きまとう。
二千年のとき同じくして、私の住む神奈川県では、
居酒屋でも喫煙出来なくなる法案を通そうとしていた。
煙草と酒はセットであると思っていたから、
私には、これも衝撃、というか馬鹿げた法案だ、と感じた。
この法案を考えたのが、任期の途中で神奈川県知事から東京都知事選に立候補を宣言したにもかかわらず、
すぐに取り下げるという珍事を起こした人物、といえば、わかる人にはわかるだろう。
結局、この法案は、大店舗は分煙するが、小さな個人店は対象外、
ということで収まったが、なんとも曖昧な事態にはなった。
この当時神奈川県では、愛煙家対嫌煙家の戦いが凄まじかった。
法案可決するなら、セットで神奈川県での煙草の販売を全面中止しろ、
というものまで出ていたが、煙草税がゼロになるのは財政上無理なこともあり、
曖昧な分煙策を行政サイドで編み出したのだろう。
言い出しっぺの行政の失態として、神奈川県民の間では有名な話である。
煙草税の財政を守る行政と愛煙家と嫌煙家の三つ巴戦は、いまなお続いているようだ。
余談が過ぎたが、最近の現象の一つに、喫煙者の立場の私が気になっていることがある。
いま街中で唯一大手を振って煙草の吸える場所、喫煙所が次々となくなる傾向にあるということだ。
理由は簡単だ。
喫煙者のマナーが悪いからだ。
減るのも頷けるし、致し方ないと思っている。
喫煙者のマナーの悪さに、嫌煙家の方が怒るのも無理はないのだ。
未だにポイ捨ては横行している。
せめて携帯灰皿くらいは用意しておけ、と私でも怒りたくなることは、しょっちゅうある。
また、嫌煙家の怒りは、喫煙者のマナーの悪さばかりではない。
一つに、受動喫煙による無喫煙者への健康被害の懸念であり、
そして、今回新たに知った事実に、喘息持ちの方への配慮が無さすぎることがあると思われる。
私自身、煙草吸いの人間で、主だった病気もなく、気管支も強く、喘息持ちの方の気持ちがわからなかったと反省している。
喘息の原因に煙草の煙りはないだろうが、発作を、引き起こす原因にはなる。
発作の苦しみはつらいだろう。
大いに気遣うべきところだった。
さて、そろそろ締めに入ろう。
煙草は、嗜好品である。
独りのとき、物思いに耽っての一服は格別であるし、いろいろな考えに及ぶのも事実としてある。
嗜好品であるが故、私は、煙草を楽しみたい。
嫌煙家の方との共存を考えるに、私は、喫煙者は、喫煙時のマナーを確りと守らなければならないと思う。
道に煙草をポイ捨てすることは、地球を汚すということであることくらい、認識すべきだ。
煙草をルールを守って楽しみとして吸っている人を愛煙家と呼ぶなら、
ルール無視して、ポイ捨てだろうが、ところ構わず吸う人はただの喫煙者と呼ぶ。
永遠に煙草を吸いたいのなら、喫煙者でなく、愛煙家になるべきだ。
嗜好品としての煙草を味わう愛煙家で、私は、ありたい。
〈了〉