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ときたま風も吹くので、いくらか暑さも和らいで感じられます。 かと思いきや、四国では甚大な暴風雨の被害が報じられています。 狭い日本、いいえ、日本も広いのでした。 さて、きょうのエセコラは、第20話目。 不定期に書かせて頂いて、我儘な文章であるのに、およそ30人くらいでしょうか、 私の読者様、毎度辛抱強くお読み頂きまして、誠に感謝でございます(笑)。 本日は、私の社会人としての最初の仕事となりました、 証券会社での出来事あれこれを綴ろうか、と思います。 写真は、日本橋兜町にあります東京証券取引所の建物です。 先日、久しぶりに訪れてみましたが、驚いたことには、 二枚目の写真の右側の建物、手前から二軒目のところに昔私が勤めていました証券会社の本社があったのですが、 いまや建て替えられて、新しいビルになっていました。 なんだか寂しさを覚えました。 証券会社は、いまと昔では、形を変え、淘汰もされ、実情、私が勤めていた時代とは様変わりの体でおります。 現実に私がお世話になりました証券会社もいうに及ばず、 合併に合併を重ね、五種類の血が混ざった会社になっています。 その前身となる、昔の善き時代の証券会社のお話し。 14年半、よく耐え、頑張ったなあ……(遠い目)。 では、どうぞ。 【エセコラ(20)】 『証券善き時代の話し(その1)』 私が証券会社に入社したのが、平成3年4月。 当時は所謂、青田買いの最後の年といわれた年代だった。 入社半年前の10月1日は大学四年生就職活動、事実上の解禁日である。 その日に併せて各社とも一斉に、学生確保のため、内定者数十人もの学生を拘束旅行に連れて行っていた時代だ。 拘束旅行とは、内定者に他の会社に行かないよう、読んで字の如く、学生を拘束するための旅行だ。 勿論、旅費は会社が全額持ちで学生は只である。 私のときもおよそ50人くらいの学生が参加した。 旅行中は、やりたい放題だった。 部屋の冷蔵庫は無論のこと、着いて風呂入って宴会までの空き時間にマッサージ師を呼ぶものもあった。 私は、その間に、冷蔵庫のビールを一本二本と空け、みんな初対面でもあるわけで、 宴会前のミニ宴会を開いていた。 ほろ酔いで本番の宴会が始まるのだった。 楽しさだけが思い出として残る小旅行だった。 新しい仲間も出来た。 一緒に入って会社を盛り立てような! と熱く語り合った。 結局、この50名のうち28名しか入社式に来なかった。 同期入社は、この28名の営業職他女子やら総務系の子を入れて、全部で69名だった。 その前の年の新入社員が、160人超えていた。 私たちの代で会社創設以来初の社員千人を超えた、いわば丁度、準大手の枠に入ったばかりの証券会社だった。 この新入社員の数といい、拘束旅行での待遇の良さといい、 いまの学生には考えられないことであろう。 いまにしてみれば、各企業ともお金を使い過ぎであるし、無駄も資産のうち、ともいいながらであったが、 これが、バブルだったのだ。 私は、正に、バブル最後の落とし子だったかもしれない。 入社式で私は、新入社員を代表して答辞を述べた。 優秀だからでもなんでもなく、ただ単に一番歳を取っていたからだ。 二浪していたので……、入社時で既に24歳だった。 大学では工学部を出た私が、証券会社を選んだ理由は、いくつかあるが、 一つは、当初アルバイトしていた先の寿司屋に、毎日のように来る客がいた。 羽振りも頗るよかった。 この客人が、たまたま私の通っていた大学の先輩にあたる人だったこと。 この人は当時取締役常務で、私が一年生の頃からなにかと気にかけてくれていた。 私が四年生になったばかりくらいのとき、その彼から、 「おい、就職は決まったのか?!」 「いいえ、教授から何社か話しもらってますけど、まだどことも面接してません」 そう、私たちの時代は、殆どの学生が、就職は教授が決めていた。 下手をすると政略結婚のように有無も言わさずに勝手に決まっている場合もあった。 教授の息のかかった卒業生のために人材を派遣していたのだ。 当然見返りもあったろう。 接待とか接待とか、接待だとか。 私は、白衣が嫌いで、まあ、じっとしているだけの研究が嫌だった。 教授への答えをまだ出さずにいたところだった。 「おい、まだなら俺んとこへ来い!」 この植木等のような台詞一言で、私の就職が決まった。 勿論、決断したのは私自身だ。 理由のもう一つが、化学畑から経済畑へ飛ぶわけなのだが、 私は、こう思った。 株や債券の投資は面白そうだなあ、でも自分で勉強するとなるとかなり大変だろうなあ、 でも証券会社に入れば、お金を貰いながら、勉強になるんだ、 これは正に一石二鳥じゃないか! う〜ん、確かにこうも思ったけど、本当は何も考えなしに、いろいろ気にかけてくれた先輩の顔を潰すのが出来なかったからだった。 もう一つは、金儲けの話しをたくさん聞いた、というのもあった……と思う。 これが本心だったかもしれない。 都合の悪いことは、直ぐに忘れる性質なのである。 事実、私の一つ上の入社社員の一年目の冬のボーナスで、 70万円もあった時代だ。 因みに、その次の年、私たちの一年目の冬のボーナスは、36万円だった。 たった一年の差で、半分だ。 四万円あった株価が二万円になっていたんだ。 株価も半分、ボーナスも半分、ということか。 証券会社の話しをしようと書き出してみると、会社に入るまでの話しで、ここまで来てしまった。 予定文字数オーバーだ(笑)。 本当に我儘勝手、気ままの私のブログにお付き合いして頂いている辛抱強い読者様には、 感謝です。 入社までのここまでを「その1」ということで、入社後「その2」を次回に綴りたいと思います。 書き出してみると話しが尽きないのも、やはり異色の業界証券界の善いところでもあるかもしれない。 では、また次回に。 《エセコラ(20) 了》 |
エセコラ
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また、目を覆い、耳を塞ぎたくなるような虚しい事件が起きましたね。
高校一年生の女の子が同級生を殺して、しかも頭部と手首を切断した、とか……。 動機がこれまた意味不明で、 「人を殺してみたかった」 家庭環境に問題があるからなのか、それよりも以前に、 小学生時代にイジメにあっていたらしいので、 それが原因で心が歪んだのだろか。 いずれにしても人の心は持っていなかったのだ、と感じてしまう、悲しい事件でした。 虫けらを殺すように人間を殺す。 これはいまのイスラエル親露派の紛争も同じことです。 罪もない子供たちがたくさん殺され、生き残った子供は親や兄弟を殺されています。 もう世界が、いいえ、地球がおかしくなっています。 自然環境でさえも、この暑さが熱さに変わり、地球自体が燃え尽きてしまうかのようです。 やりたいこと、やり残したことはありませんか。 もしあるなら、早めにやっておいたほうがいいかも知れません。 さて、私はいまのうちに、エセコラを綴っておきましょう。 先日、私は、うちの現場の責任者にある相談を受けました。 では、そのときのお話しを。 【エセコラ(19)】 『魚の目はもぐさで治る!』 私は清掃会社で働いている。 ある現場に巡回立ち会いの用があり、そこの責任者と昼食を摂っていたとき、彼が、 「星さん、魚の目が痛いんだ……」 と顔を歪め訴えた。 相当痛いようだ。 魚の目、これは、私も高校生のときに経験がある。 魚の目が出来る、一つの原因に、靴の中に小石が入ったまま痛いのを我慢して履き続けてしまうというのがある。 野球をやっていた私は、スパイクの中はいつも砂利だらけだった。 練習で特守(ノックを受けること)などすると、何十分も続けてプレーをしている。 靴に入った多少の石など気にしていられないのだ。 痛いのも忘れて履き続けてしまう。 気付けば、魚の目になってしまっている。 魚の目が進行すると、足の裏に月のクレーターのような穴が開く。 ここに小石が入ってしまうと叫び声を上げるほどの激痛に見舞われる。 私は母に泣きついた、と思う。 当時、我が家にはもぐさが必ずあった。 私や弟が、悪さをすると、このもぐさでお灸を据えられる。 もうこれが恐くて恐くて堪らなかった。 母の「お灸するよ!」 の声が怖かった。 このもぐさで魚の目が治る、と母がいうのだった。 「おばあさんから教えてもらったのよ」 と母。 もう痛くて仕方なかった私は、怖いお灸をしてもらうことにした。 まず、魚の目に味噌を塗る。 そこにもぐさを小山のように盛る。 線香に火をつけて、盛られたもぐさの小山の頂上に線香の先をつける。 もぐさが煙を吐いて黒く赤く燃えてゆく。 徐徐に熱くなってくる。 私は歯を喰い縛っている。 完全にもぐさが燃え尽きたら終了だ。 するとどうだろう。 あれ? 痛みがない……? 歩くのも大変だったのに、次の日には、痛みも吹っ飛び、なんともなくなっているではないか。 魚の目はもぐさの熱によって、死滅されたようだ。 おばあちゃんの知恵、恐るべしだ。 私は、この経験を思い出し、相談を受けた責任者に教えてあげたのだった。 その彼から、昨日メールが届いた。 「星さんに教えてもらったとおり、お灸を据えました。二日ほどやりましたら、いまはすっかり歩けるようになりました」 良かったね、とメールを返すと、更に返信が届いた。 「通っている病院の先生に、お灸を据えてここまで治りました、といったら、ビックリされてました。もう少し続けてみます」 魚の目には西洋医学より、東洋医学、お灸が勝るようだ。 私は、一発で治った。 もし皆さんの中に、もしくは、知人に、魚の目で苦しんでいる方いましたら、 是非、試してみてください。 子供の頃にされるお灸は恐怖です。 昨今の少年少女による凄惨な事件も、幼少時から、悪さをするとお灸の罰が待っている、 恐怖というか教訓は有効なのではないだろうか。 直接もぐさをつけてやると火傷の後が残って、虐待にとられてしまう恐れがあるので、 味噌を塗るのが味噌です……ぞ。 お後がよろしいようで。 あ、でも、お灸を据えて教えても、私みたいな失敗例もあるので、要注意ではありますが。 《エセコラ(19) 了》 |
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梅雨明け宣言以来、暑い日が続いております。
きょうのヒートアイランド東京は35℃を超える猛暑日を記録したそうな……。 夏大好きな私も、きょうは本当に、溶けそうでした……orz こんな日は当然、ビールが旨かろうね♪ これから夜の散歩に出掛けようかな♪ さて、きょうのエセコラは、相撲の話しを。 【エセコラ(18)】 『横綱白鵬の相撲に陰りをみた』 私は、自他共に認める相撲好きなのだった。 相撲好きのきっかけは、なにだったか、と思い出すと、 亡き祖父の顔が浮かぶ。 私はそのとき駒沢に住んでいた。 祖父は、福岡の川と山に囲まれた田舎町、母の故郷となる、筑後からやってきた。 祖父はとてもお洒落な人だった。 商売で洋品店を一代で築いた人でもあったから、仕入れと称しては、 しょっちゅう東京にやってきていた。 その度に、身内で唯一東京に住んでいた母の家、つまりは私の家に泊まっていくのだった。 私が小学五年生のときだった。 遊びたい盛りの私は、学校から帰宅するやいなや、ランドセルから野球のグローブに持ち代えて、 クラスのみんなが集まる、近くにある駒沢公園に行くのが、当たり前であった。 野球をやりたくてやりたくて仕方ない頃だった。 祖父が来ていたときも、その日課は変わろうはずもなく、 ただいま♪ 行って来ま〜す♪ の勢いでグローブ片手に外に向かって走り出していた。 あんた待ちなさい! と母の声に私は止まるしかなかった。 「きょうはこれからおじいちゃんを相撲に連れていってあげて」 と母はいった。 え〜! 野球の約束があるんだよ。 と私は当然いう。 「おじいちゃん、まだ国技館で相撲観たことないのよ。おかあさん忙しいから、一緒に行ってあげて」 私は、おじいちゃんも大好きだったから、せっかく東京まで自分たちに会いに来てくれているんだし、 きょうはおじいちゃん孝行するか。 なんて、そのとき小さな私が思うわけもなく、本当に渋々行った、と思う。 小学五年生とおじいちゃんの駒沢から当時浅草橋にあった蔵前国技館までの、 なんとも奇妙な旅が始まった。 その頃はまだ新玉川線も走っていなかった。 バスで渋谷に出る。 渋谷から緑の電車(国鉄山手線)で秋葉原に出て、 黄色い電車(総武線)で一駅目の浅草橋で降りて、 蔵前国技館まで歩いたのだった。 当時七十のおじいちゃんには、かなりきつかったろう、と今更ながら思う。 そうまでして相撲を観たかったんだなあ、と今更ながらに思う。 私は低学年の頃から、一人で銀座の三越へ、当時流行っていた手品の実演販売をみにいったりしていて、 電車の旅には慣れていた。 さて、着いて座れた席は、二階席だった。 大きな力士たちも小さく見える席だったが、祖父も私も大興奮だった。 憎らしいくらい北の湖が強かった時代だ。 人気は貴の花、輪島。 この日以来、私は、相撲に熱中した。 中学に上がると、野球の傍ら、相撲の稽古もしていた。 まわしをつけてやっていたのだった。 高校にそのまま上がるか、相撲部屋に入門するか、真剣に悩んでいた。 中学三年のときの身長が、170。 体重は、僅か、53。 当時の入門資格が、170の70。 身長はクリアしていたが、体重は17もたりなかった。 そのときとった私の行動は、晩御飯、どんぶり飯、五杯を食べ続けた。 およそ二月経った頃、母親の雷が落ちた。 あんた! いい加減にしなさい! そりゃあ、そうだ……。 食費だってバカにならない……。 二月どんぶり飯、五杯食べて増えた体重は……。 ゼロ、だった。 そう、53のままだったのだ。 ああ、自分は太らない体質だったんだ……。 と相撲への道を諦めた瞬間だった。 ちなみに、いまは、173の68だ。 体重の最大値は、27歳のとき、78だった。 決して太れない体質ではなかった……。 まあ、脂肪ですが。 それほど、野球の練習が厳しかった証しでもあると思う。 この私の入門騒動で残ったものは、48歳にして未だ大食いである、ということだ。 胃が大きくなってしまったのだった。 だからなのだろう、ビールも底無しに近く入るのだった。 さて、さて、前置きが長くなったが、 最近の横綱白鵬の相撲は、自称相撲博士の目からすると、 大変心配である。 ここ二年くらい前から、立ち会いの張り手が多くなった。 いや、多すぎる。 張り手は、いわば奇襲である。 横綱が奇襲をかける、一般には、横に変化するものが多いが、 張り出しも同じだ。 普段からの稽古で奇襲はしない。 それが本番で出てしまう、ということは、自分の相撲に自信のない証拠である。 白鵬がいま正に、ここにある。 きょうも希勢乃里に負けた。 勝利をほぼ手中にした土俵際、勝負を焦り、小手投げ気味に突き落とされた。 優勝29回を誇る大横綱に、私は一種の陰りを感じた瞬間だった。 取り組み前の相手を威嚇する表情も気になる。 弱い自分を大きく強くみせたい、虚勢にみえる。 この大横綱の隙を誰か見抜いて、追い抜くチャンスは、いまだ。 最近は相撲人気は底辺の底辺にある。 でも、私はいまでも相撲大好きだ。 祖父が生前、亡くなるまで、病床で話していた言葉を聞かされた。 ひかるに、国技館に連れてってもらったのが、とても嬉しかった……。 そのときも、またもや私は、泣いた。 《エセコラ(18) 了》 |
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先日、雨降りの中、中華街へ、数年振りに行って来ました。
そのときの話しを。 【エセコラ(17)】 『中華街の今昔』 先週のこと、雨降りの平日、横浜中華街へ行ってきた。 連れはかみさん。 彼女と数年前に訪れて以来の横浜中華街である。 この門をみると、中華街へ来た、と思わせてくれる。 門をくぐれば、日本にいて中国文化に触れられる。 この日、雨降りの平日のせいか、昨今の日本と中国との間で起こっている、嫌日、嫌中国のせいか、 人通りは、かつてほどの賑わいはなかった。 中華街の料理は、以前には高いイメージがあったが、 いまは、二千円以下で食べ放題が主流のようだ。 私たちもそれに違わず倣い、1980円時間無制限の食べ放題にした。 少し摘まんでしまったがこんな感じの料理だ。 味は良いのか悪いのか私の舌では測れないが、 値段相応なのか、とも思う。 一時間くらいしか居なかったと思うが、お客は疎らだった。 時間も夕方の5時前後と早かったかもしれない。 満腹の身体で、二人街を歩いた。 五メートルおきに近寄ってくる人がある。 甘栗屋さんの店員さんだ。 かみさんは、甘栗には興味ないのだが、その軒先に販売されている唐辛子のストラップが欲しいようだ。 一個50円と安価である。 中国では唐辛子は縁起が良いとのこと。 幸運を呼び込む、とされている。 私は六つ買った。 300円。 小銭の持ち合わせがなく、千円札を出した。 甘栗売のお兄ちゃんがお釣りで甘栗こんだけサービスするよ♪ と、お釣りくれる気配なく、甘栗二袋ついてきた。 なかなかの商売人である。 彼にとっては、唐辛子は正に幸運を呼び込んだわけだ。 唐辛子のストラップも売れて、甘栗も売れて。 中国坊やがいた。 なんとも可愛らしい。 最後、かみさんは、チャイナドレスを二着買った 色が気に入ったようだ。 一着1500円とお安く手に入れたが、 家に帰って試着してみると、お腹の出っ張りが目立って、 これじゃ、着れない! と、彼女はかなりの落ち込みようだった。 ちゃんと買う前に試着すればよかったのに、 と思うが、あえて口には出さないでいよう。 その前に、そのお腹引っ込めたら? と思うが、これこそいえない……。 いとこにあげるからいい、 と独り言をいっていた。 日本で働く中国人には、そうは悪い人はいないし、 嫌日の中華街などありはしない。 行けばいまも昔も楽しい街である。 こんどは夜の中華街を楽しみに行こうと思う。 《エセコラ(17) 了》 |
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【エセコラ(16)】
『男は皆マザコンなのでした』 私は、恥ずかしげもなくいってしまうが、マザコンです。 いいえ、正確にいうと、おかあさんが大好きなのでした。 マザコンというと、イメージとしては、どうしても、 気持ち悪いとか、 なよなよしている、 みたいな、マイナスのイメージになる。 でも大方は、おかあさんが大好き、 という世の男性が殆どと思う。 勿論、女性もだ。 私の職場で、たまにこういうことがある。 それは、休みの電話に、母親がかけてくる、というものだ。 息子が体調を崩して、きょう休みたいといっている、 と母親からかかってくるのだ。 きっとバツが悪く自分でかけられず、母親に頼んでいるのだろう。 これはマザコンでも冒頭申した、 気持ち悪い部類のマザコンだ。 要は、甘えているのだ。 これは社会人として頂けない。 私は、二度いってしまうが、おかあさんが大好きなだけのマザコンだ。 私の母は、美しかった。 今年御歳73になったが、いまでも充分きれいでいてくれている。 自慢の母だ。 中学生のころ、私は夜になると、何故だったのだろう、 いますぐにも母が死んでしまうことを想像してしまっていた。 その度に、ワンワン泣いていたと思う。 母がいつか、いなくなってしまうことへの恐怖だった。 変に感受性が強かったのか。 そんな大好きな母だったが、中学生から高校へ上がるころ、 反抗期を迎える。 クソババア呼ばわりしてしまった。 きっと母も泣いていたことだろう。 好きなものも一旦自ら距離を置く。 これは子供から大人に駆け上がるに、子供にも、そして親にも必要なことだったと思っている。 母も子離れする、それが必要だという気付きを覚える。 そういう機会を与えるのが、反抗期なのだと、いまはわかる。 お互いに、母と子が依存し合ってはいけないのだ。 この離れた時期を経てこそ、その間に、無償の愛が生まれるのだと思っている。 私には実子はないのだけれど、 先日ここでも取り上げた連れ子との私との関係は、 正に、この反抗期を経てこそあるような気がするのだ。 無償の愛を育てることができた、と思っている。 さて、先日のこと、母が、 絵を描いたの、 と私にみせた。 これがその母の描いた絵だ。 モデルはうちの三匹目の猫、バンくん。 なかなか、うまく描けてるよ、 と私。 でも、なんか変? そう、傘立てに入っている傘の角度が……。 母は、バレた? と笑う。 傘が傘立てから突き抜ける角度になっていた。 母は昔から絵が好きだった。 小さい頃は、私や弟の似顔絵を描いてくれていた。 いまでも宝物だ。 もう一枚あるの、 と母。 いつも散歩やシルバー学習で通っている、 近所の日本女子大の正門から校舎へと続く並木道の秋の絵だ。 うん、なかなかだよ。 折角だから、絵と一緒に記念撮影、 とカメラを向けると、 化粧もしてないのに恥ずかしい、 と母。 73でも女性なのでした。 いままで、いっぱいいっぱい、苦労かけたね。 ごめんね。 でもね、いや、だからかな、 やっぱり私は、おかあさんが大好きなのでした。 やっぱり、私って、変だろうか? 《エセコラ(16) 了》 |



